Chapter2 第七機甲師団

Episode8 シー・シエン

 歓声、いや怒声か。

 裏通りにひっそりと存在する30人入るかどうかの賭けボクシングの試合場、ろくでなしの溜まり場で向かい合う二人の男を罵倒する声が響く。

「ドウした、もう終わりカ?」

 訛りのひどい北クラスト語で、筋骨隆々のマッチョが煽ってくる。

「黙れ」

 そう一言返したところで、視界の外から相手の左頬を狙って右フックを食らわせ、左ジャブで肋骨を折ってやる。そうすれば、相手はスタジアムと観客たちのいる場を円く仕切る板切れに寄りかかって崩れ落ちることになる。筋肉人形のような男が、力なくそこに座っているのは滑稽だ。

「どうした、もう終わりか?」

 そっくりそのまま、先の煽り文句を流暢に返す。

 相手の目に怒りの火が灯る。

 ろくでもない客の中でも、一際偉そうな印象を受ける客から無造作に投げられたビールを、マッチョのクソ野郎は立ち上がりながらキャッチし、素手でそのビール瓶を開けて中身を呷る。

 ビール瓶を投げた客は大方、ここらのクソ野郎共をまとめ上げているクソ野郎だろう。

 鼻につく野郎だ、と意識から一蹴すればラウンド再開だ。

————三発、食らう。そんな予感、いや予見か。

 客の誰かがビールを俺にかけてくる。

 ビールで歪んだ視界の中、マッチョ野郎は一息で飲み終わったビール瓶を持ち直したかと思えば、嘲笑と共に俺の頭頂部めがけてそいつを振り下ろす。破砕音と共に激痛、意識が薄れるのを感じる。

 続いて左ジャブがあごの骨を少し砕く。そして、とどめに右足でみぞおちを思い切り蹴られ、そのまま反対側の仕切り板に突っ込む。

 厚さ5cmにも満たない板切れに亀裂が走り、ギイギイと軋む音がする。

「……ぅぐ……」

 分かっていればなんてことは無い、そんな訳なかろう。痛いものは痛い。

 だが、この試合に決着をつけるためには立たなければならない。血と汗に塗れたぼろ雑巾の様になってでも、相手をぶちのめしてやらなければならない。

「来いよ、てめぇの顎を砕いてやる」

 頭から右目の眼帯に向かって垂れる血を拭いながら煽る。

「やっテみロ!」

 さあ、最終ラウンドだ。

 割れて凶器となったビール瓶を俺に向かって投げる。顔面直撃コースだ。しかし、それを予測出来て避けられない訳が無い。首を少し傾けて避けると、後ろにいた観客に当たったらしく悲鳴と罵声が喧しく響く。

 そんなことを意に介す訳もなく、相手は殴りかかってくるがなんてことは無い。

 軌道も、速度も全てわかっているパンチは無力も同然だ。右拳を流れるように左手で捌き、まずは右手でアッパーをかます。舌でも嚙み切ってくれれば万々歳だが、そんな事は起こり得ないのは既に分かっている。アッパーを入れたのは平衡感覚を少しでも狂わす為だ、構わず右頬に右の裏拳を入れる。

 カウンターのパンチは無視し、間髪入れずに左腿の外側に一撃。頽れたことでパンチは力なく空を切る。両の手を握り、拳で耳を思い切り叩く。

 三半規管を一時的に麻痺させ、平衡感覚が保てず、耳鳴りで5秒はまともに状況把握もできない。とどめに右足で蹴り上げ、宣言通り顎を砕いてやればKOだ。

 左鼓膜穿孔、肋骨骨折、下顎骨粉砕骨折、全治2か月で済めばいいところか。

 それまでにこいつは死ぬかも知れんが。大男は地面に叩きつけられたように地面に倒れ、動かなくなる。

 ゲームセット。ビール瓶を投げ渡していた客を一瞥すると、驚愕したような、或いは恨むように俺を睨んでいた。それを意には介さず、受付の中年女性が数えていた20枚程度の札束を無言で奪い、ついでに置いて有ったビール瓶を2本、5グレス札と交換して帰路についた。


 この男が持つ力は、便利そうに見えてそうでもない。

 酒を呷りながら、夜風に当たっていると、一つの人影が近寄ってくる。

「駐屯地を抜け出してどこに行くかと思えば、こんなところか。シー・シエン中尉」

「こんな夜遅くに何の用だ、ユーゴ」

 同期のユーゴ中尉は鼻を鳴らす。

面倒な八百長試合があると聞いてな、どうせお前が勝っちまうだろうと思って迎えに来た」

「そりゃどうも」

 同い年で同郷のこの男と初めて出会ったのは士官学校だった。馬が合ったから、仲良くしていた。ついでに同室、ただそれだけの男だ。

「それにお前の居る第12オートバイ狙撃中隊は明後日からホライズ塹壕群行きなんだろ、どうせ明日の昼には出発しちまうんだ。一緒に酒でも飲もうと誘おうとしただけだ」

 シエン中尉は札束と一緒に持っていたもう一本のビールをユーゴ中尉に手渡す。

「ちょうどよかったな、軍資金はいくらでもある」

 少し笑って見せるシエンを、ユーゴは怪訝そうに、というよりかは少し怯えたようにしながらビールを受け取る。

「お前のそんな顔は初めて見た。笑えたんだな、お前」

「お前ほど仏頂面じゃない」

 カッカッカッ、と笑うユーゴは冗談交じりに呟く。

「俺は明日あたり、死んじまうかもな。きっと槍が降ってくる」

「冗談じゃない、お前だって明日からフロス前線に残ってた連中の救援に行くんだろ」

「そうだな、もしかしたらリュカも生き残ってるかもしれん。確認するまでは死ねねぇな」

 リュカ、フロス前線北部の要たるタギノ要塞の防衛を務める第17歩兵師団の砲兵科の少尉、ユーゴとシエンの1個違いの後輩だ。

「大尉にはなってて欲しくはないな。生きて帰ってきたら、まあそんくらいの昇格は有るかも知れねえが」

「まあ、そうだな。2階級特進戦死なんて嬉しくもない」

 気づけば駐屯地の裏口に着いていた。

 少し名残惜し気に立ち止まったシエンは、星の見えない空を左目で見上げ、眼帯で覆われた右目で未来を想う。

「なあ、俺と一緒にホライズ塹壕群へ行かないか」

「……何言ってんだ、お前」

「いや、なんでもない」

 足掻いても無駄なことは知っていたはずだ。夜は更け、二人は駐屯地に戻っていった。


 翌朝、ユーゴと所属する第11歩兵師団は8時27分発の列車に満載で乗った。

 駅は人でごった返しており、騒がしい。

「じゃあな、シエン。また不味い酒を飲もう」

「ああ、幸運を。ユーゴ」

 野戦服に身を包み、M1912歩兵用ライフルを背負ったユーゴに戦場に行く仲間への定型句を投げかけると、ユーゴは微笑んでみせる。

 シエンも3時間後には同じく、列車に乗って戦場へと赴くので野戦服で見送りに来ている。

 ユーゴにもシエンにも別れを惜しむような家族はいない。そんな奇妙な共通点も、彼らを繋ぎ止める一因だったのかもしれない。

「リュカになんか言伝はあるか?」

 ユーゴは列車を眺めながら問う。

「いや、直接言う」

「そうか。そうだな」

 警笛が響く。時計を確認すると26分、あと1分で列車は出発する。満足したように、ユーゴは列車へ向かう。

「ちょっと待て」

 ユーゴが片足を列車に載せたところで、引き留めてきたシエンの方を振り返る。

「やっぱり言伝を頼む。……『酒を用意して待ってろ』、と」

 ユーゴは歯を見せて笑う。シエンも応えるように笑いかける。

 二度目の警笛が響く。ユーゴは列車に乗り込み、姿が見えなくなる。ほんの少し風が流れ、列車は戦場へこれから死ぬ者を送り届けるために、僅かに動き始めた。

 列車は加速し、それに応じて風が強くなる。窓から身を乗り出した兵士が手を振っている。

「あばよ!お前も死ぬんじゃねえぞ!!」

 ユーゴの声が響く。窓から乗り出してシエンに向かって叫んでいた。シエンはただ、掌をひらひらとさせて答えるだけだった。


 列車は行ってしまった。戦場に着く前に砲撃を受けて破壊されることなど、誰も知らずに。

「じゃあな、ユーゴ

 たった一人を除いて。

 未来がわかっていても、避けようがない。なぜならそれは、運命なのだから。

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