私を捨てた父

 私は母子家庭に生まれた。

 頼るべき身内のいなかった母は、働きづめの果てに、職場で死んだ。

 私が小学校四年生の時であった。


 母はほとんど家にいなかったので、彼女との思い出は、これといってない。

 ご飯は作ってくれていたが、家に一冊だけあった料理本のおかずが、そのレシピ通りにローテーションで出てきた。

 誕生日を祝ってもらうこともなく、季節の行事も私には関係がなかった。


 私の前で、母はとても無口であった。

 叱られることもなければ、学校の話を聞いてくることもなかった。

 たまに、母の口から出てきたのは、厳しい家計の話だけであった。

 独り言のようにぼそぼそと、母は私に説明した。


 逆境の中でも、親としての務めを果たそうという執念を、母から常に感じていた。

 しかし、それと同時に、私を重荷に感じていることが、ヒシヒシと幼い身にも伝わって来た。


 母は働きすぎで死んだが、それは他人から文句を言われない自殺のようにも、私には映った。



 母が死に、身寄りのない私は児童養護施設に入った。


 私の父は、母が身籠ったことを知ると姿を消し、そのままゆく方知えしれずとなった。

 そのため、母は私を未婚で産んだ。


 母との暮らしにはない辛さもあったが、施設での生活はあまり苦痛ではなかった。

 母にはわるいが、より人間らしい日々が送れた。


 施設から学校に通っていると、嫌な目に会うことも多かった。

 しかし、自分に責任のないことで責められたときに、それをあしらうすべは心得ていたし、ないものをねだってもしかたがないことを、私は言葉ではなく、実感として悟っていた。

 だから、耐えられた。



 施設での日々が淡々と過ぎ、中学校二年生になったとき、私は、ある家の養子となった。

 養父は、父の知り合いで、そこそこ大きい会社の経営者であった。

 私の父は、私の母だけでなく、関わりのあるほとんどの人に迷惑をかけ、どうにもならなくなった果てに、失踪した。


 ただ、そんな父にも、羽振りの良い時期があり、その時の援助で会社の倒産をまぬがれた養父が、私の存在を伝え聞き、養子の話を持ってきた。


 施設で初めて面会したとき、養父に私は、だれから私のことを聞いたのかを尋ねた。

 返ってきた答えは、君のお父さん、であった。



 私の実父は生きていたが、いまは世捨て人となり、寺で寝起きをしているとのことだった。

 実父のもとを養父は訪れ、まとまった金を差し出したが、実父は受け取らなかった。

「むかしのわたしは死にました。むかしのわたしが、あなたをお助けしたことは、いまのわたしには関係がありません」

 断る僧形の父に、義父は食い下がった。

 結果、根負けした実父は、私のことを持ち出した。

「いまのわたしには関係のないことですが、むかしのわたしに対する恩を返したいのならば、むかしのわたしが捨てた女に、娘がいるそうです。その娘を助けることで、あなたの気がすむのならば、そうなされてはいかがですか」

 私は話を聞いて、悲しい気持ちにはならなかった。

 私に関係があるようで、私には関係のない話のように思えたから。



 義父母の間には子供がおらず、二人は私をわいがってくれた。

 与えられた部屋が、自分で選んだもので満たされていくと、いままで経験したことのない感覚に包まれた。

 それが幸福感と呼ばれるものであることを理解した私は、早く自分で生活の糧を得られるようになりたいと思った。

 なるべくたくさん、効率よく。


 家庭教師をつけてもらい、私は県内有数の進学校に入学した。

 義母は、自分も通っていたお嬢様学校に入ってほしかったようだが、それは断った。

 私が養子に入って義父母に逆らったのは、この一件だけであった。



 ひたすら勉学に励んでいた高校一年生の冬、義父から実父に会うことを勧められた。

 あとから後悔しないように、一度会っておいたほうがよい、とのことであった。


 当初、義母は反対したが、義父が説得し、一度だけならと意見を変えた。

 私はどちらでもよかったので、義父母の言う通りにした。



 その日は曇り空で、石の階段の両脇に、雪が積まれていたのをよく覚えている。

 義父とふたりで、長い階段を登った。


 山のうえにある大きな寺に入ると、学生服姿の自分が、とても浮いた存在に思えた。

 施設を出る前は毎日おぼえていた感覚に、久しぶりに襲われた。



 茶室へひとり通されると、お坊さんが火鉢の前で正座をしていた。

 お坊さんの顔は、毎日、鏡に映る顔によく似ていた。

 私は火鉢を挟んで、お坊さんの前に坐った。


 お坊さんは、私の顔をしばらく見つめたあと、火箸で炭をいじりながら、独り言のようにつぶやいた。

「わたしは死にたかったのです。しかし、死ねなかったのです。死ぬのは怖いですから。ただ、何事もないまま、消え去りたかったのです。しかし、それは死ぬよりも難しいことでした。わたしは、わたしの肉体を残しながら、むかしのわたしをなくし、別のわたしになれないものかと考えました。そのために修行を重ねました。結果、むかしのわたしを捨て、やすらぎを得られるようになりました。瞑想をしていても、むかしのことが、なにひとつ思い浮かばなくなりました。しかしです。あなたを一目見ただけで、わたしはなにも捨てられていなかったことがわかりました」


 何も答えずにいると、お坊さんは、焦点の合わない目を私に向け、さらに言葉を重ねた。

「また、一からやり直しです。しかし、あなたに会って、まだ、わたしには捨てなければならないものがあることが、わかりました」

 何ですかと私が尋ねると、お坊さんは火箸を一本づつ、逆さに握り、そのまま両目に突き刺した。

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