第3話

「じゃあ早速だけど、しばらくそこで立っていてくれるかい?」


 カトレアのその言葉を聞いた途端、俺の身体はそれに従うかのように勝手に動き出した。


「ちょっ、なんだよこれ!?」


 俺は混乱して声を上げる。急に歩き出した身体はカトレアの指さす場所まで来ると、その場で直立して動けなくなった。自分の身体が完全に自分の制御外に置かれるというのは生まれて初めての経験である。それ故に動揺が隠せない。


「なに、ちょっとの間立っていてもらうだけさ」


 そう言ったカトレアがパチンと指を鳴らすと、突如虚空に木製の杖が出現した。彼女は自身の胸の高さくらいまである杖を持つと、その先端で俺の立つ周りの地面に何やら魔法陣のようなものを描き出した。


「これで良しと。後はこれを首から掛けてもらって」


 彼女はいつの間にか手に持っていた首飾りのようなものを俺の首に掛けた。魔法陣のようにかたどられた円状の飾りの下部に紐が括られており、その紐一本一本の先端にはなにかの毛と青色をした石の欠片が付いていた。その見た目はネイティブアメリカンだったかの魔除けであるドリームキャッチャーのような見た目である。足元に魔法陣、首にはいかにも魔術的な首飾りと、これから生贄の儀式でも始まりそうな空間が出来上がってしまった。


「一体どうするつもりなんだ?」


「どうするって、別に危害を加えるつもりはないよ本当に」


 俺の問いかけにカトレアは片手間で答えながら、杖を握って目を閉じた。すると、地面の魔法陣が輝きだした。


「多分動けないと思うけど、万が一そこから動いたら命の保証はできないから」


 カトレアはにこりと笑うと、白い光に包まれていった。


「おい! ちょっと待って! 一人にしないで!」


 俺は自由に動かせる首から上を必死に動かして叫んだ。しかしながら、彼女を包む白い光は次第に消えていき、彼女の姿も消えていた。気付けば、魔法陣の発光も収まっていた。


「置いていかれた……」


 俺は呆然と立ち尽くしながら力なく呟いた。話し相手がいなくなった途端、辺りが急に静かになったように感じる。それにより、先ほどまでは意識していなかった環境音もはっきりと聞こえるようになってきた。身体は相変わらず動かないので、できることも音を聞くか、首の動く範囲で辺りを見回すことぐらいだ。


 俺は諦めて立ち尽くすことにした。どういうわけか、ずっと動かずに立っていても疲労を感じることはなかった。まるで、本当に石になってしまったのかと錯覚するくらい俺の身体は不動を極めていた。


 不意に、俺の耳がある音を捉えた。風が枝を揺らす音。葉が擦れあう音。小鳥のさえずり。そんな音に混ざって聞こえたのは息遣いのような音であった。


「誰かいるのか?」


 俺は首だけで音のする方向へ振り向いた。


「うわっ!」


 俺の目線の先、少し離れた所にいたのは猪だった。だが、どうも様子がおかしい。まず、大きさが尋常ではない。さらに、口元から伸びた牙は鮮やかな瑠璃色に発光しており、帯電しているのか、バチバチとスパークが舞っていた。全身を包む赤黒い毛も全てが逆立っているように見える。猪を生で見るのは初めての経験であったが、目の前のそいつが明らかに普通でないことは俺にも分かった。


 猪は俺を真正面に捉えている。今にも突っ込んできそうな様子に、俺は思わず固唾を呑んだ。普通の猪でさえ突進されたら無事では済まないだろうに、あんな化け物じみた大猪に追突されたらそれこそひとたまりもないだろう。


「誰か! 誰かいませんか!」


 俺は助けを求めて必死に叫ぶが、その声に応じる者は現れず、ただただ俺の声が森の中に消えていくばかりであった。


「カトレア! 頼む、戻ってきてくれ!」


 第三者の助けが来ないと分かった俺はカトレアに助けを求めた。そもそも、この状況の原因である彼女に助けを求めるのは甚だ遺憾ではあったが、今はとても意地を張っていられる場合ではない。しかし、いくら呼んでも彼女が戻ってくる様子は見られなかった。


 俺が叫び散らしていると、大猪は地を蹴り、いきなりトップスピードで駆けだした。その体には雷をまとい、周囲の木々をなぎ倒しながらこちらに向かってくる。その様子に、俺の脳裏に事故の瞬間が浮かぶ。その時に俺に突っ込んできた車と迫りくる正面の猪が重なって見えた。


 俺は咄嗟に目を瞑って衝突の瞬間を待った。だが、少し経っても何も起きないまま、いつの間にか辺りは静かになっていた。


「――っ?!」


 俺が恐る恐る目を開けると目前には大猪がいた。しかし、そいつに先ほどまでの勢いはない。それどころか完全に静止してしまっている。手をのばせば届きそうな距離まで近づいていた大猪はカチコチに凍り、全身から冷気を放っていた。


「おお、成功したみたいだね」


 上から聞き覚えのある声がして顔を向ける。そこにはいつの間にか太い枝の上に腰かけているカトレアの姿があった。


「死ぬかと思ったぞ……なんだったんだよこれ?」


 俺は助かったことに胸をなでおろしつつも、元凶であるカトレアを半目で睨んだ。


「なにって、今日のおかずだよ。お腹空いてるんだろう?」


 カトレアはふわりと氷漬けの大猪の前に着地すると牙の付け根に手を掛けた。


「まあ本命はこっちだけどね」


 カトレアの手元が光り出したかと思うと、バキッと音を立てて牙がへし折れた。よく見ると牙だけは凍っておらず、折れてもなお仄かな光を発している。


「牙?」


「そうだよ。こいつ、雷猪ドナーイーバの牙は膨大な雷属性の魔力を含んでいるんだが、これが一本ほど工作に必要でね。ほら、もう一本は君にあげよう。ご褒美だ、お守りにでもすると良い」


 カトレアはもう一本の牙を折ると俺に手渡してきた。それを受け取ってから、俺はいつの間にか自分の身体が自由になっていることに気が付いた。しかし、右掌には相変わらず赤黒い印が残っている。


「まさか、眷属にされた上に身体まで操られることになるなんて」


 俺は不満を込めて呟いた。そんな俺の様子を見てカトレアは俺の顔を覗き込むように見た。


「怒っているのかい?」


「当たり前だろ。人を何だと思ってるんだ」


「気分を害したのなら謝るよ、すまなかったね。けど、これは君を守るためなんだ」


「守るため?」


 俺は存外素直に謝ったカトレアに面食らいながらも続きを促す。


「ああ、従属の紋は保護魔法の効果も兼ねているから、いざという時に魔力を持たない君を守れる。紋章から私の魔力が君に流れ込んでいるんだ。動けないようにしたのも、足元のトラップを発動させて氷漬けにならないように保険をかけただけさ」


「それでも餌というかおとりみたいな扱いをする必要はなかっただろ」


「ちょっと働いてもらっただけじゃないか。君の世界の言葉でいうなら『働かざる者食うべからず』だろ? 食料を自分で取ってこられるならまだしも、魔力を持たない君が自力でどうこうできたのかい?」


「う、それは……」


 俺はカトレアの言葉に少し納得してしまった。確かに、彼女の言う通りただ面倒を見てもらうだけというのは甘え過ぎだったかもしれない。


「……次からは前もって説明してくれ。助けてもらったことや行く当てもない俺を拾ってくれたことには感謝してるし、俺にできることなら何でもするよ」


 俺はため息交じりにそう言った。上手い具合に煙に巻かれたというか、してやられた感じはあるが、考えてみれば、あんまり突っかかって機嫌を損ねられると困るのは俺の方だ。自分の柄ではないが、今すべきことはできるだけ彼女に取り入って上手い具合に立ち回ることだ。少なくとも、この森に放り出されたら三日と生きていける気がしない。とりあえず、居場所を確保するためなら眷属にされるのも致し方ないだろう。


「おお、意外と素直だね。思わず感心してしまったよ」


 カトレアはあからさまに感心したかのような表情をした。そのわざとらしい態度に、俺は段々と彼女に対して胡散臭さを感じるようになってきた。いや、魔女と聞いた時点で多少の胡散臭さは感じていたか。


「あ、今胡散臭いと感じたろう? 君はすぐに顔に出るな」


 カトレアは思考を見透かすように半目で俺のことを見た。


「ほっとけ。あんたこそ、そのわざとらしい振る舞いはやめた方がいいんじゃないか」


 カトレアの指摘に図星を突かれた俺は思わずぶっきらぼうな態度を取ってしまった。元の世界にいた時から俺はよく感情が表情に出ることを指摘されていた。そのため、嘘を吐くのが下手で今までに人を騙せたことがない。


「いやぁ、久しぶりに人間と会話したから、今まで自分がどうやって人と接していたかあんまり覚えていなくてね」


 カトレアは俺の嫌味を気にも留めていない様子でそう言った。


「久しぶりって、やっぱり、魔女って人里から離れて暮らしてるもんなのか。どれくらい人と喋ってないんだ?」


 俺の質問にカトレアは顎に手を添えて「うーん」と考えるような仕草を取った。


「数えてはないけど、かれこれ百年くらいかな」


「百年?!」


 そう叫んだ俺の声は裏返っていた。その容姿からてっきり同年代だと思っていたのに、どうやら相当年上だったようだ。


「ああ、やっぱり同年代と思われていたのか。まあ、出会って間もないうちは見た目で判断するしかないから仕方ないね」


「……えっと、カトレアさんって呼んだ方が良いですか?」


「よせやい、急に態度を変えられるとむず痒いじゃないか。呼び方も態度も今まで通りで良いよ」


 俺がおずおずとした態度で尋ねるとカトレアは恥ずかし気に手を振った。


「さ、話はこれくらいにして、私の家に帰ろう。夕餉にしようじゃないか」


 カトレアは右手で手招きした。左手は氷漬けの魔猪に添えられている。どうやら、先ほどの転移魔法を使おうとしているようだ。


「ああ」


 俺はカトレアの傍まで行き、彼女の手を取った。その手はやはり、百年以上生きているとは思えないほど滑らかでハリがある。そのまま目線を上げて彼女の顔を見ると、俺の目に映る彼女の姿は紛れもなく十代の少女であった。不老不死だか不老長寿ってやつだろうか。カトレアについて知れば知るほど、彼女が本当に魔女なんだということがひしひしと感じられる。


 俺が半ばカトレアに見とれていると、眩い光が俺たちを包んでいった。

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