ページ4 花見

 吾輩は遅刻したのである。


 さくら橋にはまだ着いてない。


 って、勝手に夏目さんとコラボしてる場合じゃない!


 春休みに入ってから、アラームを設定しなくなって、つい寝坊してしまった。


 渚さんとの約束の時間は朝9時。


 そして今も朝9時……


 せっかく昨夜琴葉に今日着ていく服を選んでもらったのに……


「あら、一ノ瀬くん? いつもよりオシャレだね~ 遅刻したことはゆ、る、し、て、あ、げ、る」


 という風にはならないよね……


 さくら橋は通学の時にいつも通っているから、今の場所から走ればあと5分くらいで着く。


 問題はこの5分だ。


 琴葉なら問答無用で帰っちゃうだろうし。


 渚さん、どうか、待っていてください……




 さくら橋に着いたら、一目で渚さんを見つけてしまった。


 目深に被ってる白い帽子にマスク。多分、これが渚さんの通常装備だろうけど、それなりに不審者っぽい。


 純白なワンピースの上に水色のカーディガンを羽織ってるというような可愛い女の子の格好なだけに、ややもったいない気がしなくもない。


 でも、よかった。渚さんが待っていてくれたんだ……


「ごめん! 待たせちゃった!」


 急いで渚さんのところまで走って、必死に謝った。


 胸の中は申し訳ない気持ちでいっぱいだ。


 だが、渚さんは何も言わずに、手に持ってる携帯を指で叩いてみせた。


 そのしぐさは妙に可愛かった。


 俺にメッセージを送ったのかな。急いでたから携帯をチェックしていなかった。


 俺は素早く携帯を取り出し、画面をチェックした。


 RINEの通知がずらりと並んでいる。


『一ノ瀬くん~』


『もしかして寝坊した?』


『まだ~?』


『私ってこう見えても忙しいんだからね!』


『女の子を待たせるなんてプンプンですよ』


 9時から9時5分までの間、きっちり1分ごとにメッセージが1件ずつ送られてきた。


 器用なことしてるね。


 にしても、約束の時間が9時だからって、9時過ぎてから催促のメッセージを入れるなんて、渚さんって律儀というか、真面目すぎる。


 出会った時に思いっきり俺をからかったあの渚さんからは想像できないけど。


『夏目漱石とコラボしてた……』


 一応返信しておいた。本人の前で。


 まあ、嘘はついてないけど、多分渚さんの欲しかった遅刻の理由とは違うだろう。


「なにそれ~」


 俺のメッセージを見て、渚さんはニコリと笑った。


 渚さんの笑顔に釣られて、俺も思わず口角が上がった。


 ゆっくりと、幸せという名の気持ちが込み上げてきた。


「あっ、ハンカチ……」


 ハンカチを返さなきゃいけないことを思い出して、俺はポケットの中から渚さんのハンカチを取り出して、丁寧に渚さんの前に捧げた。


「いーらない」


「えっ?」


 渚さんのこの返事は流石に予想出来なかった。


「だって走ってきたでしょう? 汗まみれのハンカチなんていらないよ」


「そ、そんなに汗はかいてない……はず」


 そっと、ハンカチを鼻に近づかせ、匂いを嗅いでみる。


 洗剤の匂いと少し残っている渚さんの匂いが漂ってきた。


「また今度返してね!」


「……はい」


 そんな理由でハンカチ返すのを拒否られるなんて、俺は少ししょんぼりしていた。


 いつになったらハンカチを渚さんに返せるのだろうか。


 俺は渚さんのハンカチをそっとポケットにしまい込んだ。


「じゃ、行こうか! 遅刻したから一ノ瀬くんの奢りね!」


「任せて!」


 そうだ! 今こそ遅刻して女の子を待たせたという不名誉を挽回するんだ。


 俺は両手で頬を叩いて、気合いを入れ直した。




「しゅわしゅわイチゴLサイズお願いします!」


「はいよ! お兄さんは?」


「えっと、しゅわしゅわバナナで」


「お兄さんもLサイズ?」


「いや、普通ので!」


 さくら橋の周りには屋台が立ち並んでいる。


 とりあえず飲み物を、という感じで俺と渚さんはジュースを買いに来た。


 目をキラキラさせて、Lサイズのしゅわしゅわイチゴを注文してる渚さんを見て、俺は少し目眩を覚えた。


 公共トイレは近くにあるとはいえ、花見客で溢れているここで、もしトイレに行きたくなったら、それこそ大ピンチ。


 ちなみに、Lサイズは普通の2.5倍の量だ。


 大丈夫かな、渚さん。


 もしかして、女の子ってトイレに行かないものなのかな。


 そういえば、琴葉がトイレに行ったの見たことないな。


 じゃ、女子トイレはなんのために存在するの?


 男女平等を唱えているから、形式的にとりあえず設置しといたみたいな?


 帰ったら琴葉に聞いてみよう。




「うまい~」


 渚さんはマスクを外して、幸せそうな表情を浮かべていた。


 しゅるしゅるイチゴを啜る渚さんを見て、心が温かい気持ちに満たされていく。


「あっ、バナナ味も気になるなー」


「えっ!?」


 気づいたら、渚さんは俺のストローを口に含んだ。


 俺がついさっきしゅわしゅわバナナを啜ったストローを。


 小っ恥ずかしくてくすぐったい気持ちになり、俺は少しいたたまれなくなった。


「どうしたの? 一ノ瀬くん。顔、真っ赤だよ?」


 さすがに渚さんが俺のストローで啜ってるところを見て、俺は赤面せざるを得なかった。


 なんで、渚さんは平気でそんなことできるんだろう。


「なん、なんでもないから!」


 自分だけ意識しているなんて知られたくないから、俺は慌てて誤魔化した。


「ほんとに?」


 渚さんは少しくいと顎を引き、上目遣いで訝しげに俺を見つめてきた。


 ちょっと、近い。


「ほんとになんもないから! そういえば、渚さんって花粉症なのに、よく花見に来ようとしたね!」


 誤魔化したのに、渚さんがさらに踏み込んできたから、俺は慌てて話題を変えた。


「うん?」


「えっ? 花粉症じゃなかったの?」


「あっ! かふんしょん、花粉症、私花粉症だわ!」


 やはり、渚さんは無理しちゃってるのだろう。自分が花粉症だってことも忘れてたみたいだ。


「あの、あんまり無理しないでね?」


「うん、大丈夫、無理してないから」


 渚さんが上目遣いで俺を見つめてるから、渚さんの目がいつもよりはっきりと見える。


 幼げも綺麗な目。大きめに膨らんでいる涙袋がすごい可愛らしい。ほんとにえりこにそっくりだ。


 そういえば、えりこの写真集は来週発売するんだったな。


 でも、買わない。


 えりこがチュイッターに上げた写真を保存してそれで我慢しよう。


 親に見つかったらまだいいんだけど、琴葉に見られたりしたらそれこそこの世の終わりだ。


 しかも、写真だったら、携帯でいつでも見れるしな。


 ほんとはすごーく欲しいんだけどね……なんだかんだ言って。


 それより、今は渚さんと花見だ。


 花粉症を我慢してまで来たのだから、楽しんでもらわないと。


「はい、渚さん、ちゅうもーく」


 俺は両手を広げて、左右を指した。


「うん? なになに?」


「左にはフランクフルトの屋台があります。そして、右には焼きそばの屋台があります。あなたが行きたいのはどっちでしょうか?」


「チョコバナナの屋台!」


 そう来たか。


「正直に答えたあなたに、ベビーカステラをプレゼントしよう」


「えっ、全然違うじゃん! そこは正直に答えたからチョコバナナを5本あげるとかじゃないの?」


 案の定、不満そうに渚さんは文句を言ってきた。でも、5本はさすがにね……


「5本も食べられないでしょう」


「ははは、そうだね」


 ほんと、いつ見ても渚さんの笑顔は天使みたいだ。


 渚さんと一緒にいるときは、いつも不思議な気持ちだ。




 渚さんが敷いたシートの上に、俺と渚さんが並んで座っている。


 渚さんは脚を曲げるような女の子座りをしていた。


 押し寄せてくる桜の波。


 風に靡く葉の擦れる音がいとも心地良い。


 たまに散ってくる桜の花びらは渚さんの帽子の上に留まっては、またどこかへ飛んでいく。


 人の喧騒こそあれど、この瞬間、この世界には俺と渚さん二人しかいないんじゃないかなと錯覚してしまった。


 なんでこんなにも美しいのだろう。


 桜を見てふとそう思った。


 川が鏡のようになっているから、周りがピンク一色になっている。


 花の間隙を縫って降り注いでくる日差しすらも優しく感じられる。


 渚さんの帽子の上に映っている桜の花びらの影が静かに揺れていた。


「平和だな」


「ふふ、一ノ瀬くんっておじいちゃんみたい~」


「そんなことないと思う」


 おじいちゃんじゃなくても、「平和」という言葉は使うと思う。


「そんなおじいちゃんには、おばあちゃんが弁当作ったけど、食べる?」


「え? 弁当作ってきたの? 忙しいんじゃ?」


「うん? 弁当作る時間くらいあるよ?」


「いつも『私こう見えても忙しいんだからね』って言ってるじゃん」


「それ、今日はなしの方で」


「はあ」


「お姉ちゃんの弁当食べないの?」


 おばあちゃんからお姉ちゃんに……いつの間に若返りしたのだろう。


 ほんと、渚さんって不思議な女の子。


「食べます」


 渚さんは鞄から桜のイラストがプリントされてる布で包まれている弁当箱を取り出した。


「あれ? 一個だけ?」


 弁当箱が1個しかないから、質問が自然と俺の口から零れた。


「大丈夫、ちゃんと2人分が入ってるから。はい、お箸」


「……ありがとう」


 これ、まずいんじゃ……間接キスを取り越してなんかいけないことをしてる気が……


「はい、あーんして?」


「自分で食べれるから!」


「男の子ってこんなシチュエーションに憧れるものじゃないの?」


 そう言いながら、渚さんはにまにまと笑っている。


 俺をからかうにしても必死すぎるだろう。


「やはり確信犯じゃん!」


「あはは、バレた~」


 もう、心臓に悪いんだよ。


 胸に手を当てなくても分かる。俺の心臓の鼓動は幾分か早くなっている。


「私たちって周りから恋人に見えるのかな?」


 桜を見つめていた渚さんは急に口を開いた。


「それはないと思う」


「即答!?」


 俺の返事に、渚さんはすごいびっくりしたみたい。


「だって、渚さんの格好ってちょっとあれだから……不審者とその被害者に見えてるのかもね」


 よくからかわれているから、ちょっとやり返そうと、俺は敢えて思ってもないことを言ってみた。


「ひどっ」


「仕返しです」


「ぷぅー」


「めっちゃ美味しいな」


「こら、誤魔化すなー」


 最初に出会った時も思ったけど、渚さんはほんとに可愛いね。


 なんで、こんな可愛い子は俺を花見に誘ったのだろう。


 俺にはその答えが分からない。


 少なくとも今は。




 家に帰る前に、隣の琴葉の家に寄ってみた。


「琴葉、お前、その格好って……」


 奇しくも、琴葉も渚さんと同じく、マスクをつけていた。


 さっきまで外出していたのだろう。服に桜の花びらが付いてる。


「なんもないわよ! なにがあーんだよ! 雅のばか!」


「うん?」


「だからなんもないって!」


「そう? そういえば、ちょっと聞きたいことがあったから来ちゃったんだけどさ」


「なによ」


「琴葉ってトイレに行かないの?」


 その後、俺はしばらく意識を失っていた。

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