#3

 失せ物探しの鉄則は、諦めることにあるのだという。

 躍起になって探せばそれだけ視野は狭窄し、焦燥は思考を単調化させる。「ここにあるはずなのに」と部屋の隅を引っ掻き回した経験は誰にでもあるだろう。ふざけたハイド・アンド・シークだ。ただ『見つける』というだけの行為が、一度見失ってしまった僕らにはひどく難しい。

 隠れているはずもないのに。

 鬼の手は繰り返し、空を切る。

 僕らの目というものはその程度のものなのだ。見たいものを見ることは叶わず、見るべき時に光を失い、見なくてもいいものばかりを拾い上げる。

 故に、一度肩の力を抜いて、己を俯瞰する必要がある。これはそう言った意味での『諦め』であり、決して物事を投げ出しているわけではない。

 或いは――忘却でも構わないのかもしれないが、とにかくそういった無意識化において、僥倖の針は大きく振れるということなのだろう。ならば、僕が探しているものが見つからないのも、不思議な話ではないのかもしれない。

 何せ、僕は忘れられていないのだから。

 何せ、僕は諦められていないのだから。

 何せ、僕は今でも――。

「――くそっ」僕は悪態と共に、足元の石ころを一つ蹴跳ばした。

 心の中がごちゃごちゃにかき回されているようだった。『あいつ』がいなくなった日から続いていた精神の乱高下も、ここ数日は酷いものだ。ならばいっそのこと沈んだままでいてほしいものだが、僕のふざけた心は醜くもまだ何かを期待しているようだった。

 わからないことが多すぎる。

 何もかもが中途半端にしか明らかにならない。包装紙を半分だけ剥いだチョコレートのようだ。核心を知っていそうな連中は口を噤み、思わせぶりなことを言うばかり。僕だけがひとり、皆の掌の上で滑稽に踊っているだけだ。

 『あいつ』から、託されたもの。

 そんなもの、いくらでも思い当たる。僕はあいつからたくさんのものをもらった。それこそ、『あいつ』と出会えていなければ僕は人の形すら保てていなかったかもしれない。

僕の中に満たされた無数の思い出。僕という人間を形作ってきたもの。しかし、それらには今鍵がかかってしまっている。

後悔という名の、錠前が。

「…………」僕は歩きながら、少しずつ心を落ち着かせていく。

 秀昌さんの手伝いがひと段落した僕は、再び『赤レンズ』に戻ってきた。昼食までの間、部屋で考えをまとめようかと思ったが、どうにもじっとしていられず、今は意味もなく庭を歩き回っている。

 どうせなら黒木のおばあさんのところに話を聞きに行こうとしたが、何故か留守にしていた。黒木も不在だったため、どこに行ったのかもわからずじまいだ。

 浅瀬はどうやら、ミーティングルームで読書をしているようだ。さきほど様子を見に行った限りでは、彼女は昨日までと変わらない様子だった。今朝の出来事を意にも介していない――ということは無いはずだが、少なくとも状況が悪化していないのなら、幾分マシなのだろう。

 ――と、そこまで考えて、ふと思う。これ以上に状況が悪化することなどあるのだろうか。

 仮に、僕がこのまま何もできずに『空想祭』を迎え、彼女らと別れたとして、それはただ彼女らが今まで通りの日常に戻るだけのことだ。浅瀬の眼はがらんどうのままで、松前の肩は壊れたまま。けれど決して、それは『悪化』ではない。停滞であり、現状維持だ。

 ならば、僕がこんなに必死になって浅瀬の心を救おうとする必要があるのだろうか。それこそ、僕は彼女のギリギリのバランスで保たれている平穏に踏み入ろうとしているわけではないのだろうか。

 だとすれば、これ以上――何も、しなくていい?

「……センセー、怖い顔してんね」僕の思索を絶ったのは、横合いからかけられた声だった。

 声の主は東だった。縁側に腰かけ、足をぶらぶらと遊ばせながら、僕の方を眺めていた。

「ああ、なんだ、東か。どうしたんだ?」

 僕は適当に相槌を打ちながら、彼女の方に近づいていく。てっきり彼女は浅瀬か松前といるものだと思っていたから、一人で僕に声をかけてくるというのはほんの少しだけ予想外ではあった。

「ううん、大したことじゃないんだけどさ、ほら、私まだセンセーに謝れてないからさ」

 謝る? と一瞬だけ浮かんだ疑問は、すぐに氷解した。彼女は恐らく。一昨日の砂浜でのことを言っているのだろう。確かに、僕らは喧嘩別れのようになってしまっていた。松前が改心したことで、その辺りはなあなあになっていたものの、やはり筋を通したいということだろうか。

 しかし、あの件に関しては、別に彼女が悪いわけじゃない。

「別に、謝らなくったっていいぞ。僕も悪かった、無神経なことを言ったみたいだったしな」

 と、口にしながら、僕はなんとなくあのときのことを思い出していた。僕の発言のどこが気に障ったのかはわからないが、僕が彼女らの地雷を踏み抜いてしまったことだけは確かだ。ならばあの件はむしろ、僕が悪いのだろう。

「センセーは悪くないよ……というか、私たちが過敏になってたってこともあるし。何せ、あんなことがあった後だから――」

「……あんなこと?」僕は思わず、繰り返した。

 いったい何のことだろう。僕はてっきり、彼女らの抱える問題を軽視するようなことを言ったから反感を買ったものだと思ったのだが。

「……そっか、センセー、ニュースとかも見ないって言ってたもんね」

 東はどこか、悲しそうに言った。

「そういえば、前にも言ってたな。僕が本当にお前らのことを知らないのかとか、ニュースやSNSは見ないのかだとか」

「うん、だって、今の時代にそんな人いないじゃん。否が応でも目につくことはあるだろうし、そんな風に徹底的にメディアを避けてるなんて」

「……まあ、な。僕にもちょっと、込み入った事情があるんだ」

 そう、曖昧に濁すことしかできなかった。

 事件当時、『あいつ』の死をどのメディアも積極的に取り上げた。というか、まだあれから二週間しか経っていないのだから、今も煽情的に報道しているのかもしれない。『あいつ』は何が好きだっただとか、将来はこうなりたかっただとか、あることないことないまぜに、興味を煽るためのコンテンツとして消費しようとしていた。

 僕はそれが、許せなかった。『あいつ』を人の目を引くための道具として利用した報道機関も、それを目にして好き勝手言葉を連ねる部外者も。

 そしてなにより、辛かった。画面に『あいつ』の顔が映る度、僕の理性は赤い後悔に引き裂かれた。みちみちと、肉の千切れる音を響かせながら、何度も僕の心は血を流した。

 だから、僕はニュースを見るのを止めた。逃げるようにして、あらゆるメディアを身の回りから遠ざけた。

 そうしなければきっと、僕は今、生きてはいなかっただろうから。

「ふーん、そうなんだね。変わってるとは思うけど、私たちも訳ありなのは一緒だからね。いつか、話せるようになったら教えてよ」

「……ああ、わかった。それにしても、ニュースとか見てれば知ってるって……お前らはそんなに有名人だったのか?」

 いや、そんなことはないだろう。

 僕が文芸部のメンバーについて調べた時に、名前がネットの検索にヒットしたのは二人だけだった。一人は松前。高校一年生にして全国制覇を成し遂げた、天才剣士。そして、もう一人は――。

「ううん、違うよ」東はゆるゆると首を振る。「有名なのは私たちじゃなくて、私たちの学校、そして――コウタロウだよ」

 コウタロウ。

 唐突に出てきたその名前に、僕は驚きを隠すことができなかった。

 できなかったから、必然、見破られる。

「やっぱり、知ってるんだね、コウタロウのことは」

「……ああ。松前と榊が話してる時に、名前が出てた。確か、裏切りがどうとか――」

 松前は、かつて部活の先輩に裏切られている。

 裏切られ、競技者としての生命を絶たれた。だから彼がそれについて恨み言を重ねるのは、わかる。

 しかし、あの時に彼はこう言っていた。

『そうっすよね、先輩? だって今までもそうだったんだ、今さら何かを信用しようなんてのは、無理なんじゃないっすか?』

『三咲はよくわかんねえっすけど、あんただってそうじゃないんすか。そうっすよね。浅瀬だって、俺だってそうだった。そうだったから、俺は――』

 つまり、これが示すところは。

「……お前ら光代高校文芸部は、誰かに裏切られた奴らの集まり、なのか?」

 僕の言葉を、東は否定しなかった。

 目を伏せて、静かに首肯する。

「……うん、そうだよ。私たちは皆裏切られた。将吾は先輩に、私は事件を握りつぶそうとする学校に、そして部長のことは――もしかすると知ってるんじゃないかな」

 彼女の言葉を、僕は否定しなかった。

 けれど、肯定もしなかった。

 構わずに、彼女は語り続ける。

「そう考えるとね、浅瀬ちゃんとコウタロウは、たぶん同じ傷を抱えてたんだ。同じ傷つき方をして、同じ悩みを抱えて、自分の欠損を補い合える誰かを探して文芸部に流れ着いた」

「同じ傷、同じ悩み……」僕は言葉をなぞる、その意味を飲み下すために。

「まあ、浅瀬ちゃんに比べると、コウタロウはすごく明るかったかな。いつだってハキハキしてたし、誰にでも優しかった。部のみんなが彼を信頼してたと思うし、私自身も、いい後輩だなと思ってたよ」

「それなら……」と、出かかった言葉を危うく呑み込んだ。

 どうして、その『いい後輩』とやらは、この合宿に参加していないのだろうか。

 どうして、彼を形容する言葉はどれも、過去形なのだろうか。

 しかし、隠した続きを東は汲み取ったようだった。

「……死んじゃったんだ、あの子」彼女はこともなげに言おうとしたようだったが、その声は確かに震えていた。「ほんの何週間か前に、学校の屋上から飛び降りたんだよ。私たちがこの町に来たのも、マスコミや野次馬から逃げるため。本当にうるさかったんだ、『イジメがあったんじゃないか』とか、『変わった様子はなかったか』とかさ。本当に、うんざりしてたんだよ」

 僕は、はにかむ彼女に、かける言葉がなかった。

 コウタロウ、そう呼ばれていた少年は既に死んでいた……?

 確かに、それなら合点がいく。浅瀬がどうして、『あいつ』の訃報を知らなかったのか。僕と同じで、彼女もニュースを避けていたのだろう。

 脳裏に過ぎったのは、今朝の浅瀬との会話だ。生きている意味などないと、ハッキリ言い切る彼女の姿は、どこかで見た誰かに似ていた気がした。

 既視感。

 希死観。

 彼女に漠然と抱いていた苦手意識は、それが理由なのだろうか。僕がかつて見ていた何かの写し鏡。

映死鏡。

 僕は一体、彼女に何を重ねているのだろう。彼女を通して何を見ようとしているのだろう。僕は一体――。

「……センセー、顔真っ青だよ。ごめんね、聞いてて気持ちのいい話じゃなかったよね」

「……あ、ああ、大丈夫だ。気にしないでくれ」

 ほんの少しだけ、迷った。

 今なら、東に僕の抱えている後悔を打ち明けてもいいのではないかと、今がその好機ではないのかと、そんな考えが僅かに過ぎった。

 血迷った。

 それが間違いであることくらいは、そう考えずともわかるはずなのだ。

 確かに、自分の弱みを晒すのは楽なことだ。しかし、僕は決して、彼女らに同情されたいわけじゃない。むしろ、哀れみという感情は、僕の言葉から簡単に重さを取り払ってしまうだろう。そうなればもう、僕はここにいる資格すらなくなってしまう。

 ギリギリの境にいるという自覚を持たなければ、僕はもう立っていられない。だからここでも、僕は自分の傷を隠すことにした。

「こんなこと言うの、すごくおかしなことだってわかってるんだけどさ。実はほんの少しだけ、期待してるんだ」

 縁側から降りてきた東が、くるりと回転しながら僕と並ぶ。頭一つ以上違う身長も、言葉を交わすだけなら問題はない。

 顔を逸らすわけにもいかない。

 逃げられない。

「将吾のことを救ってくれたセンセーなら、浅瀬ちゃんのことも何とかしちゃうんじゃないかって、そんな風に考えるんだ」

「……僕には、そんな力はないさ。松前だって、お前が――」

「違うよ」そう、彼女は断じた。「センセーがいなかったら、私たちはきっと一生あのまんまだった。一方通行の袋小路。もっと自信持ってほしいな」

「自信、なんて……」僕はその続きを接げなかった。

 自信など持てるはずがない、だって僕にはなにもないのだから。誇れるものも、大層な信念もない。『あいつ』と出会うまで僕は空っぽで、『あいつ』を失ってからの僕は再び空っぽになった。

 空っぽの、がらんどう。

 そういう意味では、僕と浅瀬は同じものなのかもしれない。同質であり、投影した誰かであり。そんな対偶のような存在が彼女であるならば。

 在原幸輝は、中臣浅瀬にどう立ち向かえばいいのだろうか。

 結局は、そこだ。いくら御託を並べたとしても、それが彼女に届かないのならば意味はない。彼女と僕の相性は最悪なのだろうが、それでも、何かあるはずだ。

 何か、彼女の首元に届く何かが、あるはずだ。

「……でも、やれるだけはやってみるさ」

 僕の落としどころはここだった。虚勢など張れない。大きなことも言えない。等身大の決意が、今の精一杯だ。

「それでこそ、在原センセーだよ」東が歯を見せてにかっと笑った。

「なんだよ、それでこそって」

「自信もないし、たぶんどうしようもない状況なのに、他人のために最善を尽くそうとする。そんなまっすぐで裏表のないところが、センセーの持ち味じゃん」

「持ち味って、お前……」

 そんなことは無い。僕にだって腹の中に抱えているものはあるし、決してそこまで愚直に他人に尽くしているわけではないのだ。

「そりゃあ、最初は頼りないと思ったし、人んちの事情にズケズケ踏み入ってくる人だなと思ったけどさ。でも、センセーは誰かを助けるのに、傷つくのも気にせず突っ込んでくる人じゃん」

 だから、と、彼女はほんの少しだけ背伸びをして。

「信頼してるよ、在原センセー」

 東はそう言うと、そのまま踵を返して『赤レンズ』の中に消えていった。悪戯っぽく、あるいは普通の少女のように、笑いながら。

 一人残された僕は立ち尽くす。彼女らの期待に、僕はどう応えるべきなのか。

 あるべきものを失った体は、それを自覚してしまうと酷くそら寒く感じた。あるいは今まで必死に目を背けてきたものを、今ようやく直視させられているのかもしれない。

 ――ひとつ。

 ひとつだけ、考えがあった。

 決して冴えたやり方ではなく、泥にまみれた見苦しい、それこそ無数に存在する次善から嘲笑を浴びそうなほどに非効率的な遠回りだが。けれど、一つだけ僕にできることが、ある。

 あるのなら、僕は動かなければならないだろう。

 重い足を引きずる。体に血が通っている感覚がまるでしなかった。けれどまだ生きている。無様に恥を晒しながら、僕の全身は代謝を続けている。

 それはもしかするとこの上なく――残酷な事実なのかもしれなかった。



 ***



 関乃さんは料理が上手い。

 『赤レンズ』全体の掃除を一人で行っているところを見ると、家事全般が得意なのかもしれない。何事もそつなくこなすあの人らしいと思うし、その手際の良さは見習いたいものだ。

 故に、今日の昼食――夏野菜カレーも、衒った言葉を挟む余地のない絶品だった。ズッキーニとトマト、南瓜にオクラ。単なる彩りだけでなく、噛む度確かに感じる野菜の旨味と風味がスパイスとよく調和している。

 皆で揃って舌鼓を打っていると、不意に秀昌さんが口を開いた。

「そういえば、君らは『空想祭』には行くんだよな?」

 君ら、というのは勿論文芸部員のことだ。僕が含まれているのかはわからないが、引率をしなければならないのだろうから、どっちでも同じことだ。

 それに答えたのは、当然というか部長の榊だった。

「はい、一応、そのつもりです。元々学校に提出した書類にも、『空想祭』の見学が目的って書きましたから」

「でもさ、部長」松前が一匙分を飲みこむ。「正直俺、よく知らないんすよね。ここの神様ってのは、一体何のご利益があるんです?」

 東も、それに便乗するようにして頷いていた。浅瀬は昔この町に住んでいたということだし、榊は学校の書類に書くくらいだから知っているだろう。となれば、知らないのはこの二人だけになるのか。

 僕も以前に調べたことがあるため知っている。この町に来る直前、ネット検索で得た知識ではあるが。

「……芸術」ぽつり、平坦な声で浅瀬が言う。「『絵空様』は芸術の神様だよ」

 『絵空様』という言葉には聞き覚えが無かったが、恐らく絵空神社に祀られている神様のことだろう。浅瀬はそれだけを口にすると、再び匙を口に含んだ。

「そう、浅瀬ちゃんの言う通りだ」引き継いだのは関乃さんだった。「こんな田舎町の神様だけど、芸術に関するご利益はすごいんだよ。それこそ、有名なアーティストがわざわざ拝みに来るくらいだからね」

「へえ、そうなんすね。俺はてっきり、近所の縁日くらいの気持ちでいたぜ」

 松前はそう言って、歯を見せて笑った。隣にいる東が、呆れたように息を吐いているのが見えた。

「まあ、文学も立派な芸術の一つだ、拝んでおいて損はないだろう」

「神様にお願いしたらもしかすると将吾も、少しはまともな作品が書けるようになるかもしれないよー?」東が茶化すように言う。

「うっせえな、俺はああいう作風なんだよ。いいんだ、書くのより読むのが好きだからな」

 そう言いながら、彼は一気にカレーを掻き込んだ。かと思えば、すぐに噎せ始めて東に頭をはたかれていた。

 どうやらもう、彼は心配いらないようだ。昨日レクリエーションに参加してくれた時もそうだったが、最初に会った時のような敵意や尖った様子は、もうほとんど見られない。こうして輪に加わっている姿は、明るく人好きのしそうな普通の少年だ。

 僕と同じことを感じていたのか、榊も満足そうに口角を上げていた。

「早いもので、合宿も残すところ今日を入れて三泊四日になった。それでもまだたっぷり時間があるように思えてしまうけど、たぶんあっという間だろう。だからせめて、お祭りではみんな楽しく、それこそ一生モノのの思い出を作ろうじゃないか」

 さんせーい、と、東が勢いよく手を上げた。それと同時に立ち上がったものだから、松前が「ちゃんと座って食えよ」と口を挟む。そして始まった二人のじゃれ合いに、再び一同は笑いに包まれる――。

 ――ただ一人を、除いて。

「…………」

 浅瀬は表情一つ変えようとしなかった。ただ黙々と、匙を動かし続ける。

 味の感想の一つも無い。感情が欠落してしまったかのように、この場において彼女だけが色彩を失っていた。

 温度差。

 僕らをもしサーモグラフィで見たのなら、きっと、僕と浅瀬だけがこの場では冷たく、青白く見えたことだろう。

 この蒸し暑い奥瀬で、僕らだけがひどく冷え切っていた。

「……在原くんは、どうなんだ?」

 潜航を始めていた僕の意識は、唐突に引き戻された。

 話を振ってきたのは秀昌さんだった。彼の皿はもう半分ほどが空になっていて、淵の方で乾いたカレーのルーが、スプーンの軌道に沿って不格好な曲線を描いていた。

「あ、えーっと、どうって、何がです?」

「何がって、『空想祭』だよ。在原くんも奥瀬は初めてだし、折角なら見ていけばいいと思ってな」

 窮した。

 『空想祭』。僕は今までそのイベントを、どこかタイムリミットのようにしか考えていなかった。確かに準備は少し手伝っていたが、自分が参加するだとか、そんなことは露ほども考えていなかった。

 いや、違うか。僕が考えていなかったのはそれだけではない。そもそもこの奥瀬に、いつまで滞在するのか、この仕事が終わったらどうするつもりなのか。

 僕が考えていなかったのはそういうことだ。それだけこの数日間が濃密だったというのもあるだろうが、そんなことは言い訳にはならない。

 とはいえ――祭り。

 そんなものに参加する気には、正直なれない。

 まだ『あいつ』の喪も開けていないのだ。そんな状態で、心から楽しむことなどできる気がしなかった。だからここは、適当に濁しておこうとして。

「――当然、参加しますよね」

 僕の言葉は、ぴしゃりと遮られた。

 その主は意外な人物だった。テーブルを挟んだ向かいに座る榊。彼はその強い意志のこもった目で僕を見つめながら、さらに続ける。

「だって、在原センセーは僕らの引率なんですから。お祭りにも一緒に参加してもらわないと困ります。ほら、人の多いところにはトラブルがつきものですしね」

 そう言いながら、彼は匙を口に含んだ。涼やかに笑うその目元からは、一切の意図が汲みとれない。

 確かに、僕がついていくのは道理かもしれない。引率というのであれば、そういった人の多いところに同行するのなんかはまさに僕の仕事だろう。

 それが僕を祭りに連れ出す口実のようにも聞こえたのは、いささか、自意識過剰かもしれないが。

「そうだよ、在原センセーも参加するべきだよ! もし将吾が問題でも起こしたらどうすんのさ!」

「起こさねえよ!」東の言葉に、立ち上がりながら松前が抗議する。

 浅瀬は――いつも通り棄権だとしても、どうやらもう、断れるような雰囲気ではなくなってしまったようだった。

「……わかったよ。僕も祭りに行く、どうせなら、一緒に楽しもう」

 僕は観念して両手を上げながら、そう口にした。

 別に意地になって断るようなことじゃない。見張りの大人がいた方がいいのも事実だ。折角の誘いを無碍にする理由は見つからないし、彼女らに目を光らせておけるのなら、それに越したことは無い。

 どうせ、祭りが終われば僕らの関係にも終わりが来る。なら、それまでに結果は出ているはずだ。

 僕が彼女らと向き合えたのか、それとも、何もできないままで時は流れたのか。

 或いは――その前に僕が壊れてしまったか、だ。

「……センセー、暗い顔してんね」覗き込むようにして、東が言う。「もしかしてお祭り、あんまり好きじゃなかった?」

「いや、そういうのじゃないんだ。ただ、こう、ちょっとな……」

 濁しながら、じんわりと胸に広がる自己嫌悪をどうにか飲み下す。

 すべてが終わった時に僕が立っていられるのかなど、些末な問題だ。どうせここから帰れば僕はまた、あの化石のような日々に戻るのだから。

 後のことなどは、考えても仕方がない。

「はっはっは! まあ、田舎町の祭りだがよ、この辺じゃあ一年に一度の一番でっけぇ催し物だ。在原くんも、こう暑けりゃブルーになるのはわかるがよ、せいぜい楽しんでいってくれや」

 秀昌さんが大仰に体を逸らしながら笑う。その巨躯の重さに、たまらず椅子がギシリと軋んだ。

 「そうそう、お祭り当日は私たちも運営の方に回っちゃうし、ここの手伝いはしなくていいからね。この子らと羽を伸ばして来ればいいさ」

 合わせるようにして、関野さんがはにかむ。そもそも普段からそこまで手伝えていることは無いのだが、それでも形だけの休暇ということだろうか。

 ともあれ、そこまで言われてはもう前言を翻すことは許されない。いや、もとより翻す気などないのだが、退路を断たれたというのはいかにも、言葉にしてみれば大袈裟に感じるものだ。

 ならばせめて、祭りの空気を壊さないように表情くらいは作れるようにしておこう。と、僕がそんな風に諦め交じりに愛想笑いを浮かべようとした。

 その時だった。

「……けじゃない」か細い声が、一同の間に割り込んだ。

 しん、と、音が消える。声が絶える。絶えずわめき続けていた蝉の声も、微かに届いていた海鳥の声も、何もかもが鳴りを潜めてしまった。

 空になったカレー皿に目を落としながら、声の主――浅瀬は続ける。

「芸術、だけじゃない。『絵空様』は……と……の――」

 最後の方は、もごもごと口ごもるような喋り方のせいで聞き取ることができない、けれど、確かに聞き取れた音節があった。

 『だけじゃない』。つまり、『空想祭』は単なる芸術の神様を祀るだけのイベントではないということなのだろうか。

 わからない。けれど、浅瀬はかつてこの町に住んでいたという。なら、その彼女が口にした情報の信憑性は極めて高いのではないのだろうか?

「なあ、浅瀬、それって――」

 僕がそう、訊ねようとした刹那。手拍子が二度、鳴り響く。

「はいはい、そろそろ皆食べきった頃だろう。雑談もいいが、あんまり脱線しすぎると私がお皿を洗う頃にはカレーの汚れが落ちなくなっていそうだ」

 そう口にしながら立ち上がったのは関乃さんだった。

 そのタイミングは――どう見ても、不自然だった。

 まるで浅瀬に、その先を言わせたくないかのような。彼女らしくもない、意図が透けて見える行動。

 何故か。答えはなんとなく、僕にも掴めている。三十六年前、確実にこの奥瀬の地で何かが起こった。

そして、それは帷子夫妻の時計を止めることになった。その時何が起こったのかはわからないが、察するに、決して明るい話ではないだろう。

 『空想祭』。

 僕が思っているよりも、懸案事項の数は多いのかもしれない。けれど少なくともこの件に関しては、一つだけ当てがある。

 奥瀬という町のことを、僕はたぶんもっと、深く知らなければならないのだろう。そのためにできることは、しなければならないことは、決して少なくはないはずだ。

 この後の動き方、それがきっと、これまで以上に大切になってくる。なら、僕はまず、誰に会いに行くべきなのだろうか。

 ――その答えはたぶん、わかりきっていた。

「よし、それじゃあ、この後準備ができたら門の前に集合だ。午後は――」

 榊が皿をまとめながら声を張り、全員に聞こえるように何事かを告げる。僕はそれを、ほとんど聞いていなかった。

 僕の頭にあったのは、答えの出ない問答と、一握にも満たぬほどの祈り。

 けれど、きっとそれが最善手であると、僕は疑っていなかった。

 麦茶のボトルの表面を伝う一筋の汗を眺めながら、僕はしばし、息苦しいほどに暑い空気で肺を満たしていく。

 勝負の午後が、始まろうとしていた。

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えそらの さんささん @Sansasaaaan

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