第5話
カトレアを追いかけて一階に降りると、ダイニングの方から香しい匂いが漂ってきた。その香りに誘われて俺はダイニングへと足を運ぶ。
「鍋か」
ダイニングに入るとテーブルの上に置かれた土鍋が目に入った。その鍋からは白い湯気が立ち上り、俺の鼻腔をくすぐった。その香りで俺はにわかに自分の空腹を思い出した。
「来たね。まあ座りなよ」
その言葉と共にキッチンの奥からカトレアが歩いてきた。両手には木製のスプーンと金属製のフォークが二本ずつ握られている。
俺はカトレアに促されるまま席に着いた。目の前の鍋には山菜だか野菜だか分からない緑色の草と茹でられて薄茶色に変色した肉、細長く切られた根菜のような具材、大きめに切られた芋のような欠片が入っていた。
「ほら、君の分だよ」
カトレアは俺にフォークとスプーンを手渡すと正面の席に座った。
「それじゃあ、食べるとしようか。ほら、
「ああ、ありがとう」
カトレアは俺の器を受け取るとお玉でバランス良く具材を掬って器に取り分ける。俺の前に置かれた器の中には色とりどりの具材が入っていた。
「イノシシ肉って初めて食うな」
「へえ、君の元居た世界では猪はいないのかい?」
カトレアは自分の器に具材を取り分けながら片手間に尋ねた。
「いや、いるよ。あんなにデカくないし放電もしてないけどさ。この料理に似た牡丹鍋って料理もあるし。イノシシ肉自体があんまりメジャーじゃないだけ……かな?」
俺は説明しているうちにどんどん歯切れが悪くなった。正直なところ、猪に関する食文化の知識なんて他人に説明できるほど持っていない。まあ、この世界では間違いを訂正されることもないし、確かめる術もないだろう。頭の中でも覗かれなければ。
「なら、異世界で初めてのイノシシ肉ってことだね。まあ、元の世界の味を知らないってことは却ってフラットな気持ちで食べられるんじゃないかな」
「それもそうか。じゃあ、いただきます」
俺は湯気の立つ器を手に取り、フォークで具材をつついた。そういえば、フォークで鍋を食べるというのは初めての経験である。初めて体験するカルチャーギャップが異世界だとは思わなんだ。
フォークに刺したイノシシ肉を口に運ぶ。豚肉をイメージしていたが、一口食べた印象は全然違っていた。長く煮込まれていたためか、とても柔らかく口の中でとろけるみたいだ。結構脂が乗っているものの、鍋の味付けのおかげでさっぱりとしていて食べやすい。
「美味い……」
俺は感動して思わずそう零した。続けて野菜や根菜、芋をフォークに刺して口に運ぶ。それらを咀嚼しながら、スプーンでつゆを掬って口に含んだ。つゆは甘じょっぱい味の奥に香草のような独特な風味がして、食道を通って空っぽの胃に染みわたっていく。俺は腹を満たすように次から次へと具材を口に運び、あっという間に器を空にしてしまった。
「嬉しいね。料理なんて久方ぶりだったから比較的簡単にできる鍋にしちゃったけど、口に合うようなら良かったよ」
俺の食べっぷりを見たカトレアは満足そうに笑った。そういえば、家族以外の女性から直接料理を振る舞われたのは初めてだ。
「久方ぶりってことは普段はあんまり料理はしないのか?」
俺はお玉を手に取って鍋から自分の器に具材をよそった。
「ああ、最近は料理どころか食事もまともにしていないね」
カトレアはそう言って水菜のような野菜を口に含んだ。
「食事もしてないって大丈夫なのか?」
「食事も睡眠も生きるためには必要ない身体になってしまったからね。でも、意味がないわけじゃない。味も分かるし、食事や睡眠をとれば効率的に魔力を回復できるからね」
カトレアは大したことじゃあないという様子でそう言った。
「食事も睡眠も嗜好品ってわけか……」
俺はぽつりと呟いた。百年以上そのままの姿ということも、食事や睡眠が必要ないという感覚も俺には理解できないし、無理して理解しようとする必要もないだろう。魔物に魔法に魔女、この世界に来てから自分の常識外のものをいくつも目の当たりにして、そういうものに対する俺の反応は大分落ち着いてきたと我ながら思う。
「まあ、そういうこと。だから君は遠慮なく食べていいよ」
そのカトレアの言葉に甘んじて、俺はあっという間に鍋を平らげた。食べ終わってすぐは満腹による満足感を味わっていたが、それが落ち着いてくると俺の中にある思いが芽生えてきた。
「なあ」
俺は空になった鍋を片付けようとするカトレアに声をかけた。カトレアは俺の声に反応してこちらに目を向ける。
「雑用でもおつかいでもなんでも良いから俺にできることはないか? やっぱり、面倒をかけてばっかりで何もしないっていうのは申し訳ないし、なにより一度死んで生まれ直したこの世界で、俺は俺の役割を探したいんだ」
俺は真剣な眼差しをカトレアに向けた。世話になりっぱなしなのは心苦しいし、この世界で自分に何ができるのか試してみたかった。なにより、命の恩人であるカトレアのために、少しでも何かの役に立ちたい。
「へえ、結構義理堅いんだね、君。感心感心」
カトレアはこくこくと頷く。
「でもなあ……。雑用におつかいねぇ。何をお願いしようかな」
カトレアはそう言って少し思案する仕草を取った。
「そうだ、明日の朝に薬草の採取をしてきてもらおうかな。今日はもう日も暮れてしまったし、休んだ方が良い」
俺の気持ちを汲み取ってくれたのか、カトレアはあっさりした口調でそう言うと鍋を台所へ運んだ。
「あと、別に君は前の世界で死んだわけじゃないよ」
「え?」
不意にカトレアから発せられた言葉に俺は思わず聞き返した。
「君の頭を覗いた時にこの世界に来る直前の記憶も見ていたんだけどね、君が衝突する瞬間に時空が歪んで異次元に放り出されていたみたいなんだ。君が感じた衝撃はそれによるもので、衝突はしていないようだね」
「だから服にも体にも傷が無かったのか。それじゃあ、同じように元の世界に帰れるってことか?」
俺の問いにカトレアはかぶりを振った。
「可能性はゼロではないかもしれないが、私が知る限りではこの世界に異世界へ渡れる魔法や技術は存在しないよ。君がどうやってここまで来たのかを解明できれば何とかなるかもしれないが、君の記憶の映像だけじゃ解析は無理だね」
「そっか……」
カトレアが言うからには、少なくとも今すぐには元の世界に帰ることはできないのだろう。だが、死んだと思って考えてもいなかった元の世界に戻れる可能性があるということが分かっただけでも良しとしよう。
「すまないね、力になれなくて」
「いや、帰れるかもしれないって分かっただけでも十分だ。それより、洗い物を手伝わせてくれよ」
俺はそう言ってキッチンに向かった。
灯りを消した真っ暗な部屋の中、俺は目を開けたままベッドの上に寝転んでいた。食事の後に風呂をもらえただけでなく、しばらく使っていなかったらしい寝室まで貸してくれて、まさに至れり尽くせりといった待遇を受けた。何か裏がありそうだが、命を救われた挙句にここまでしてもらっては取って食われても仕方ないと思える。まあ、眷属にはされているが。
俺はゆっくりと目を閉じる。仮にカトレアが善意か気まぐれで俺にここまで良くしてくれたのなら、その恩に報いるだけの働きをしたい。いや、この世界でできることを探したいだの、恩に報いたいだの、理由をつけて動こうとしていたが、結局は不安を紛らわせたかっただけなのだろう。色々な出来事があって意識できなかっただけで、たった一人で異世界に来てしまったことで俺は心細さを感じていたのかもしれない。
元の世界に帰れるのか、帰れなかった場合はこの世界でやっていけるのか、不安は尽きないが身体を覆う疲労感がゆっくりと俺の意識を奪っていった。
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