第3章

ページ19 撮影

『もしもし、雅くん?』


『……どちら様ですか?』


『あっ、佐渡川文庫の沢咲と申します……って違う! 大変よ!』


 珍しくノリツッコミをする沢咲さん。


『なんで電話してきたんですか? 


 こっちはせっかくの土曜日で久しぶりに寝坊しているところを担当編集の沢咲さんに起こされたんだ。


 いつものだったら、今度こそ担当編集を変えてもらう。


『早く着替えて来て! 至急よ!』


『嫌です!』


 そう、俺は何度も沢咲さんの「至急」という言葉に騙された。


 至急って呼び出しといて、結局別に緊急を要することじゃなかったりする。


 毎回それに振り回される俺の身にもなって欲しい。


『えっ? 反抗期?』


『違います! 用事を先に言ってください!』


 沢咲さんの「反抗期」という言葉に、俺は若干苛立ちを覚えた。


『えりこちゃんの撮影よ!』


『それが俺となんの関係が?』


 確かに、えりこは今は俺のラノベの宣伝を手伝ってくれている。いわゆるパートナーのような関係だが、それはあくまでラノベに関する話だ。


 ラノベの仕事を除けば、ただの他人……


 だから沢咲さんにえりこの撮影があるから大変って言われてもまったくピンと来なかった。


『取材だよ! 取材!』


『取材?』


『えりこちゃんってこの春、ドラマの主演に抜擢されたんじゃない?』


『それは知ってるけど』


『えりこちゃんの撮影現場って滅多に見れないじゃない?……じゃなくて、雅先生の作品のためになるかと思って、編集長に取材の申請を出したんだよ』


 このポンコツ新卒編集が……自分がえりこの撮影現場を見たいがために、俺をダシに使ったのか。


 しかも、こういうときだけ俺を「先生」と呼ぶのだから。


『そんなエゴに加担するつもりはありません』


『そんな、雅先生が来ないと取材にならないから、撮影現場に入れないのよ!』


『知るか』


 思わず心の声が口に出た。


『こうなったら……』


 沢咲さんは少し間を置いた。


『えりこちゃんの着物姿は画面越しでしか見れないのか~』


 ま、待って。


 これは罠だ。


 俺を釣るため、沢咲さんが仕掛けた罠に違いない。


 俺も高校三年生だ。そんなにちょろくはない……


『取材の件、承知しました』


『やったー! じゃ、今すぐ旭出橋あさひでばしに来て~』


『はい!』




 旭出橋はいわゆる「さくら橋」の正式名称だ。


 地元の人は「さくら橋」と読んでいるが、沢咲さんはこの近くに住んでいないのだろう。


 今回の撮影にさくら橋を使うのは初耳だ。


 えりこが主演の春のドラマは毎話欠かさずに見ているが、来週放送される話の撮影場所がまさか家の近くだなんて。


 にしても、えりこの着物姿か……すごく、楽しみだ。


 クローゼットから、琴葉に選んでもらって買った服を見繕って着替えた後、俺はさくら橋に向かった。




 梅雨の季節になり、ここんとこはずっと雨が降っていた。


 雨模様の空。今にも紫色の紫陽花を細い線が過ぎりそうだ。


 さくら橋に近づくと、撮影現場らしい道具が設置されていた。


 そういうのに詳しくないから、カメラや照明以外のものの名前は分からない。


「遅い~!」


 遠くで、デートに遅れてきた彼氏に怒っているみたいな感じでブンブンと手を振っている沢咲さんが見えた。


「今日はどうもありがとうございます」


 沢咲さんの近くまで歩いて、あくまでこのポンコツ編集とは仕事上の付き合いだと主張するために、俺はいつもより丁寧でよそよそしく挨拶した。


「雅くん、ほら見て! えりこちゃんだ!」


 沢咲さんの指さすところに、着物姿のえりこがいた。


 橋の上から川を眺め、考え事に耽っている様子。


 えりこが主演のドラマはいわゆる身分差の悲恋。


 この時代にほんとに存在するかどうか分からないような名家の娘―ゆりは、家柄に囚われるのに嫌気がさして、一人暮らしを始めた。


 そんなゆりの前に、普通のサラリーマンの男―ひろが現れた。


 自分を特別扱いしないひろに、ゆりは徐々に思いを寄せるようになる。


 だが、ゆりと家が交わした契約はあくまで一人暮らししてもいいというものだった。


 交際の自由はその契約に含まれていない。


 政財界の御曹司やほかの名家の息子こそゆりの交際相手にふさわしいと考えるゆりの親は勝手にゆりの住んでいるアパートを解約して、ゆりを家に連れ戻した。


 ひろに行方を告げずに連れ戻されたゆりはただ家の近くの橋でひろのいた遠い場所を眺めることしかできないというのは今回の内容だ。


 撮影はもう始まっているらしく、えりこはいかにも名家の娘という出で立ちでさくら橋の上に佇んでいて、そしておもむろに顔を上げ、曇天を見た。


 その頬を雨ではない何かが横切り、顎をつたい、地面に滴り落ちた。


 ひろには申し訳ないけど、正直、俺は美しいと思った。


 誰かに思いを馳せ、涙を流しているえりこの姿は初めて見た。


 それが演技だとは知っているけど、それでも感動せずにはいられなかった。


 初めて見たえりこの表情。今だけここにいる人たちと独占出来た気がする。


 この話が来週テレビで放送されたら、えりこはまた「みんなのえりこ」に戻ってしまう。


 みんなはえりこの演技に感動し、その涙でもらい泣きをし、ゆりの実家がゆりとひろを引き裂いたことを恨むことになるだろう。


 ただ、今だけ、えりこは1枚の絵として、俺の心の中のフレームに収まった。


 水色を基調に、色鮮やかな花が縁取る着物はえりこにとても似合っていた。


 俺はまた、自分がえりこに恋していることを再認識させられた。


 今この瞬間だけでもえりこを独占したいと思ったのは、間違いなく彼女に恋している証明なんだと思う。


 そういえば、えりこから借りたコートを持ってくるのを忘れてた。


 でも、持ってきたとしても、みんなの前で彼女に返したら迷惑になるだろう。


 スキャンダルまではいかないとしても、関係を疑われてしまっては、えりこのイメージに泥を塗る恐れがある。


 アイドルに男の気配はあってはいけない。それだけの理由。


「来たよ」


 隣の沢咲さんは小声で俺にひろの登場を告げる。


 遠くから、いかにも走ってきたようなもう1人の主演― 皐月翔さつきかけるが汗を垂らして拳を握りしめてゆりの名前を叫んだ。


 演出だろうけど、ほんとに走ってきたんじゃないかと思うくらい、ひろは息切れしている。


「ゆり!!」


 ひろの叫びを聞いて、ゆりはゆっくりと振り向く。


「……ひ、ひろ?」


「ゆり!!」


 ゆりの名前を叫びながら、ひろはゆりに近づく。


「ひろ……なんで?」


 ゆりは戸惑い、ひろがこの場にいるのは夢じゃないかと思っているみたい。


「探したから……」


 それだけ言って、ひろはゆりを抱きしめた。


 そして、俺の心が傷んだ。


 ドラマなのは分かっている。撮影だからしょうがないのも分かっている。


 それでも誰かがえりこを抱きしめているという事実は俺の胸を締め付けた。




 撮影はそれから30分くらい続いた。


 監督の「カット!」という合図で、撮影は幕を閉じた。


 正直それからの撮影の内容は頭に入ってこなかった。


「えりこちゃん、ほんとに演技上手いね~」


「……そうですね」


 沢咲さんの歓声に適当に返事をする。


「あれ? 雅くん、元気ないみたいだよ」


「そんなことないです」


「……」


 そう返事すると、沢咲さんは黙った。


「お姉ちゃんが慰めてあげようか♡」


 と思ったら、いつもの沢咲さんだった。


 本気でお願いしようかな。


 えりこは俺の彼女じゃないし、まして撮影で男に抱きしめられても俺に言えることはなんもない。


 じゃ、俺は堕落しても、えりこに言えることも何もないはず。


 沢咲さんと一緒に堕落しちゃえば、痛みもなくなるはず。


 そう考えている時に、ひろの役者である皐月翔はえりこに近づいた。


「ねえ、えりこちゃん、これから一緒にご飯食べに行かない?」


 軽々しい言い方。それは俺を苛立たせた。


 皐月翔はいわゆるイケメン俳優で、しょっちゅう映画やドラマに出ている。


 20歳という若さとそのあまりのカッコ良さに、一般人だけじゃなく、何人かの女優も彼のことが好きってテレビで公言している。


 そんな彼がえりこに惚れているのは、えりこに惚れている俺からしたら一目瞭然だった。


 認めたくないが、見た目と身分ならえりこと釣り合っている。


「ごめんなさい! これから仕事があるんだー」


「別の仕事? えりこちゃんの撮影はここまでだろう?」


「その、撮影じゃなくて、別の仕事~」


 そう言って、えりこは皐月翔から離れた。


 そして、えりこの向かう先は……


「雅先生! お待たせ!」


 びっくりした。


 俺がここいることに、えりこは気づいていたんだ。


「あれ? えりこちゃん、今日は私たちと打ち合わせの予定はないはずだよね?」


 沢咲さんの言う通り。


 今日はただ、取材のためにえりこの撮影現場を見に来ただけだ。


「何言ってるんですか? まだまだ『冴えない僕とアイドル』の第2巻の宣伝があるでしょう?」


 そう言って、えりこは俺の手を引いて、スタック達にバイバイと手を振って、歩き出した。


「え、えりこさん、それはまだ先の話で……」


「ファミレスでご飯食べよう?」


「それって仕事じゃないんじゃ?」


「だめ?」


「だめじゃない……」


 俺の返事を聞くと、えりこは俺と手を繋いだまま撮影現場を後にした。


 さっきまで曇っていた俺の心に日差しが指した。

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