午後の教室にて

 午後の教室は、はるよりのおかげで、実に快適であった。


 ただそれは、授業を気持ちよく受けられるという意味合いよりも、給食にて満腹中枢を刺激したばかりの脳を休ませる、つまり居眠りをするのに、という意味において、快適と言えた。


 ちなみに、小春日和とは、冬の初めの暖かくて穏やか天気を指す。

 今日の現代文の授業で習ったのだが、春のはじめのまだ寒い時季のことを言うのかと思っていた。


 また、今日の僕の脳みそは、新知識に飢えていたようで、英語の時間にも、サブスクリプトという言葉をおぼえた。

 サブスクリプトを日本語に直せば、下付き文字という意味になる。


 下付き文字とは、いま黒板に板書されているBaSO₄の4のように、下に小さく書かれた文字のことをいうらしい。

 そう、いまは、睡魔の最大の友人である、化学の授業中であった。


 黒板に、ひらがな・カタカナ・漢字の姿はなく、アルファベット・数字・矢印の、無機質三人組が跳梁跋扈していた。

 跳梁跋扈の意味は、いま聞かれても困ります。



 このようなことを考えながら、まぶたが地球の重力へ負けることに、僕はできるかぎりの抵抗を続けていた。


 時計を見ると、授業がはじまってまだ十五分しかっていなかった。

 あと三十五分もある。


 まわりを見ると、眠りの神ヒュプノスのささやきに負けた者たちが順番に、夢の世界へ旅立っていた。



 生徒たちを注意することもなく、五十代の白衣を着た教師は、抑揚のない声で授業を進めている。

 化学教師ほど、眠りの神の従順なしもべもいまい。

 彼らは、現実社会でラ〇ホーもしくはス〇プルが使える魔法使いなのだ。


 となりの副委員長が、あくびを噛み殺しながら、右手の爪を左腕に食い込ませていた。

 なにもそこまでして起きていなくてもいいのに。



 異変は、授業が始まってから二十五分後に起きた。

 体育の授業がなく、時の止まっている校庭をしばらく眺めつづけたあと、化学教師は教科書を閉じ、プリントを配りはじめた。


 最前列で寝ている生徒にも怒らず、体をゆすり、目を覚まさせている。

 優しい先生だ。


 我らが化学教師は、マッド・サイエンティストからいちばん遠い存在のように思えた。

 しかし、よくよく考えてみれば、二十年以上も化学式で生徒を痛めつけているのだから、立派に人として常軌を逸している。


「教科書を見ながら、プリントの穴を埋めてください。できましたら、裏に解答がありますので、自分で採点をしてください。回収はしません。チャイムが鳴るまでに終わった人は、静かにしていてください」

 言い終わると化学教師は、窓側に置いた折りたたみ椅子に坐り、腕組みをしながら、彼もヒュプノスのもとへ旅立った。

 そりゃ、あんたも眠かっただろうね。



 プリントは、今日の授業をちゃんと聞いていれば、簡単に解ける問題のようであった。

 僕の場合は、聞いていたつもりだったが、ところどころ意識が飛んでいたので、黒板と教科書を見ながら、穴埋めをすすめた。


 僕が真面目に頑張っていると、おさげの副委員長が肘で僕の体を突き、顔を寄せてきた。

 何だか甘いにおいがした。

 「なに、京ちゃん」と小声で応じると、「学校で下の名前で呼ばないで」と注意を受けた。

 無言で謝りながら、副委員長の指さすほうを見た瞬間、残っていた眠気がすべて消し飛んだ。



 窓際のすみで寝ている化学教師の頭の上に、真っ白なイカが浮いていた。

「あれは、スルメイカ、かな? 京ちゃん」

「そういうことじゃないでしょ」


 副委員長と顔を見合わせたあと、僕はまわりの寝ている連中を静かに起こした。

 プリントが回収されないことを知った瞬間に、皆、夢の世界へ再突入していたのだ。


 全員、リアクションは同じであった。

 現実へ引き戻されて、僕をにらみつけたのち、教師の上のイカを見て、目を点にした。


 目覚めた者が寝ている者を順次起こしたので、授業終了のチャイムが鳴る五分前には、生徒の視線は、楽しそうに体をくねらせているイカに集中した。


 だれも近づこうとする者はいなかったので、僕は不良の幼馴染おさななじみの席へ向かい、白い浮遊物を指さして、小声でお願いした。

「タアくん。あれ、何とかしてよ」

「その呼び方止めろよ。カッコ悪い。あと、俺かよ」

「日頃いばっているんだからさ、こういう時に活躍しておいたほうがいいんじゃないかな?」


 起きている者の視線が、学校一の不良に集中したので、「あとで覚えていろよ」と僕にすごんだのち、彼は教師に近づいた。



 ゆっくりと体を回転させているイカをつかみあぐねている不良に対し、僕たちは「何も触ろうとしなくてもよかろうに」と思いつつも、口パクと寸止め拍手で励ました。

 皆、自分の出した音で、状況に変化が訪れるのは避けたかったのだ。


 意を決した不良がイカをつかんだが、浮いている空間からイカを動かすことはできなかった。

 少しづつ十本の足が、不良の腕に絡みつきはじめた。


「何だよ、これ。怖えよ。助けて、ママ」

 ママと呼んでいるんだと思うだけで、クラスの中に、彼を助けようとする者はいなかった。

 このクラスの者は、皆、傍観者であり、大人であった。


 パニックに陥った不良が、最後の手段とばかりに、イカの胴体を両手で締めあげると、何かしらの効果があったようで、イカの体が朱色に変化しはじめた。


 視線が一人と一匹の闘いに集中している最中、副委員長の叫び声が教室に響いた。

「先生、先生の口」

 目をやると、白衣の教師の口から、白い泡が出ていた。


 近くの生徒が近づこうとしたところ、教師が椅子から転げ落ちた。

 叫び声が上がる中、委員長がとなりのクラスに飛び込んだところで、チャイムが鳴り、不良の腕に巻き付いていたイカは姿を消した。



 床に寝かせられていた化学教師は、委員長に連れてこられた世界史教師にほほを叩かれ、目を覚ました。


 いきなり頬をぶった世界史教師は、結婚できないことを授業中に生徒へ相談する、困った女性であった。

 良縁に恵まれない理由は、こういうところにあるのではないかなと、僕は思った。

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