第6話 八百屋お七 ―やおやおしち―

 半鐘はんしょうの音が江戸の町に響く。


 ガラガラと荷車を押す音、人々の助けを乞う声。ミシミシと建物の崩れる音、火消しの交わす声。

 子どもの泣き声すらも、火事の熱が覆い尽くす。

 それは天和てんな二年十二月二十八日、暮れも押し迫った日の大火であった。


 駒込にある大円寺だいえんじ塔頭たっちゅうから出た火は、隣の同心屋敷を焼き、瞬く間に本郷一帯へと燃え広がっていった。

 加賀藩前田家を始め、多くの大名、旗本の屋敷を焼き、さらに湯島、神田、日本橋と延焼していく。

 それでも勢いの衰えない火は隅田川を飛び越え、回向院えこういん富岡八幡宮とみおかはちまんぐうをも焼失させて、翌二十九日のこく頃にようやく鎮火ちんかした。


 本郷の八百屋、八兵衛 はちべえの一家も焼け出され、ここ駒込吉祥寺きっしょうじに家族で避難していた。

 火事と喧嘩は江戸の花とは言うけれど、自分が焼け出される側になれば、笑ってばかりもいられない。今はなんとか持ち出した家財を寺へ下ろし、ひと息入れたところだ。

 勢いよく燃える炎は、明々あかあかと夜空を染めている。


 それをにらみつけ、あれこれと思案にふける八兵衛に背を向けた娘のお七。

 お七という娘は、頭もよく色白で、吉祥天きっしょうてんもかくやという評判の美人。その美人は、心ここにあらずといった様子で、ひとつ所を見つめていた。


 ほうっと、なんとも切なげな吐息が漏れる。

 そんなさまを見て周りが放っておけようか。大事ないか、足らぬ物はないか、と皆がなにくれとなく声をかける。

 それには失礼と冷たく言い放ち、お七は庫裏くりのほうへと足を向けた。


 避難先のこの寺では、僧から寺男てらおとこまで、皆が忙しく対応に追われている。

 お七の向かった先でも、寺小姓てらこしょうの一人なのだろうか、美しい男が黙々と片付けをしていた。


 お七は戸口からその姿を見つめるきり。

 いや、声をかけようと口を開きはするのだが、どうにも一歩が踏み出せぬ。

 それに気づいた男は、手を止めると花が咲いたように笑った。


「お七さん!」

吉三郎きちさぶろうさん、あの……手は大丈夫?」

「お七さんがとげを抜いてくれたから、もう平気だよ」


 さっきのはなもひっかけない様子とは打って変わった、お七の心配そうな顔。

 それに向かって吉三郎は大丈夫と笑ってみせる。

 初めて顔を見合せたその時から、互いに一目惚れだった。


 だが会話のあったはそこまでで、あとは互いに顔を見合わせては、もじもじと下を向くばかり。

 なんとも初々ういういしい二人である。

 せめて相手の顔を見たい、手など握りたい、そう思ってはみるものの、やはり顔を上げては下を向く。

 そのうちに吉三郎を呼ぶ声が聞こえてきた。


「ごめん、行かなきゃ」

「ええ……」


 お七は歩き出す吉三郎を切なげに見送る。

 と、吉三郎はふいに立ち止まり、意を決したようにお七の元に戻ってきた。

 吉三郎は、お七の名を呼んで手を握る。


「私を吉三きちざと呼んでくれないか」

「……吉三、さん」


 お七はわずかに震えるその手を握り返し、はにかみながら名を呼んだ。

 吉三郎も照れながら、だが嬉しそうに言う。


「ありがとう、またこうして会いたいね」


 重ねて呼ばれる声に、吉三郎は去っていく。

 それを見送ったお七は、もう一度、かみしめるように小さく名を呼ぶ。そうして、またほうっとため息ついたのだった。


 寺での暮らしも幾日か過ぎたある日、僧侶達は火事の犠牲者を弔う大法要のため、寺を空けることになった。

 何しろ三千五百人を超える人々が亡くなったのだ。

 折から、天も悲しんでいるかのように、大粒の雨が降る。慟哭どうこくいかづちが幾度も鳴る。


かみなりなど怖くはありません。わたしより、他のか弱い方々に声をかけてあげてくださいな」


 憎まれ口をきいてでも、自分にはかまってほしくない。大事ないかと人に聞かれるたび、お七は凛と背をのばし、きっぱりと切り捨てた。

 なぜと言って、これは吉三郎に会える千載一遇せんざいいちぐうの機会なのだから。


 吉三郎の美貌は目立つ。

 吉三郎がお七に会いたいと思っても、途中まで来かけては誰彼だれかれにかまわれ、用事を言いつけられる。何度も何度もそれを見たお七は、自分が吉三郎の元へ行かねば、会うことすら叶わないと思い知ったのだ。


 そんなお七の目論見もくろみ通り、人々は周りから去っていく。

 頃を見計らい、お七はそっとその場を離れ、吉三郎の待つ部屋へと急いだ。


「お七!」

「吉三さん」

「お七、こうして会って話したかった。毎日、姿は見られるのに話しかけることができなくて、どれだけ悔しい思いをしたか」


 そう言って吉三郎はお七の肩を抱く。そして、はっと我に返った。


「す、すまない。急にこんなことをして」

「ううん、いいの。吉三さんなら、嬉しい」


 十六になったばかりの二人は、頬を染め、おずおずと恋に手を伸ばす。

 大人の目が怖いと言い、それでも恋の炎は消せるはずもなく、それは二人の間で燦々きらきらと燃え続けるのだった。



 やがて八兵衛の店は建て直され、一家は寺を引き払う。

 本郷に帰ってからも、お七の吉三郎に会いたい気持ちは募るばかり。それは熾火おきびのようにちろちろと胸を焦がす。

 矢も盾もたまらず出かけようとすると、お七は父親に止められた。


伝馬町てんまちょうの牢屋敷から解き放ちになった囚人で、戻らない者が数人いるらしい。まだ出歩くには早い、もう少し家で我慢しなさい」


 さすがに、それに反論してまで出かけることは難しい。かなしみに胸を焼かれながら、お七は顔を曇らせるばかりであった。


 そうしているうちに、お七の耳に入ってきた吉三郎の噂。

 本郷のこの辺りは皆が吉祥寺に避難したのだ。寺の話は幾度も聞こえてきてはいたけれど、これだけは聞き逃すわけにいかない。

 なんでも食が細り、体を壊して寝ついてしまったらしい。熱にうかされ、うわ言を言うばかり。

 そんな話を聞いては、もう会いに行くことを我慢することなど、できはしなかった。


 ある日、どきを過ぎた時刻。木戸の前で、お七は呆然と立ち尽くしていた。

 この時刻ならと、こっそり家を抜け出してきたのに、けんもほろろに木戸番に追い返されたのだ。

 これでは吉三郎に会いにいくどころではない。

 よろよろと家に戻ると、不意に考えが閃いた。


「あの日と同じように火事になれば、木戸は開くんじゃないかしら。そうしたら、吉祥寺へ行ける。吉三さんに会える」


 お七は反古紙ほごしわらを掻き集め……


 庭に火を付けた。


「……お嬢さん!」

「何なさってるんですか」


 いつもなら、寝付いているはずの下女げじょが水を掛けて回り、小火ぼやで消し止められたのは幸いだろう。

 下女は、さっきからぱたぱたと物音がするのは何事かと見に来たと言った。


「火付けが大罪なのはご存知でしょう。なにをなさってるんですか」


 辺りをはばかるように小さな声で下女が言った。

 後の始末は自分がするからと、お七は部屋へと追い返されたのだった。


 会いたい気持ちに心が焼かれる。

 まして病気だと聞いたのだ。黙って待っているなどできはしない。薬がいるなら持っていってあげたい。

 ああ、どうすれば会えるのだろう。

 火を付けることはもうできない。なら、どうすれば、もう一度あの日がくるのだろう。


 お七の目の前に、あの日の炎と喧騒が蘇る。

 吉祥寺に着くまでは、恐怖しか感じなかった炎、半鐘の音、それらが甘く蘇る。

 そうだ、半鐘だ。あれが鳴れば木戸は開く。


 お七はにっこりと笑うと、そのまま火の見櫓へと向かう。躊躇ためらいもせずに、はしご段を上り、木槌を握った。

 ああ、この音だ。この音が、わたしを吉三さんの所へ連れていってくれる。


 半鐘の音が江戸の町に響く。



 無論のこと、勝手に半鐘を鳴らすことも大罪である。

 お七は捕縛され、市中引き回しの上、鈴が森で火炙ひあぶりになった。




 吉三郎は、ようよう起きられるようになった百日後、真新しい卒塔婆そとばにお七の名を見つけた。

 呆然と立ち尽くしたまま動けずにいる吉三郎に、寺の者が事の次第を伝えた。


 その日から吉三郎は自害をしようとすることだけで日を過ごしていった。

 悲しみと自責の気持ちは泣き叫ぶ力も奪ってしまったのだろう。寺の者も静かなだけに余計に目が離せない。


 それでも日が経つうちに、吉三郎は少しずつ僧侶や寺男の話を聞くようになる。そうしてお七の両親にまで説得されて、吉三郎はようやく自害することを思い止まったのだった。


 その後、吉三郎は出家し、お七の霊を供養することでその生涯を送った。



 ◇◇◇◇◇


 伊達娘恋緋鹿子だてむすめ こいのひがのこ、これまでといたしましょう。

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