字を書く女たち

huang-se

第1話

 いまだ喉は狭い、自ら声を押し殺し、自ら潰してきた代償であるかのように、今まさに自分から首を締めようとしているようだ。息はできている。だが苦痛はそこに在る。固く、確かに。痛みを無視するな、と身体が示しているのに他ならない。


「どこか、ないかな」


 おもむろに呟いてみる。何に対して、どこかを探しているのか自分でもわからない。ただ、そのどこかは”あれら”のいない場所であることだけは確かだった。


 月だけが、やけに明るい。これだけ街灯に照らされた道で「月のほうが明るい」なんてことはないはずだが、そう感じずにはいられなかった。そしてその明るさが、惨めなほど身にしみる。もう少しあの月がよく見える場所はないか。ふらつく身体を、頼りない一艘の船を漕ぐように動かし、月がよく見えそうな場所まで歩いた。 



 事の発端は、私の成功が同時に私への刃へと変わったことだった。私、藤館香子ふじしろこうしは、いまやその名を聞けば誰もが「ああ」というほどに知れ渡る名である。私の書いた小説『梅見物語』が受賞したからだ。書店に行けばそれこそ話題の書としてわかりやすく平積みにされているような状況だし、そういう本は興味を持たれずともいやでも目にし、いやでも記憶にとどまる。そんな、いやでも誰かの記憶にとどまるような本の作者が私である。そんな作家になれたことは素直に誇らしいが、正直プレッシャーでもあった。そんな本を書く作家は、次もまた素晴らしいものを世に出してくれるに違いない。次もまた我が社に金運を呼ぶだろう。作家本人の状態など構わずそんな期待を寄せられる。そりゃあそうだろう、と自分でも思うから仕方ないとは思う。でも、そんな期待とは裏腹に、私の筆は進まないし、インタビューであれこれ聞かれるのも疲れた。そんな矢先に、”あれら”に遭遇してしまったのだ。次回作の相談と取材打ち合わせのために出版社へ向かった。打ち合わせを終え、トイレに立ち寄った。そしてトイレから出て、廊下に向かったときに”それ”は聞こえた。


私の受賞はまぐれだ。

私の受賞に実力など反映されてない。

私が出版社に買われたのは、所詮コネだ。


ここまでは予想済みといえた。しかし。


私は審査員に身体を売ったのだろう、とか。

あの小説の内容を見ただろ、いいとこのお嬢さんほどああいうことに興味津々なんだろう、って。


こういうのを、まさか直接耳にするとは思わなかった。


 全身の体温がどんどん冷めていくのを感じる。下卑た笑いが聞こえる。口にすることすらおぞましいことを、わざわざ私の身体を介して話題にする。耳に入れたくもないような、この世にこんなに醜い音があるのかと思うような汚らわしい話し声がする。そんなものが私の鼓膜を震わせるのが、耐え難いほど苦痛だった。冷めていく血は身体中の脈という脈を騒がせ、声にならない声は喉の奥でどんどん膨れ上がり、私の首を締めていった。気がつけばやけに熱い水が眼を覆い視界を曇らせた。なるべく誰にも見つからないように、静かに出版社をあとにした。



 やけに眩しく感じる月の明かりにすがるようにして、「私」の入れ物を漕ぐ。身体は船のようだ、と時々思う。特にこんなふうに心だけが際立ってなんとか私の形を保っているような時は。身体だけ捨てられても心だけが生き残るんだろうか。それとも、入れ物も生きてるから苦しいんだろうか。この痛みは、身体と心がつながっているゆえか。何を思おうと、どちらも切り離すことはできないようだ。


 歩きながらちらと、ショーウィンドウに映る自分の姿を見る。泣きはらした顔。風にわずかに揺れる長い髪。動きにくいくせに身体に沿うような形をつくるブラウス。美しい植物模様と高級な生地で出来ているのにもかかわらずしっかり糸くずを出すスカート。歩けば痛みを伴うのに周囲から称賛を浴びるヒール。風を防ぐには何故か頼りないキレイな淡い紫色のコート。側面に和柄の入った肩がけの妙に重たい合皮のかばん。身につけているものは、どれも私のお気に入りで、いつも私の気分を良くさせてくれるものばかりなのに、今日に限ってはそのどれもが私をみすぼらしくさせているように見える。服に合わせた化粧もすっかり落ち、私の心境は最悪で、なのに服だけが春みたいに鮮やかで華やかで、ひどく滑稽に映った。寧ろ、それらすべてが私の惨めさに拍車をかけているようだ。


「はあ」


ため息にもならないため息をつく。周りを見渡すと、普段は通らない道であることに気づく。都心にしては随分高いところまで来たようだ。おかげで街灯よりも月がよく見える。どこか座りたい。休みたい。そんな心に応えるように、あるものが視界に入った。木に囲まれた建物だった。明かりがついている。藤館香子は建物に近付く。どうやら店のようだ。


「どうせ帰る気もないし」


そう言って店のドアを開ける。店内は静かで、藤館以外に客はいないようだった。やわらかな明かりと暖気が、惨めな心身を包む。


「こんばんは、いらっしゃいませ」


女性の声だ。店主と思しき女性が姿を表す。藤館香子の全身が告げた。ここは安全などこかだ。


「あ、ええと、まだやってますか?」


「はい、一応。お客さん初めてですよね?まあどうぞお好きな席へ。なにせ今日は幸か不幸か、空いてますから。」


「は、はい」


促されるままに店内に歩を進める。


「窓際カウンター席はどうです?今日は一段と月がよく見えるはずですよ。」


「では、そうします」


席に座る。窓からは確かに月がよく見える。そして外からは気が付かなかったが、窓の向こうに日本庭園があった。奥の方に見える木は梅の木だろうか。


「何にします?といっても夜は軽食とアルコールしかないんですが」


手渡されたメニューに目を通す。たしかに酒くらいしかなさそうだ。ここはバーだったのか。藤館は普段あまり酒を飲まない、だから特にこだわりもない。とりあえず目に止まったものを注文した。


 待っている間、店内を見渡してみる。どうやら店内自体はそこまで暗くない。この窓際カウンター席だけ、月明かりがよく見えるように暗めにしてあるようだ。店主は月見のためだけにこの席を設計したのだろうか。などといったことを考えている間に酒が来た。


 店主は淡々としている。店の目玉である月見を堪能してほしいからなのか、それとも藤館の心境を悟ってほうっておいてくれているのか。いずれにしても、今の藤館にはありがたいことだった。店内の暖気と静かな雰囲気、月明かり、そして酒からただよう米の芳香が藤山の心身を和ませた。酒を飲んでみる。旨い。口内に米の甘い香りが漂う。喉が焼けそうなひりつきが通る。それが寧ろ締め上げた喉を緩めてくれるようで丁度いい。普段飲まないからよく回る。もう少し飲んでもよさそうだ。なにせ、月が明るいのだし。そのまま調子づいて何杯か飲んだところで、思わず口ずさんでしまった。


「慨当以慷 憂思难忘 何以解憂 唯有杜康か。昔の人もこんな感じだったのね。」


「青青子衿 悠悠我心 但为君故 沉吟至今」


「え?」


藤館は驚いて声のする方へ振り向く。いつからいたのだろう、同じカウンターに店主とは別の一人の女性が座席を2個分空けて横に座っていた。


「短歌行ね。個人的には峨眉山月の気分だけど・・・」


「漢詩をそのまま読めるんですね・・・」


「あなたも、ですね」


藤館は漢詩を中国語でそのまま読んだこと、漢詩の続きを返してきたことにも驚いたが、その女性の容姿にも少し驚きたじろいだ。かなり短いこげ茶色の髪、無化粧、深緑色のロングTシャツ、黒いジーパンに黒いスニーカー。装飾という装飾をほとんどしていない。だが、その骨格も声も、横に座っている人物が女性であることをはっきりと示していた。普段の藤館なら話しかけない、友達にはいないタイプだった。


「オスのせいだろ」


「は?」


「女性が酒のんで詩読むくらいやつれる理由なんてひとつ、オスに生きる気力を吸い取られたとき」


「はは・・・そうかも、しれません」


女性がおもむろに”オス”という単語を出してきたことに藤館は少々引いたが、半ば爽快感を得てもいた。実際図星だった。普段なら苦手意識を持って関わりを避けようとするだろう。だが、こんな時でもなければこんな人と関わる機会はないだろう。そして何よりも、藤館はようやく、人に話してみたい気分になれたのだった。


「ただ、歩いてただけで」


「うん」


「歩いてただけで、なんで気分の悪いものを聞かなきゃならないんでしょうか」


「なにが、とは言わないけど、よくある」


「なんで、わざわざ・・・女性の身体を介すんですかね」


「あれらは恥知らずの悪性動物だから」


言い過ぎでは、と思う気持ちともっとそういう言葉を言ってほしいと思う気持ちが混ざり合う。おそるおそる言葉を紡いでみる。


「私の文章に、不出来なところがあるのとかは、わかるんです、でも…」


「関係ない”女”まで巻き込むのは我慢ならんよな」


「ほんとに、そうです」


「たいしたもん書けないくせに、すぐ女貶めるんだよな」


藤館は激しくうなずいた。どうしてこの人はこんなにわかるんだろう。あの現場にいたわけじゃないのに。全部話したわけじゃないのに。いや、本当はその理由を知っている。だってこの人は「女性」だから。同性だから、少なくとも同じ船に乗っているから。その身を持つがゆえに向けられるものを、自分がそこにいなくてもわかるから。いや、その身を持つがゆえに、自分がそこにいなくてもその場に引きずりこまされるのだ。


「それより、さっきの詩ですけど」


「はい」


「漢詩をそのまま読めるってことは、他にも読めるのでは?なんなら中国語もそこそこできるんじゃないかと」


「ああ、いえ、嗜む程度です。あなたこそ、さらっと返してきたんですしかなりできるんじゃないですか?」


「あなたが嗜む程度ってんなら、わ…私のも、趣味程度ですね。はい」


一瞬”私”を言い淀んで別の単語に聞こえたような気がしたが、気のせいだろうか。とにもかくにも、痛みと嗜みを共有できるというのはなんとも気分がいい。酒の勢いも借りて今ならこのタイプの人とも友人になれるかもしれない。”あれら”に遭遇したのは紛れもなく最悪だったが、ここに来てこの人に会えたことだけは、私の幸運と言えるだろう。


「あの、よろしければ、お友達になりませんか。仕事の都合で最近は友人も少なくて、趣味が合う人もなかなかいなくて」


自分でも驚く。私がここまで他人と関わることに積極的になれたのはいつ以来だろう。相手に引かれてしまうかもしれないのに、酒とは恐ろしい。案の定相手の女性にも若干戸惑いが見える。でもそれ以上に、この女性との縁をここで終わらせるわけにはいかないと感じた。


「え、まあいいですけど…わたしもそんなにしょっちゅうは会えないですよ。不定期な仕事だし、あちこち移動してるし」


「寧ろ、私もそうなので」


「そうですか?じゃあ、とりあえずラインでも…」


「よろしくおねがいします」


こんな私達のやり取りを月がずっと照らしていた。それから夜が更けるまで言葉をかわしあった。話つかれた頃にはカラスの鳴き声がしてきた。さすがにそろそろ帰ってもいい気分になった。


「では、お先に」


「あ、ちょっと待って下さい、タクシーとか頼んだほうが」


「いや、でもそんなに家遠くはないですし」


そこへ、店主が声をかけてきた。


「タクシーならすぐ呼べますよ。うちで呼べば女性ドライバーしか来ませんから安心してご利用ください。」


なんと、この店で呼ぶタクシーのドライバーは必ず女性であるようだ。ただのバーにしては随分と配慮が行き届いている気がする。そういえば、こんな時間になるまで男性客を一人も見なかったような・・・。本当に、最悪な日に随分と幸運を手にしたようだ。


「では、お二人のお言葉どおり、タクシー使います」


勘定をして、また会う約束をしてから藤館は店をあとにした。


 惨めな出来事を忘れたわけではない。身体にまとわりつく不快感は消えない。それでも、気分は悪くはない。空はすっかり紫色の雲がたなびいていた。

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