【U①-4】ひみつきち
土曜日。休日。
今日は両親が出かけて夜まで帰らない。もし付き合いたてのカップルだったら、最高のシチュエーションというやつなのかもしれないけれど、私の部屋のベッドには用はないし、絶対に大友さんにそんなことはさせない。自分の操を守ることが今日の秘密の最優先事項でもある。
杞憂というか、ちょっと考えすぎかとも思うけど、なんせ相手は油断すると唇を狙ってくる。腕っぷしでは負けないとは思うけれど、背の高い彼女に本当に迫られた時にそれが発揮できるかと聞かれれば自信がない。
当の本人はというと、すっかり借りてきた猫のようになってしまってて、私の言うまま、されるがままにヘッドホンを付けてパソコンの前で縮こまっている。
「……聴きこんできた?」
あんまり緊張されるのもなんなので、お茶を出しながらそんな質問を向ける。ヘッドホンを付けたままでも聞こえたようで、
「うん。どっちも好きな曲だったから……、覚えたと思う」
と大友さんは返してきた。どこか嬉しそうな表情だ。
彼女に聴いておくようにお願いしたのは『frank』さんの新曲と、前に流行って再生数がすでに五百万回を突破している、黒い『ボカる一号』に似たキャラクターが画面せましと動き回るミュージックビデオが印象的な『ryu』さんの神曲だ。
「今日でメインとハモりのトコを録音しちゃおう。明日にでも私がそれを編集するね?動画をアップする前に聴いてもらうから。じゃあ、まずは発声練習でもしとく?」
大友さんの息遣いが近寄る。フリーソフトのピアノをクリックするためにパソコンに近付いただけなのに、あんなことがあったから、どうしても彼女の唇を意識してしまう。いやいや、警戒してるだけだし。
ベリーショートの髪形。少し切れ目なのに、大きな茶色の瞳。細い顎のライン。真っ白な首筋。
やめておこう。なにを私は盗み見ているのか。
「…………?」
目が合う。
「うわっ!」
思わず音量調節もせずにミの音をクリックしてしまった。ヘッドホンから大きな音が出てしまったようで、彼女は驚いて頭からそれを外してしまう。
ちょっと顔が熱くなった。それを隠すように私は、
「あ、ごめん。……クリックしちゃった」
と顔を背けながら彼女に告げる。うん、大丈夫だよ?とのこと。ヘッドホンはあとにしよう。私はイヤホンジャックを外して、ピアノをクリックしながら音量を調節した。
「声、出してみて?」
「う、うん。あ、あ、あー」
私が音を上下させると、彼女もそれに合わせて声を出してくれる。すごいな、大友さん。3オクターブ半以上出てる。高音はクリアな優しい歌声で、低音は艶があって聞いててドキドキする。
「うん。たぶん唄えると思う」
選曲を伝えた時に彼女にそう言われて、私はちょっと不安に感じていた。『frank』さんの曲はまだしも、『ryu』さんの曲は最高音と最低音の高低差が激しくて、女の子でも歌うのが難しい。男の人でも『歌ってみた』を原曲のキーで唄っている人がいるにはいるけど、でもさ……、ほら。
友達とカラオケに行ったときとかによくあるじゃない?
たぶんイケると思う、とか、練習してみたい、とか前置きをしてから歌う人。だいたい、聴けたもんじゃない。途中で諦めてくれればいいんだけど、曲のラストまで頑張っているのを見てると辟易しちゃう。
聴くに耐えれる人というのは、一握りの才能のある人だけだ。
スマ動には動画の上のほうに、タグと呼ばれる動画の属性というか、ちょっとした説明を書ける場所がある。動画を検索するときの手助け的な意味合いの方が強いかも。
男の人なのに、女の人みたいな声が出る人の動画には『両声類』なんてタグが付けられる。逆も然りかな。シャウト気味の高音だと、声が覚醒してるって意味で『覚声類』とか付けたりね。
このタグなんだけど、動画を観る人も付けたり変更したりすることができる。
動画を投稿した人は、動画をUpした主という意味で『うp《ぷ》
まあ、あんまりヒドい時は『タグ固定』と言って、うp主がタグを視聴者が変更できないように固定して設定したりしちゃうんだけど。
さて、どうやら大友さんは才能のある人のようだ。音域を広げるには地道な訓練が必要って聞いていたから、とりあえず私は安心する。
「じゃあ、唄ってみよっか?」
「あっ。りょ、了解です。あのさ、ケイちゃん……」
声を上げそうになった。初めて名前を呼ばれただけだというのに。
大友さんは顔を紅潮させて俯いている。
「なに?」
動揺がバレないように、私は平静な声を出すことに全力を尽くす。
「ごめん……。な、名前で呼んでもいい?」
「いいけど。そういうのは呼ぶ前に聞くものかもしれないわね」
「あ……、ご、ごめん……」
大友さんなりに勇気を出したのかもしれないけれど、あまりにもオドオドした態度に私は少し冷静になることができた。いいよ、名前くらい。減るもんじゃないし。
「じゃあ、私は大友さんをコウちゃんって呼ぶ……、と思った?下の名前じゃ、呼んであげなーい」
ああ、今のはちょっと面白かった。ぱあっと音が出そうなくらい表情が変わった大友さんが、すぐに元に戻った。私の心のいたずら悪魔が性格の悪いことをしてしまった。少し反省。
「動画がひとつでも100万再生したら、考えてあげなくもないかもね。コッコちゃんて呼んだげる」
「……ッ!りょ、了解っ!ぜ、全力を尽くします。録音準備をお願いします!」
思った以上に彼女は私からのご褒美に弱いようだ。これは良いエサになるかもしれない。……エサ、だって。ホント、いつもの私からは考えられないくらい意地が悪い。
それにしても、ミリオンと呼ばれる100万再生突破の難易度が彼女には分かっているのだろうか。おそらく、最初の投稿は数百、いや数十再生にも届かないかもしれない。何か月後、もしかしたら、何年後の話になるかもしれない。もしかしたらそれは夢物語で、一生そんな再生数には届かない可能性だってある。
私は思わず、マウスから手を離してしまった。
「あのさ……、不安じゃないの?こんな、奴隷みたいに私の言うとおりにして」
聞かなくてもいいことを聞いてしまう。彼女にとってはただの罰ゲームみたいなものだし、今回の録音が終わったら、もう二度と一緒に動画を上げてくれなくなるかもしれない。
彼女に、嫌われてしまうかもしれない。
「不安?なんで?ケイちゃんと一緒にいられるだけで、僕は幸せだよ?」
やるじゃない、と心の中でゲーム実況者のムンクさんの声がした。そ、そんなこと言ったって、優しくなんかしてあげないんだからねっ、と流行りのツンデレテンプレも付け加えておく。いや、それはフラグか?私はこのままだとデレてしまうのか?
「……じゃあ、オケ流すからヘッドホンして」
もやもやとした気持ちを振り払うように、彼女の言葉を無視して指示を出す。音量を調節して、録音ソフトのスイッチを入れた。エフェクターを操作してエコーを加える。
「緊張しないで気楽にいきましょ。時間はたっぷりあるんだから」
「……うんッ!」
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