ページ17 熱
なんで?
意識が覚醒しているのに、瞼が開かない。
まさか、金縛り……?
そう思うと、確かに体が重い気がする。
金縛りって幽霊の仕業って聞いたことがあるような……いや、まさかな。
きっと科学的な根拠がある……よね。
急に背中に悪寒が襲う。
これはきっと自分の想像に冷や汗をかいただけだ。
霊的なものじゃない……はず。
「雅、まだ寝てんの? 学校に遅刻しちゃうわよ」
琴葉か。
俺が遅いから起こしに来てくれたのか……
そんなことより、早く俺を幽霊から助けてくれ!!
そう思っても言葉が出ない。
「雅、どうしたの? 口をぱくぱくさせて。てか起きてるならさっさと着替える!」
違うんだ、琴葉。
俺は今幽霊に取り憑かれて動けないんだ。
心の中でそう訴えてる時、急に額になにか柔らかい感触がした。
「雅! あんたどうしたんだよ! すごい熱!」
熱?
琴葉の言葉を一瞬理解できなかった。
そう言われてみれば、体の節々が少し、いやかなり痛い気がする。
おまけにだるい。
ということは、瞼が開けず、声が出せないのは幽霊の仕業じゃなくて、単に俺が体調を崩しただけなのか。
よかった……幽霊じゃなくて、そんなもん最初から存在しないと思ってたし。
って、良くない。
すごいしんどい。
誰かにマグマに投げ込まれたように体が熱い。
こうなった理由は……考えられるのは、原稿が仕上がって、イラストも無事に納品されて、キャッチコピーも決まって、あとは『冴えない僕とアイドルな彼女』の第一巻が6/30に発売されるのを待つだけになったから、気が緩んで風邪を引いたとかかな。
こうやって『冴えない僕とアイドルな彼女』の第一巻が猛スピードで発売することになったのは編集長の後押しによるものが大きい。
編集長は本気で俺の作品を気に入ってくれたようで、そもそも文芸じゃなくてラブコメとして書籍化してくれって言ったのも編集長が『冴えない僕とアイドルな彼女』を、主人公とヒロインのやり取りを読んでいて微笑ましい作品にしたいという願望によるものだって後から沢咲さんから聞いた。
もともとの『冴えない僕とアイドルな彼女』は少し哀愁漂う作品だった。
編集長が主人公に自分を投影していて、主人公に幸せになって欲しいという気持ちは素直に嬉しい。
これもえりこのおかけだ。彼女の言葉で、俺の文芸へのこだわりが消えたのだ。
全てが順調に行ってるから、張り詰めていた神経が緩んでしまってこうやって熱を出したのかもしれない。
「もうしょうがないな。タオルを持ってくるね」
「そ……ち……う」
それじゃ、琴葉は遅刻するんだろうと言おうとしたが、声にならなかった。
「遅刻はいいの! 病人が心配することじゃないよ」
少し感動した。
そんな自分でも何言ってるのか分からないようなちぐはぐな言葉を、琴葉は理解してくれたんだ。
しばらくすると、頭にひんやりした感触がした。
琴葉が氷で冷やしてくれたタオルだろう。
「今はそれで我慢してね。仮病で早退するから、ちょっと待ってて」
「そ……も……よ」
「いいよ、申し訳ないなんて思わなくても。大事な幼なじみだから」
目が少し潤んだ。
いつもその綺麗な足で俺を踏んづけているあの琴葉はやたらと優しく感じる。
「早く治ってね」
そう言って琴葉は俺の手を握ってくれた。
目が開けられないから、琴葉がどんな顔しているのかは分からない。
琴葉が部屋を出てからしばらくして、とてつもない孤独感が俺を襲った。
病気の時は気持ちまで弱くなるってのはほんとだったんだ。
というか、お母さんはなんで高熱出してる息子を放置してるわけ?
専業主婦だから家にいるはずだよね。
「ただいま!」
そう考えていると、ドアを開けた音と琴葉の声がした。
こういうことか。
お母さんは俺の看病を琴葉に全部任せたのだろう。
「琴葉ちゃんはうちの将来の嫁だから、これから雅の世話を全部琴葉ちゃんに任せちゃおうかな~」
そう言ってにやりと笑うお母さんの姿を思い出す。
あれは絶対に楽しんでいる顔だ。
自分の息子をラブコメの主人公に仕立てあげて、それを見て楽しむ気だ。
うちのお母さんは少しズレている。
それにしても、琴葉が帰ってくるのは少し早すぎる気がする。
学校に行ってたはずだよね。
「が……は……」
「あ、学校に行ったら速攻でお腹痛いって言って帰ってきたよ」
「せ……も……い?」
「先生は止めようとしたけど、女の子がお腹痛い理由をじっくり聞きますか? って言ったらすんなり解放してくれたよ」
先生にそんなことを言い放つ琴葉の度胸にも驚いたけど、ずっと俺のちぐはぐの言葉を読み取って、会話を成立させているこの状況のほうが驚きだ。
何気に琴葉は俺のことを一番わかってくれている。
ほんと、物心がついた時から、琴葉は俺のそばにいたな。
「プリン食べさせるから、あーんして?」
琴葉にそう言われて、口を開けようとしたけど、うまくいかなかった。
「もう口も開けられないの? じゃ、プリンは私が食べようと……」
待って。
待ってくれ。
俺のために買ったプリンを横領する気なのか。
心の中で必死に訴えたが、当然琴葉に伝わるはずもなく……俺は甘いものに目がない。
次の瞬間、口の中にストローのようなものを差し込まれた。
「まあ、こういうこともあろうかとゼリーも買ってきた。ちゃんと飲み込むんだよ?」
琴葉がゼリーの袋を軽く抑えると、口の中に甘いオレンジの味が広がっていく。
琴葉にゼリーを食べさせてもらっている幸福感と琴葉に大好きなプリンを奪われた絶望感が入り交じり、複雑な気持ちになっているが、俺は頑張って口の中に入ってくるゼリーを飲み込んでいった。
「はい、薬。おばさんが買ってきたんだよ」
え? お母さんが?
なんだ。しっかりお母さんしてるんじゃないか。
今日はほんとに感動しやすい日だ。
「でも、雅って今口開けられないんだよね……そうだ! 口移しで飲ませようか。最悪舌で無理やり喉にぶち込めるしね」
じ、冗談だよね……
命と純潔の危機を察知して、俺の本能が無理やり口を開かせた。
「口開けられるの? じゃ、普通に薬飲ませるね?」
うん、是非そうしてください。
「タオルぬるくなったから、変えてくるね」
俺に薬を飲ませた後、琴葉は俺の頭の上に敷いてるタオルを取り、部屋を出ていった。
昔の琴葉もこんな感じで優しかったなと思いつつ、俺は眠りについた。
渚さん?
目が開けられるということは、これは夢なんだろう。
渚さんは床に座り、ベッドの上に頭を乗せて俺の人差し指を握りながら寝ている。
夢なのに、リアルな感触だ。
握られている人差し指はほのかに暖かく、気持ちよかった。
人差し指を動かしてみると、渚さんはううっと唸り声をあげる。
そして、彼女はまるで大切な宝物を奪われないように俺の指を握っている手に力を入れた。
今の気持ちをはっきり言葉にすることは出来ない。
それほど俺の心の中は知らない感情に満たされたのだ。
「起きた?」
気づいたら、俺の部屋のドアを開けて琴葉が入ってきた。
夢だからか、現実離れした状況だ。
渚さんが俺の指を握りながら寝ていて、それを見た琴葉は何も言わないなんて……
「……琴葉?」
「ちょっと待ってね」
琴葉は渚さんを起こさないように、ゆっくりと俺の頭の方に回り込んで、手を俺の額に当ててきた。
「うん、熱は下がったみたい」
そう言って、琴葉は一息ついた。
夢の中でも俺は熱を出していたのか。
「その子ね、雅にいっぱいRINEしたのよ」
携帯を取ろうとしたら、琴葉がそれを渡してくれた。
渚さんが握っている反対の手を使ってRINEをチェックする。
『一ノ瀬くん』
『無視?』
『私今ぷんぷんだよ?』
『あのね、この間のデート楽しかった……』
『これを言いたかっただけ』
『ううん、また遊びに行こうねって言おうとしたの』
『ねえ、さすがにここまでスルーされると悲しくなるよ?』
『あれ? もしかしてなんかあったの?』
『一ノ瀬くん? 大丈夫?』
『一ノ瀬くん! 無事だよね?』
『一ノ瀬くん……』
ここまでが渚さんのメッセージだった。
そして、俺じゃない誰かが代わりに返事をした。
『渚さん、雅は高熱を出して今寝込んでいるの』
『えっ?』
『私琴葉だけど』
『七海さん?』
『雅のことが心配?』
『うん……とても。今すぐ飛んでいきたいくらい』
『じゃ、雅の住所教えるね』
『えっ? いいの?』
『うん』
それから、俺の住所が書かれていた。
「渚さんがあんまりにも可哀想だったから、雅の代わりに返信しちゃった……ロックを解除するのに指借りたけどいいわよね?」
「……うん」
そうか、夢じゃなかったんだ。
渚さんは俺の事を心配して駆けつけてくれたんだ。
「この子が来たら雅の看病をするって聞かなくて、そうしているうちに疲れて寝ちゃったみたい……さすがにこんな状態でこの子を起こすのはね」
今日の琴葉はほんとに優しい。
渚さんの俺の指を握ってる手を見て、胸が締め付けられた。
申し訳ない……けど、ありがとう。
「琴葉ちゃん、今日も遅いから、雅の部屋に泊まっていきな?」
ドアを開けて、お母さんが入ってきた。
「うん、そうしようかな」
「いやいや、遅いも何も、琴葉の家隣でしょう?」
「いいじゃん。看病で疲れたから帰る気力なくなったの」
そういうもんなのか。
「……一ノ瀬くん」
お母さんと琴葉の会話で起きたのか、渚さんはゆっくりと目を覚ました。
「渚さん」
「……私も今日ここに泊まる」
「えぇっ!?」
琴葉は俺の心情を代弁してくれた。
「あら、花恋ちゃんも雅の部屋に泊まるの? じゃ、お母さん布団もう1枚持ってくるね~」
お母さんはうふふと笑って布団を取りに行った。
いや、おかしいだろう。
琴葉ならまだしも、渚さんはお母さんと今日初対面のはずだよ?
やはりうちの母さんはどこかズレている。
それにしても、渚さんがここに泊まるなんて言い出すとは思いもしなかった。
そして、3人の夜は始まった。
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