ページ10 打ち合わせ
柔らかな日差し。
今日の空は春1番に晴れ渡っている。
それと引き換えに、俺はいまとても緊張している。
見上げれば、20階を優に超えるビルが目の前にそびえ立っている。
ここが佐渡川文庫の出版社だ。
「すみません。一ノ瀬雅と言います。あの、今日は
「かしこまりました。ではこのゲストの札を付けて、2階の13番ブースでお待ちください」
受付のお姉さんは笑顔でそう言って、入室の札を渡してくれた。
体が強ばったまま、エレベーターで2階に上がり、指定されたブースの席に座った。
受付のお姉さんが沢咲さんに電話したら、すぐに来るって言ってたから、多分もうこっちに向かってるのだろう。
電話で変なやり取りをしただけあって、いざ顔合わせるとなると、かなり緊張する。
というか、気まずい。
だが、次の瞬間、そういう感情も一瞬にしてエレベーターから出てきた女性によってかき消された。
長くて綺麗な髪。切れ長な目。そして整った容姿と男を虜にしてしまうほど洗練されたスタイル。
芸能人なのだろう。
その美しさに俺は思わず目を奪われた。
そう言えば、楪ちゃんも今の女性に似て、髪が長くて切れ長な目をしていたな。
やはり、出版社ともなると、芸能人とかもしょっちゅう出入りしてるんだろうね。
まあ、話すことはないだろうけど。
だが、俺の予想と違って、芸能人であろう綺麗な女性がこっちに向かってきている。
まさか、ここで芸能人と知り合う機会があるなんて、やはり沢咲さんの言ってた通り、小説家になったらモテモテになるのはほんとなんだな。
ありがとう、沢咲さん。
「一ノ瀬さん?」
「はい、一ノ瀬です!」
なんで俺の名前を知っているんだろう。
そういえば、聞いたことのある声……
嫌な予感がする。
「お待たせしました。沢咲
俺の感動を返せ。
「はあ」
がっかりした気持ちを抑えきれずについため息をついてしまった。
「えっと、なんでため息をついたかは分からないが、私はこの春入社したばかりで、今年23歳です!」
「見合いかなんかですか?」
「ははは、やはり一ノ瀬さんってラブコメを書く才能がありますね!」
「全然嬉しくないです」
「編集長が一ノ瀬さんはまだ高校生だから、歳の近い編集のほうが親近感湧いてやりやすいからって私を一ノ瀬さんの担当編集に任命したんですよ?」
「それはありがとうございます」
編集長は気遣ってくださったんですね。
ちょっと嬉しい。
「5歳しか変わらないから、香織お姉ちゃんって呼んでくださいね~」
「なんでそんな親密な呼び方を強要してくるんですか」
「やだ、一ノ瀬さんって辛辣~ お姉ちゃん濡れちゃう~」
「チェンジで」
「ちょっとその言葉どこで覚えたんですか!? まさか夜の店に……」
「行ってません!」
沢咲さんと喋ってて疲れる。
「さあさあ、香織お姉ちゃんって呼んでみてください」
「沢咲さん、今日の打ち合わせですが」
「香織お姉ちゃんだよ?」
「私の作品を加筆修正して、長編連載にする話でしたよね」
「そんなに無視すると香織お姉ちゃん泣いちゃうよ?」
「その内容について……」
「香織お姉ちゃんって呼んでもらってはダメですか……?」
沢咲さんは左手を顎に当てて、右手で左手の肘を掴んで、いかにも可憐そうなポーズを取った。
「分かりましたよ……か、か、香織お姉ちゃん……」
恥ずかしい。
でも、俺はこういうしおらしい仕草に弱いんだよね。
自分の性根が憎い。
「はは、一ノ瀬さんってチョロいですね~」
「沢咲さんは……」
「分かった! 分かった! お姉ちゃんが悪かった!」
ちょろいのはどっちだよ。
それから俺は契約書を沢咲さんに渡して、一通り沢咲さんと小説の内容、締切と印税の話をした。
「うわー、前よりめっちゃくちゃ良くなってます~」
「そう言われると照れちゃうんですが」
「いいじゃん! 雅くんが頑張ってくれたらお姉ちゃんがご褒美をあ、げ、る」
いつの間にか、沢咲さんは俺の事を雅くんと呼び始めた。
にしても、ムカつく言い方だな。
「ご褒美って?」
「女の子を知ってもらう的な~」
「結構です」
まじで沢咲さん大丈夫かな。
不安になってきた。
いや、むしろ不安しかない。
「年上は嫌いなの!?」
「なんでそういうことになるんですか!」
「じゃ、お姉ちゃんに魅力がないとか……?」
ちらっと沢咲さんの胸元を見る。
魅力が無いわけじゃない……
ただ、編集と作家がそんな関係になっていいはずがない。
「あっ、今お姉ちゃんの胸見たでしょう」
「み、見てません」
「嘘つきは売れない作家の始まりよ?」
「そこは泥棒じゃないんだ!」
「あっ、今のツッコミめっちゃいいです!」
突っ込みたくて突っ込んでるわけじゃないんだけどね。
「か、香織お姉ちゃんがボケるからですよ……」
「えっ? 私大真面目に言ってるんですけど?」
「えっ?」
「うん?」
可哀想に。
もう救いようがないんだね。
「あっ、編集長!」
急に沢咲さんが立ち上がり、恭しく一礼した。
振り返るとそこには厳かな雰囲気を漂わせている中年男性の姿があった。
この人が編集長?
なんか怖い。
「君が一ノ瀬くんかね」
「は、はい! 一ノ瀬です!」
編集長から漏れ出る威厳に気圧されて、体が硬直したみたいで思うように動かない。
なんで編集長がここに来てるんだろう。
「会いたかったよ……」
「はい?」
編集長の口から思わぬ言葉が出てきたので、俺は聞き間違いじゃないかと思った。
「君の作品を読ませてもらったよ」
「あ、ありがとうございます!」
「まるで若い時の俺を見てたような感じがしたよ」
気のせいか、編集長の目が若干潤んできた。
「『冴えない僕とアイドルな彼女』か。素晴らしい作品だ! 俺も若い時にあるアイドルにガチ恋して、彼女に見合うために、自分に気づいてもらうために必死で頑張った」
「はあ」
「でも、気づいたら彼女は俳優と結婚して、俺はいつの間にか編集長になった。結ばれることはなかった」
「悲しい……ですね」
「その通り!」
「ひゃい!」
編集長にいきなり机を叩かれて、俺はみっともない声を発してしまった。
「そう! 悲しかった……悔しかった……偉くなって、仕事で何度か彼女と会う機会はあったけど、その時彼女はもう今の旦那と付き合っていた……」
編集長は泣きながら自分の過去を語ってくれた。
人を見た目で判断してはいけないと思った。
厳格そうに見える編集長は実はとても繊細だった。
「でも、君の作品を読んで、希望を感じたんだ。君の作品を通して、俺の悔やんでやまない過去は救われた……感謝する」
「いいえ、私はただ書きたいものを書いただけです」
「ところで、一ノ瀬くん」
「はい」
「君の作品って妙に生々しいんだね。まさか君もアイドルにガチ恋してるんじゃ……」
「してません! してないです!」
焦った。
えりこへの気持ちを作品にぶつけたのがバレたかも。
でも、俺はえりこに憧れているだけで、ガチ恋してるわけではない……はず。
「そうか。それより君の作品に俺は救われた。ちゃんと連載を頑張ってくれたまえ」
「はい! 頑張ります」
編集長は俺の返答を聞いて安心したように離れていった。
そうか。俺の作品は編集長の心を動かしたんだ。
これなら、わざわざ「ラブコメ大賞」を立ち上げた理由も納得出来る。
それだけ、編集長はあのアイドルのことを今でも想っているんだね。
「雅くんってアイドルにガチ恋してるんだ~ へー」
椅子に座り直すと、沢咲さんはにやりと笑っていた。
俺の感動を返せ。
「まあまあ、お姉ちゃんが慰めてあげるから〜 色んな意味で♡」
「……」
好きにしろ。
ビルを出て、見覚えのある後ろ姿に気づいた。
「渚さん?」
「い、一ノ瀬くん!? なんでここにいるの!?」
「前に話した書籍化の件、今日が打ち合わせだったんだ」
「そうなんだ……」
「渚さんは?」
「えっ?」
「渚さんはなんで佐渡川文庫のビル前にいるの?」
「か、花粉症の治療にきたの!」
「ここ病院じゃないよ?」
「じゃなくて、えりこのポスターを見に来たの! ほら佐渡川文庫ってえりこにCM出てもらってるから、いっぱいポスターがあるんでしょう!」
渚さんはほんとにえりこのことが好きなんだね。
わざわざ出版社までえりこのポスターを見に来るなんて。
「確かに、えりこのポスターには目を惹かれた……」
「一ノ瀬くん」
「うん?」
「……もし嫌じゃなかったら、一緒に帰ってもいい?」
渚さんの突然な提案に、俺は精一杯頷いた。
「えへへ」
彼女の顔はマスクに隠れていてよく見えないが、目がキラキラしていて、きっととても綺麗な笑顔なんだろう。
「なあ、渚さん」
「うん?」
「こ、今度一緒に遊園地でもいかない?」
「うん、行く」
「ありがとう」
「どういたしまして」
それから俺と渚さんの間には会話はなかったが、帰り道はとても心地よかった。
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