背中の視線
ある晩秋の日、家の庭に植えてあった松の木を、業者に頼んで切り倒した。
これで、毎年、毛虫の始末に追われることもなくなる、という算段であった。
祖父がこの土地を買う前から生えていた老木であり、私が家を建て直した時も切らずに残しておいた。
私としては、毛虫の件だけでなく、家が洋風ということもあり、建て直すときに切りたかったのだが、いまは亡き母に
しかし、その母が亡くなり、虫退治を自分が担うようになると、やはり作業が重荷になったので、母に申し訳ないと思いながらも、業者を呼んだ。
チェンソーで簡単に倒れた松の木は、若者ふたりが軽々とトラックに運んで行った。
とりあえず、毛虫さえわかなければいいので、切り株は掘り起こさずに残すことにした。
異変を自覚したのは、それからしばらく
一人で道を歩いていると、ときどき、背中から何物かの視線を感じるようになった。
当初は振り向いたところで何も姿を見せなかったので、仕事の忙しさによる精神の変調、ということで自分を納得させていた。
しかし、仕事がひと段落して帰宅が早まっても、視線を感じる頻度は高まるばかりであり、とうとう外をひとりで歩いているときには、常に何物かの存在を感じるようになった。
何とも気味のわるい日々が続いたあと、その視線の正体を知った。
冬も中盤に差し掛かった休日のことであった。
近所へ買い物に出かけた私が、何ひとつ身動きをしない道路を歩いていると、背中からいつもの視線を感じた。
その瞬間、私は一計を案じ、角を曲がったところで体を反転させ、来た道をのぞいた。
すると、曲がり角のところには、何もいなかった。
その代わりに、少し離れた電信柱の陰から、こちらを見ているものがいた。
体は普通の成人男性の姿をしていたが、問題は頭部で、人間のものの代わりに、雄鹿のそれがのっていた。
マスクや着ぐるみではなかった。
その化け物が、こちらをじっと見つめていた。
私が思わず声を上げると、その化け物は逃げて行った。
叫び声を聞きつけた住人が窓越しに「なにごとですか」と声をかけてきたので、私は
この日を境として、もう遠慮はいらないとばかりに、化け物は姿を見せるようになった。
単なる幻覚なのか、そうでないのかは判断がつかなかった。
私が一人でいるときにしか現れなかったし、気味がわるいので近づく気にもなれないでいた。
その化け物のことを、私はいつの間にか、
会社でも家庭内でも、責任のある立場であった私が、だれにも相談できずにいると、鹿人の行動は段々とエスカレートしていった。
化け物が現れるのは、ひとりで外を出歩いている時だけだったのが、ある日、会社の会議室に入ると、部屋の片隅で奴がこちらを見つめていた。
気を抜いていた私は驚きのあまり、その場に尻もちをついてしまった。
しばらくして部屋に入って来た部下が私に駆け寄り、「どうされましたか」と声をかけてきた。
私は「あそこに」と、鹿人のいたところを指さしたが、すでに化け物は姿を消していた。
いぶかしがる部下に私は体調不良を訴え、その日は早退することにした。
電車を降り、家に向かった。
このころになると、遠回りでも人通りの多い道を選んで帰宅していたのだが、夕方と昼では人通りがちがうため、その通りにはだれもいなかった。
とうぜんのように、私の後ろを鹿人が歩いていた。
今日はスーツ姿であった。
日を重ねるごとに、ふたりの距離は縮まっていたが、今日はとくに近く、飛びつけば捕まえられそうなほどであった。
恐ろしくてそのようなことはできなかったが。
歩きながら、私はかなりイライラしていた。
この化け物によるストレスはかなり溜まっており、他人から見てもそれは分かるようで、家庭や会社でも心配されはじめていた。
しかし、原因を伝えることはできなかった。
「いったい、おまえは何なんだよ」
私は思わず、鹿人に向かって、昼間の住宅街で叫んでしまった。
それに対して、鹿人は、じっとこちらに視線を送るだけであった。
私が鹿人の様子をうかがっていると、アパートの窓が勢いよく開き、住人が私を無言でにらんだ。
化け物のほうを見ると、すでに消えていた。
私は駆け足でその場を去った。
もうこの通りは歩けない。
肩で息をしながら、自宅の玄関を開け、リビングに入ると、テーブルに鹿人が坐っていた。
もう家の中もだめだった。
ソファーに腰を落とし、目を閉じた。
鹿人の視線を感じながら、家族が帰宅するのをただ待った。
最初に帰って来たのは妻であった。
居るはずのない私を見つけると、小さく声を上げた。
そして、しばらくしてから、ソファの前でひざをつき、私の手を取りながら、病院に行くことをすすめた。
「とりあえず、安定剤と睡眠薬を出しておくから」
鹿人の話を聞き終えた老医師は、古びた診察室で、淡々と私に告げた。
薬を服用して、一度様子を見ようという話であったが、別れ際に気になることをつぶやいた。
「これはもしかしたら、私の仕事ではないかもしれないね」と。
薬を飲んで少しは良くなるかと思ったが、まったくの逆効果であった。
現実の世界だけではなく、とうとう夢の中にまで、鹿人があらわれるようになった。
夢の中でも、奴はなにをするわけでもない。
真っ白な何もない空間で、両手で膝をかかえて坐ったまま、じっとこちらを見ている。
私が何を言っても聞こえていないようであった。
そのままで数日が過ぎ、たまりかねた私は、夢の中ということもあり、鹿人に飛びついてみた。
しかし、奴はするりと逃げて距離を取り、その場に坐った。
そして、いつものように、こちらを見つめ続けた。
その後、事態はさらに悪化した。
飛びついたのがいけなかったのだろう。
翌日の夢の中で、鹿人が二匹に増えていた。
じっとこちらを見ている二匹の様子から、私はある不安に駆られた。
そして、それは的中した。
さらに次の日になると、夢の中の鹿人は三匹に増えていた。
おそらく、これから毎日増えていくのだろう。
この頃になると、道や家の中で鹿人に会っても、さほど気にならなくなっていたが、夢の中で増殖していくのには参った。
余計なことはするものではない。
医者に出向いてから二週間たったので、再度、足を運んだ。
しかし、「もう少し様子を見よう」ということで同じ
事情が事情だけに、私も抗議がしづらく、となりの小さな薬局に向かい、薬が用意されるのを待った。
清潔な待合室には私しかおらず、薬剤師も奥へ引っ込んでいた。
私がふと、備えつけのテレビから目を離すと、すぐとなりで鹿人がテレビを見ていた。
私は自分の口をふさぎ、声が外に漏れるのを防いだ。
病院の帰り道、地下鉄に乗ろうとしたところ、高架下で、占い・除霊の看板が目に入った。
看板の後ろの、外から見られないように紫色の布で仕切られた中に、占い師が坐っているのだろう。
やはり、こういう時には、その道の専門家に頼るべきなのだろうか。
しかし、本当に化け物を何とかしてくれる専門家などいるのか。
まあ、化け物がいるのだから、それをどうにかできる人間がいても、理屈には合うかしれない。
そのようなことを考えながら、私が薄汚い布をめくると、いかにもといった感じの老婆が机の前に坐っていた。
「あんた、すごいものを連れて来たね」
目の前の椅子に腰をかけようとした私に、老婆が言い放った。
「見えますか」と尋ねる私に、占い師は首を横に振った。
「それと因縁のない私には見えないよ。感じるだけだ。ただ、どうすればいいかはわかる。それが教えてくれるからね。ただ、念のため、いきさつを教えておくれよ」
好奇心を抑えきれない様子で、老婆が話をうながした。
数日後、老婆に言われるまま、松の切り株を業者に掘り起こさせると、その下から鹿の
さらに後日、占い師のなじみの業者へ頼み、松の木のあった場所に、小さな
妻は始終不安そうに私の様子を見ていたが、社を建ててから、徐々に元気を取り戻しつつある夫を見て、安心したようであった。
占い師のおかげで、鹿人が私につきまとうことはなくなった。
しかし、毎年、決まった時期に、社の中から羽虫が大量に発生して、その始末に追われるようになった。
また、社の手入れをおこたると、決まって夢の中に、鹿の頭をした男が現れて、私をじっと見つめ続けた。
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