#2
その日は、夢を見なかった。
思い出に苛まれることなく目を覚ました僕の胸中にあったのは、寂しさと一握の安堵だった。『あいつ』のことを思い出さずに済んだ、と、それがいいことなのか悪いことなのかはわからないが。
ともかく、僕は目を覚ました。奥瀬を訪れて、三度目の朝だ。
『空想祭』はもう明後日に迫っている。僕が奥瀬にいるのも、もう残り三日ほどになったわけだ。
やらなきゃいけないことはたくさんあるが、いつだって時間は有限だ。昨晩の酒が残る頭は重かったが、僕はどうにか気力を振り絞って、朝食の手伝いに向かうことにした。
扉を開けると、『赤レンズ』はひっそりと静まり返っていた。まだ誰も起きていないのだろうか。僕はなんとなく憚られる気がして、足音を殺しながら階下に歩いていく。
『赤レンズ』は相応に広い。客間の数もそこそこあるし、『空想祭』の期間中ももっと客を受け入れれば儲かるのではないだろうか。そもそも祭りの規模がどんなものなのかはわからないが、数日過ごしてみて、この町には他に人を惹きつけそうな要素が無いと思ったのも事実だ。
過疎化の波に飲まれた、小さな田舎町。
それが、僕が奥瀬に抱いた印象だ。
なんて与太話を頭の片隅に浮かべながら、僕は階段を下りていた。そして、それが聞こえてきたのは、最後の一段に足をかけたあたりだっただろうか。
「――やっぱり、浅瀬ちゃんだったんだね。随分久しぶりじゃないか」
それは、関乃さんの声だった。食堂の中、彼女の良く通るアルトは、閑散とした廊下にいても聞き取ることができた。
こんな朝早くから、誰かと――浅瀬? 聞こえてきた名前に、僕は思わず首を傾げた。
こっそり部屋を覗き込んでみると、そこにいたのは確かに浅瀬だった。見間違えようもない。落ち着いた色のパジャマは、初日の夜に行きあった時と同じものだ。
しかし、どうして浅瀬が関乃さんと話しているのだろうか。それに、あの口ぶりからすると、二人は知り合いだったというのだろうか。
「珍しい名前だからね、予約を取った時まさかとは思ったんだ。それにしても、もっと早く言ってきてくれればよかったのに」
「……ごめんなさい、帷子のおばさん。私も……ったんだけど、……から」
関乃さんの声に比べて、浅瀬の声は酷く聞き取りづらい。声量そのものが小さいのもあるだろうが、俯いたまま、抑揚に乏しく喋っているのも一因だろう。
「そうかい、まあ、こうして話す機会があってよかったよ。一度話したいと思ってた。君も、大変なことがあったみたいだからね」
その言葉に対する返答は聞こえなかった。僕が聞き取れなかっただけかもしれないし、本当に黙秘したのかもしれない。しかし、彼女の反応からして、あまり答えたくないことなのだろうなというのは察することができた。
それに構わず、関乃さんは続ける。
「ニュースで見たよ。随分悲劇的に報道されていたから、印象に残ってた。まさか君が光余高校の生徒で、それも当事者だったとは思わなかったけどね」
「……報道のことは……ません…。…ないようにしてたので」
「……それがいいだろうね。決して、愉快になるような内容じゃあなかった」
関乃さんは手元の透明なグラスに満たされた液体を、一口含んだ。恐らくアイスコーヒーだと思われるそれをゆっくりと飲み下すと、眼鏡の位置を正してから、しっかりと浅瀬と視線を合わせた。
虚ろの両目を、覗き込んだ。
「それで、だ。何か話があったんじゃないのかい? そろそろ朝食の支度を始めなきゃいけない時間でね、あんまり長くは聞いてあげられないけど、よかったら話してみなよ」
僕はふと、ポケットの中のスマートフォンに目をやった。時刻はそろそろ六時半というところだろうか。朝食まであと一時間。秀昌さんはもう出かけてしまっているかもしれないが、そうだとしても六人分の朝食を作るのであれば、確かにそろそろ準備を始めた方が良さそうな時間帯だ。
つまりは、単刀直入に言えということだろう。たとえがらんどうの少女が相手でも、関乃さんの調子はいつも通りのようだった。
「……は、どこにいますか?」
何を言ったか、一瞬聞き取れなかった。それはどうやら僕だけではなかったようで、関乃さんも「ん?」と聞き返している。
続けて、彼女はくり返した。そしてそれは今度こそ、僕の耳にもはっきりと届いた。
届いて、しまった。
「――おねえちゃんは、どこにいますか?」
どくん。
心臓が、大きく跳ねる。本来のリズムを見失ってしまったかのように止まっては跳ね、止まっては跳ね。刻まれる狂った律動が、全身の血を冷やしていった。
おねえちゃん。
まさか、とは思う。しかし、それを関乃さんに聞いているということは、恐らく、僕の想像通りなのだろう。
関乃さんの表情に、初めて見る動揺の色が浮かんだ。それはほんの一瞬のことだったが、その反応が僕の思考の裏付けになるとも言える。
つまり、浅瀬は『あいつ』を探している――?
「……どうして、そんなことを聞くんだい?」
誤魔化すように、関乃さんはグラスを持ち上げた。しかし、口に運ぼうとはしない。そのまま結露の滴る表面を、静かに眺めているばかりだ。
浅瀬は、すぐには答えようとしなかった。けれど今回ばかりは、関乃さんも誤魔化させるつもりはなかったのだろう。二人は黙したまま向かい合う。場の空気は次第に粘性を増していき、傍から見ているだけの僕でも、息をするのがやっとなくらいだ。
けれど、関乃さんの剣幕に誤魔化しきれないと観念したのか、長く息を吐いて。
「……話せば、……と思ったんです。……は、前にも教えてくれたから」
そうとだけ、口にした。
一体何のことを言っているのだろうか。主語のない言葉、けれど関乃さんは、それ以上追求しようとはしなかった。
納得したように腕を組むと、そのまま目を閉じた。どう言葉にするべきなのか、考えているのかもしれない。たっぷり数秒間もそうしていた彼女は、やがて意を決したように目を開いた。
「……すまないね。『あの子』はここにはいないんだ。君らがこの町を出た数年後に、県外の高校に進学してね。それきり、戻ってきていないんだよ」
口にした言葉に、嘘はなかった。
けれど、嘘で塗り固められていた。
そうするほかなかったのだろう。本当のことを彼女に告げるわけにはいかない。ただでさえあんなからっぽの目をした彼女に真実を告げたならば、一体どうなるのだろうか。僕には想像もつかない。
だってもう、『あいつ』はいないのだから――。
「――――ッ!!」
ズキン。頭を引っ掻き回すような硬質で鋭角な痛みが、頭蓋の内側で爆ぜた。
必死に声を殺して、その場に踏み留まる、幸いにも、そこまで深刻な症状ではないようだ。徐々に息を整えながら、僕は顔を上げようとして。
「……盗み聞きは感心しないな」
眼前に立つ関乃さんと、目が合った。
いつの間に近づいて来ていたのだろう、全く気が付かなかった。いや、僕が気にする余裕がなかっただけか。なんにせよ、見つかってしまったものはしょうがない。
「すみません、たまたま、二人が話しているのが聞こえてしまって……」
僕は正直に言うことにした。薄っぺらな嘘など、どうせこの人は見抜いてしまうだろう。
関乃さんは呆れたようにため息を吐いた。そして二度三度首を振ってから。
「……今朝は朝食の手伝いは結構だ。まだ時間もあるし、二人で散歩でもしてくるといい」
二人?
一瞬、疑問符が浮かんだが――この場所にいるほかの人物など、一人しか心当たりがない。
食堂の中、椅子に腰かけたまま上半身だけで振り返る、がらんどうの少女。その瞳は間違いなく、僕のことを見据えているようだった。
向き合うべき瞬間は、こうして訪れた――思ったよりも早く、僕の想定をはるかに超える唐突さで、僕らの双曲線は交わることになったのだった。
***
いくら空梅雨で真夏日が続いてるとはいっても、流石に早朝の奥瀬はまだ比較的過ごしやすい気候だった。肌を焼く日差しもその苛烈さはなりを潜めており、たまに通り抜ける涼風は、その微かな潮の香りと共に心地よく体を冷やしていってくれる。
未だまどろみの中にある町を、僕らは二人連れで歩く。
言葉はない。何と言葉をかけたらいいのかも、わからない。
どこから聞けばいいのか。どこから話せばいいのか、僕と彼女の境界線は曖昧だ。それは決して朧げであるという意味ではなく、互いにどこに線を引くべきか決めあぐねているような。
未だ、その段階だ。
「……なあ、浅瀬」恥ずかしながら、先に沈黙に耐えかねたのは僕の方だった。
このまま当てもなく、二人で歩いていくのもどうかと思ったし、それ以上に僕の方にも聞きたいことがあった。
どうして、『あいつ』のことを知っているのか。
『あいつ』や関乃さんとは、どういう関係なのか。
それに、昨日の言葉の真意。『みんなじゃないよ』というのはどういうことなのだろうか。
正直、全てに回答が欲しかった。けれど、それを求めるのは避けた方がいいだろうということくらいは、僕にだってわかる。
だから、せめて一つ、どれか一つくらいは聞いておこうと、そのまま続けようとして。
「……答えない」僕の言葉は、静かな一言で遮られた。
それは明確な拒絶だった。確かに距離が詰まってはいないと思っていたが、まさか彼我の開きがここまで決定的なものだとは思わなかったため、思わず言葉に詰まってしまう。
当然ではある。僕は元々彼女からの信頼を勝ち取れていなかったし、その上、姑息にも二人の会話を盗み聞きしていたのだ。
対話どころか、侮蔑の末に見限られても文句は言えない。自分の浅慮な行動を恥じ入るばかりだが、それはそれとして。
「……僕はお前らの力になりたいだけなんだ。それでも、どうしても、僕とは話してくれないのか?」
僕とて学ぶ。人に誠意を伝えるために一番有効なのは、衒いのない言葉だ。
打算も、勘定も、何一つまとわせない言葉。それが一番、相手に響く。
そう思いながらもどこかで、今の僕の言葉では届かないだろうとも思っていた。松前もそうだが、上っ面の言葉では駄目なのだろう。
彼女らの傷の正体を、痛みの原因を知らなければならない。
この一言もどうせ、がらんどうの彼女には届くことなく、無情にも霧散していくのだろう。そう、どこかで諦めていた。
「――なら、おしえて。あなたはいったい、どうやったの?」
だから、彼女が不意に足を止めた時、僕の脳に走ったのは驚愕や期待を飛び越えた、どうしようもないくらいの――悪寒だった。
歩を止めた少女は、まるでその他の全てまで停止してしまったかのように微動だにしないまま、僕を睨んでいた。
その姿は、恐ろしく不確かで。
その血管には、まるで血が通っていないかのように。
何となく、下手な合成の心霊写真を見ているような気分になった。『ここにいるべきではないもの』が現実を押しのけて、そこに存在しているような。
昨日、黒木に触れられた僕は、彼女の体温を確かに感じ取った。脈拍を、血流を、彼女の生きている証拠の全てを、その肌で感じた。
けれど、目の前の少女からはそれをこれっぽちも感じない。瞳孔は開き、肌は不健康に青白く、そして恐らく、その肌は凍えるほどに冷たいのだろう。
確信する。
彼女は、中臣浅瀬は既に、死に魅入られている。
死んだように生きていて、生きながらに死んでいる。
彼女はあくまでも脳波が、意識が、心拍が途絶えていないから生きているというだけで、それらすべてが絶えていることが当たり前であるかのような。
そんな姿を、していた。
「どうやったって、何がだよ」僕は苦し紛れに言葉を紡ぐ。
そうしなければ、僕も手を引かれてしまいそうな、そんな負の気配を分厚く漂わせていた、
年端もいかぬこの小柄な少女は、さながら現実にぽかりと口を開けた虚のように、ただそこにある。
あるだけで、生を否定している。
「松前先輩は」薄い唇が、振動する。「この世の全てに絶望していた、しているはずだった。少なくとも昨日の朝に見た限りでは、あの人は誰の手にも届かないところにいた」
「……それが、どうかしたのかよ」
「とぼけないで。あの人は何故か、あちら側に戻っていってしまった。こっちにいたはずなのに、引きずられるようにして榊先輩や東先輩も、前を向いていた」
あちら側、と、少女はそう口にした。
ならば今彼女が立っている場所は、一体どこなのだろうか。
あちらとこちら。
彼岸と此岸。
死と生。
近いようで遠く、不可逆の壁に遮られた二つの境。
「……とぼけてなんか、ないさ」
窮した。ほとんど悪あがきのように、振り払うようにして、そう口にしなければならないほどに。
だって、もしそうであるのなら、もう。
「あいつは自力で更生したんだ。自分で気づいて、甦った。僕が何か特別なことをしたわけではないんだよ」
「……それは、うそだよ」
「嘘じゃない、だって、本当に僕は――」
「私たちは」またしても、遮る。
彼女にとって、僕の言葉など大した重さもないものなのか、彼女は平然と、僕の台詞を握り潰す。
「私たちは、そんなに簡単なものじゃないの。きっかけがあるとかないとか、誰かが助けてくれたとかくれないとか、希望とか未来とか、そんな容易くあっていいものじゃなくて。もっと度し難くて、理解しがたくて、分かち合い難い。そういうものだったはずなんだ」
「……何がお前を、そうまでさせるんだ?」
「何がって? だって、そうでしょ――」
――怖い。
松前と対峙した時、僕は確かな手ごたえを感じていた。一言一言が間違いなく彼を揺さぶる感覚があったし、確かな策と裏付けをもって、ある意味では何の心構えもしていなかったであろう彼に、悪く言うならば奇襲のようなものを仕掛けて、自分が精神的に優位に立った状態で話を進めた。
早い話が、雰囲気で飲んだ。
それは裏返せば、そこまでしないと僕では彼に話を聞かせることも難しかったということの証左に他ならない。
勝ち負けなど存在しないものではあるが、敢えて白黒つけるというのなら、そこまでやってようやく辛勝、といったところだろうか。
しかし、中臣浅瀬。彼女と向き合ってみて、痛感する。
今の僕では、彼女の前に立つこともできない。
下手に講釈でも垂れようものなら、飲まれるのは僕の方だ。そうなれば、ただでさえ満身創痍の僕が逃れることはできないだろう。
だから――怖い。
「――生きてる意味なんて、無いんだから」
粟っ、と。
凍えにも似た痺れが、全身を覆った。
恥ずかしげもなく、無意識のうちに、僕は胸の真ん中にそれを置いていた。恐怖。それも恐らく生き物が最も根源的に抱くであろう、強い恐れ。
死への恐怖。
僕はこの少女を相手取れば、間違いなく命を落とすことになる。その瞳の虚ろに引き込まれ、幽冥の境を飛び越えてしまう。
足りない。あの時好奇心に負けて盗み聞きなどした自分を後悔するほどに、間違いなくこの展開は尚早だった。松前と同じくらい――否、さらに多くの時間をかけ、心のコンディションを整え、搭載する言葉の一語までを吟味したうえで、僕は彼女との対話に臨むべきだった。
今の僕では。
赤い後悔に苛まれた僕では、届かない。
許されるのなら、この場にへたり込んでしまいたかった。
しかし、そうはいかない。僅かに残った小さなプライドのようなものが、僕を支える最後の骨格だった。
「……朝ごはんの時間、もうすぐだね。私は『赤レンズ』に戻るよ」
事もなげにそう言うと、彼女は僕を追い抜いて行った。僕は動けない。何もできない。まるで喉の奥を石膏で固められてしまったかのように、声すら出ない。
今の僕に許されたのは、思考だけだった。そしてそれすらも痙攣を繰り返し、のたうち、言語未満の不平を垂れ流すだけで、まともに機能していない。
否定された。
完膚なきまでに、僕の生は打ち砕かれた。
その手触りが、いつまでも消えなかった。
***
「おーい、在原くん! ちょっと、それ持ってきてもらえるかい!」
境内に、秀昌さんの大きな声が良く響く。関野さんと違って、酒に焼けた低い声は決して通りの良い声質ではなかったが、腹の底から組みだされている声量は、僕に聞き逃しなど許すはずもない。
荷物の両端を掴むと同時、上腕に血管が浮く。手指にひりつくような重さがまとわりつき、それに耐えながら足に力を籠めると、大きな段ボール箱はふわりと浮き上がった。バランスを崩さないようにしながら、僕はそれを倉庫の中に運び込んでいく。
朝食を終えた後、僕は再び秀昌さんに連れられて絵空神社を訪れていた。もう『空想祭』は明後日に迫っている。一昨日は誰もいなかったこの場所にも、ちらほらと人が行き交うのが見えた。
もしかすると、こんなことをしている場合ではないのかもしれない。
あと二日。僕らに残された時間は決して多くない。そんな中で、あのがらんどうの少女に相対する術を見つけなければならないのだから。
けれど、何となく今は体を動かしたい気分だった。強い挫折感も、先の見えない現状も、とりあえず一度頭から追い出して、まっさらな状態で考えたかった。
それに――この場所なら、彼女に会えるのではないかと思ったから。
僕は荷物を下ろして、しばらく無言のまま首を巡らせた、この倉庫の中にあるのはどれも、美術品のようだった。それは絵であり、彫刻であり、あるいは壺や皿なんてものまで。
そういえば、この神社は美術に関する神様を祀っているのだったか。運び込まれる荷物の大半は、どうやらこういった奉納品らしかった。
中には相当有名な作家のものもあるらしいが、しかし、僕が探しているのはそんなものではない。
ヒカゲ。
自らを日陰者と称する、風変わりな少女。
松前の時も、打開のヒントをくれたのは彼女だった。だから今回も、何か手助けをしてもらえないかと思ったのだが……。
「……まあ、そんなに都合よく会えたりしないか」
そも、祭りの準備で資材の搬入や設営が行われているのだ。子供が紛れ込んで遊んでいたら危ないだろうし、周りの大人だって注意するだろう。
それに、彼女とて毎日ここにいたりはしないはずだ。仕事を辞めてしまってからしばらく経つのと、高校生たちと触れ合う機会が多いからたまに忘れそうになるが、今日は世間からすれば平日である。順当にいけば、ヒカゲだって学校があるだろう。
そういえば、初めて会った時に僕は彼女にそれについて尋ねていたはずだ。その時には何と言って誤魔化されたのだったか。
「学校で学べることなんかよりも、大事な用……か」
そう、確か彼女はそう言っていた。そして、何かを待っているとも。
だとすれば、日陰者の少女は何を待っていたのだろうか。あの日、あの場所でないと会えない何か。そんなものがあるのかどうかはわからないが、あの少女が言ったのだから、きっと戯言ではないだろう。
彼女は確かに何かを待っていた。
けれど、そこに現れたのは僕で、彼女はそのまま日向に消えた。
きっとあれはそういう物語だったのだろう。人の数だけ、人生の数だけそれぞれの物語が同時進行している。すべてが無意味などではなく、互いに関係し、もつれ、複雑に絡みながらこの奥瀬で、あるいはこの国で、あるいは世界で。
一つが始まり、そして終わった。僕はその一部を観測しただけなのかもしれない。
もし、そうだとするのならば。
あれは、どういった意味を持つのだろう――。
「あ、いたいた」倉庫の入り口から、声が聞こえた。見ればそこには、別の荷物を手にした秀昌さんがいた。その丸太のような腕に、僕の倍はあろうかという量の荷物を載せている。
「なかなか戻ってこないから、熱中症にでもなったんじゃねえかって心配したんだぜ。どうかしたのか?」
「あ、いえいえ。すみません、ちょっと考え事をしてて……」
「あの子らのことか?」秀昌さんは気遣うように言う。「まあ、前にも言ったかもしんねえけどよ、なるようにしかなんねえのさ。それに君は、上手くやってると思うぜ」
「……松前のことですか? それなら買い被りです、僕ができたことなんて、あいつにしてやれたことなんて、何にもない」
そこで秀昌さんは声を上げて笑った。まるで、僕の卑屈な感情を蹴とばすように。そしてそのまま横合いの壁に凭れ、薄く髭の生えた顎を撫でつけた。
「おいおい在原くん、謙遜ばっかが美徳じゃねえぜ。君はやったんだ。君は自分が傷つくのを厭わずに、あの子らを泥沼から引き上げたんだ。もっと誇れよ」
「……誇れなんて」
するもんか。
続きをどうにか呑み込めたのは、彼の言うことに理を感じていたからだ。結果だけ見れば、確かに僕は首尾よくやったのかもしれない。松前はもう道を見失うことは無いだろう。
もしかすると、大半の成功談などそんなものなのかもしれない。傍から見れば綺麗に見えるが、細部を知っている人間は、その切り口が歪んでいることを把握している。皆、その事実に折り合いをつけて自己肯定感の糧にしているのかもしれない。
それができないのは。
僕が弱いからなのか。
「……まあ、そうさな。俺だって若い頃は色々悩んださ。そりゃあこの歳になれば色々と落ち着くけどよ」
「まだ、十分若いじゃないですか」それは世辞でもなんでもなかった。
『あいつ』の父親ということは、もう五十歳に近いだろう。しかし、目の前の彼は四十はおろか、もしかすると三十代でも通りそうなほどに若々しい。肌は張り、筋肉は萎むことなく、歯は白い輝きを保っている。
僕の言葉に、秀昌さんはからからと笑った。彼にしては珍しい、誤魔化すような笑い方だった。
「はっはっは。そう言ってもらえると嬉しいけどよ、俺だって別に老いてないわけじゃ――いや、老いてねえのかもな。なんつーか、もし俺が若く見えるのなら、それは若さを保ってるんじゃなくて」
「時間が、止まっているだけ?」その言葉は、自然に口を突いた。
秀昌さんの笑い声が、ピタリと止む。先ほどまで絶え間なく辺りを満たしていた蝉の声も、まるで空気を読んだかのように聞こえなくなった。
それは、ほんの一瞬。彼が纏っていた笑顔の仮面が剥がれ、素顔が覗いた。悲しむような、懐かしむような。しかし、僕が瞬きをすると同時に、その顔はもう普段通りの彼の表情を取り戻していた。
おおらかに笑う。
豪放磊落な、僕のよく知る彼の顔に。
「……はっはっは、そうだな、時間が止まっているようなものなのかもな」
秀昌さんはその場で一つ、大きく伸びをした。この話はここまで、ということなのかもしれないし、僕もそれで構わなかった。
まだ、足りない。
彼らの過去に、三十六年前の真実に踏み入るには、きっとまだ足りない。覚悟か、知識か、状況か。揃わない限り、僕がその先まで読み進めることは、きっと叶わない。
「さて、それじゃあ一休みしたことだし、そろそろ行くかい。あんまりサボってると、町内会の爺さんたちに見つかった時にうるせえからな」
秀昌さんはそう言って僕に背を向け、倉庫を後にしようとした。話は終わったのだ。僕も何の疑いもなくそれについていこうとして。
「……あ、そうだ」僕は、不意の閃きに立ち止まった。
僕の声に、秀昌さんも足を止める。怪訝そうに眉を寄せる彼に、それを聞くべきかほんの一瞬迷った。
今でなくてもいい。けれど、この先秀昌さんにゆっくり相談するような機会があるかどうかはかなり怪しかった。それに、先ほど垣間見せた表情もそうだが、今の彼ならばこれも教えてくれるのではないか――そんな、何の根拠もない予感があった。
どうせ、このままでは八方塞がりになのだ。だとしたら、多少強引にでもこの場で聞いてしまった方がいいのではないか。そんな、ほとんど自棄になったかのような思考の結果だったと思う。
「一つ、聞きたいことがあったんです――浅瀬のことです」
「……ほう」秀昌さんはその場で腕を組んだ。「いいぜ、少しくらいなら。続けてくれ」
「はい……実は、今朝関乃さんと浅瀬が話しているのを聞いたんです。浅瀬が『あいつ』のことを探してるって」
そこまで聞いたところで、秀昌さんは明らかに顔色を変えた。先ほどまでの余裕のある表情ではなく、明らかに口元が引きつっている。思えば関乃さんも、同じような反応をしていたような気がしたが、それも頷ける話だ。
彼女の探し人はもういない。
僕らはそれを、痛いほどに知っているのだから。
「……これだけ、教えてください。浅瀬とあなたたちはどういう関係なんですか? 浅瀬と『あいつ』は、どういう関係だったんですか?」
僕は続ける。性急な気もしたが、浅瀬のことを知るための手掛かりはこれしか残っていないのだから仕方がないだろう。一人で思い悩み、時間を浪費するくらいであれば、ここで当たって砕けた方がいいに決まってる。
秀昌さんは悩んでいるようだった。僕に話すべきか、どこまでを語るべきかを考えあぐねているのかもしれない。けれど、こちらも退けないのだから平行線。やがて根負けしたように、彼は口を開いた。
「……浅瀬ちゃんは、もともとこの町にいたんだ。小学校くらいだったか。家の都合で町を出るまでは、よくうちにも遊びに来てた」
「浅瀬が、奥瀬の出身……?」
初耳だ。というか、誰もそんなことは話していなかったと思う。あるいは文芸部員たちは知っていたが、僕がそれを聞く機会がなかっただけか。なんにせよ、寝耳に水だった。
「ああ、そうだよ。あの頃はよく『あいつ』と遊んでたっけ。だから探しているんだとしたら、その時仲良くしてたからだろうな」
「……二人がどんな遊びをしてたかとか、どんな話をしてたかとかってわかりますか?」
「どうしてそんなこと聞くんだ?」声に、訝るようなトーンがかかる。
「浅瀬が言っていたんです、『あいつ』が何かを教えてくれたって。だから、それがわかればあの子の心の傷の正体が、少しはわかるかなって」
光を失い。
空っぽになって。
それでも彼女は、その『何か』を標にしていた。だからきっとそれは、彼女にとってかけがえのないもののはずだ。少なくともまだ『こちら側』に留まる理由になる程度には。
しかし、秀昌さんの答えはそっけないものだった。
「そうかい。でもよ、君はもう知ってると思うぜ」
「……僕が、もう知ってる?」聞き返す。思わず最後の方は声が裏返ってしまった。
意図が汲めない。知らないからこそ、こうして彼らに尋ねているのだ。それとも何か、僕は大切なことを失念しているのか。
これ以上に、何を?
「なあ、在原くん。正直に答えてくれよ。君がこの町を訪れたのは、本当に俺に呼ばれたからかい?」
「……それは、もちろん。仕事を手伝ってくれって電話があったから」
「本当にそうかい?」見透かすように笑う。この町に来てから、幾度となく見てきたあの目だ。「君をこの町に呼んだものが、他にあるんじゃあないのか?」
僕が、この町を訪れた理由。
僕を、この町に呼んだもの。
それは、たしか。
「……『あいつ』はな、たぶん完璧に託していったと思うぜ。あとは君次第だ。受け継いだものを繋げるか、それとも、宝箱にでもしまっておくか。俺からこうしろだのああしろだのなんてことは言えねえよ。ただ、君は導かれて、ここまで来たんだ」
選ぶのは、君だ。
選ぶのは、僕だ。
選ぶのは、なんだ? 僕は何を選べばいいのだろう。何を選んで拾い上げて、何を選んで捨てればいいのだろう。取捨選択の果てに、何が待っているのだろう。
疑問は、膨らむばかりだった。知れば知るほど、気づけば気づくほど、僕らの関係は複雑な糸によって紡がれているのだと痛感させられる。
秀昌さんは、今度こそ倉庫を出て行った。僕もその後についていく。もう、呼び止めはしなかった。聞きたいことは山ほどあるが、きっと今の彼はもう、答えてはくれないだろう。
再び鳴き始めた蝉の声に、割れたスピーカーから祭囃子が微かに混じる。
祭りが、近い。
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