五章「表裏古今炎天下」

#1

 世界には大きく分けて二種類の人間がいる。

 己の選択を後悔する人間と、しない人間だ。

 人生が選択の連続である以上、僕らは自分がどっちに属するかに関係なく、選び続けなければならない。そして、その猶予はいつだって僅かな時間しか与えられないものだ。

 だから僕らは時に焦り、また時には大切なものを見誤って、足首までをその不快な泥濘に浸すことになる。そもそもが正しいか間違っているかの二元論であるならば、僕らは常に二分の一の運試しを強いられていることになる。

 世の中にはその結果がどうなろうと関係なく、あらゆる結末を許容できる人間もいるらしいが、僕は生憎にして、あるがままを受け入れられるほど強くはない。

 そう、強くはない。

だけど、それを言い訳にして逃げることができるほど――弱くありたくはない。

「いいのか、在原。こんな話、もう二度はないようなことなんだぞ?」

 念を押すように、進路担当の教師はそう言った。年相応に、あるいはそれ以上に深い皺の刻まれた眉を片方だけ釣り上げたその表情には、明らかに批判と侮蔑が滲んでいる。

「はい」僕は強く頷く。「もう、決めたことですから」

 教師が深く息を吐いた。世間知らずの子供を相手にして呆れているのか、それとも、億劫に感じているのか。恐らくその両方であるが、もう、僕には気にならなかった。

「……いいか、在原。職を決めるっていうのは今後の一生を左右することなんだ。先生も、教師になろうと決めてからもう十五年、この仕事を続けてる。冗談でも誇張でもなく、これからの全部が決まるんだ」

 だから、お前の選択は間違えている。

 恐らく、彼はそう言いたいのだろう。『大人』は言いたいことをそのまま口に出すことなどできない。彼らにとって言葉とは修飾し、遠回しに、婉曲と予防線を重ねてようやく紡がれるものなのだ。

ある意味では彼も、『大人』の被害者なのだ。

 そうであったとしても、僕の答えは決まっていた。

「先生、繰り返しますが、僕はもう決めたんです。『これでいい』と、自分の意思で選んだんです」

 選ぶとは、捨てることだ。

 無数に、幾千幾万と広がっていた可能性の糸を引きちぎり、たった一本を贔屓することだ。選ばれなかった一直線上にあるものは全て実現することは無くなり、次第に呼吸もう薄れていく。

 殺している。

 僕らは可能性を殺して生きている。

 自覚に至れないのは、その実感がないから。糧にすらならぬ、下敷きとしてすら触感のないその屍の山に、人はすっかり埋もれてしまう。時にその死骸を救い上げて思いを馳せることもあるだろうが、全ては後の祭りだ。

 時間は戻らない。

 選択は取り返しがつかない。

 命がそうであるように。

「……一生、後悔するかもしれないぞ」

 脅すような口調だった。最後通牒、そうであることくらいは僕にもわかる。

 今の僕が『これでいい』と考えたその選択を、もしかすると十年後の僕は引き裂きたいほどに憎むのかもしれない。空っぽになってしまった箱の隅を何度も何度も引っ掻きながら、剥がれた爪と抉れた肉を掲げて恨み言を宣うのかもしれない。

 けれど。

「どうせ、後悔はします。あの時こうしていればって、どっちを選んだとしても僕は悔やんで、苛ついて、どうしようもないくらいに胸を痛めて、きっと、今日この場に帰ってきたいって思うに違いありません」

 人生に答えはない。

 どっちも正解で、どっちも間違いだ。

 ただ、どっちを正解にするのかは、自分で選ぶことができる。

 それがこの不確かな世界に対して僕らが主張できる、唯一の権利だ。

 教師はもう、それ以上何かを口にしようとはしなかった。それを了承と受け取って、僕は職員室を後にした。

 行かなければならない。

 目的に駆られ、自然と足取りは加速する。流れる景色は糸くずのように細分化されて、認識よりも早く後方に流れ去っていく。

 歩道橋の階段を一段飛ばしで駆け下りて、僕は急ぐ。

 一刻も早く、僕は行かなければならなかった。

 先日、『あいつ』と問答を交わした帰り道。思い出の影法師を散らすように、僕は走る、走る。

 そして、ようやく辿り着いたのは、『あいつ』の住むマンションの前だった。

 ここまで来て、急に心臓が縮むような感覚に襲われた。

 僕は自分の意思で決めた、そして、一つを選び取った。

 けれどもし、その選択を『あいつ』に否定されてしまったら?

 怖い。言い知れない寒気が走ったのを、よく覚えている。震える指先で、僕は彼女の部屋のインターホンを押した。

 ややあって、足音が近づいてくる。急く様子も、過度に音を隠す気配もなく、それは拍子抜けするくらいにいつも通りで、絞り上げるように普段通りなリズムだった。

 何千倍にも圧縮された時間を抜けて、扉が開く。

もう、ここまで来たのだ。荒い息も跳ねる心臓も、何もかもがゆっくりと僕から離れていく。耳の奥がボーッとして、思考がまとまらない。

ただ、言わなければいけない一言。それだけが鮮明に浮かび上がっていて、だから。

「一緒に暮らそう」乾いた口を無理矢理に開く。「一つだけ選べるなら、僕は君がいい」

 答えが出るまで、半心拍。

 僕らの道が重なるまで、刹那。



 ***



「それじゃあ、そろそろ始めようか。みんな、覚悟はいいかな?」

 榊はそう音頭を取ると同時に、手に抱えていたスイカを足元に置いた。柔らかい砂に、緑と黒の表皮が三分の一ほど埋まっている。

 東が元気よく手を上げる。ほんの少しだけバツが悪そうに、松前も腕を組みながら頷いた。浅瀬は相変わらず感情が読み取れなかったが、少なくとも拒否はしていないようだった。

 奥瀬は午後になっても日が陰ることもなく、相変わらず八月上旬並みの陽光が降り注いでいた。

 あの後、這う這うの体で『赤レンズ』まで帰りついた僕は、殴られた傷の手当てをしてから少し眠ることにした。懐かしい夢を見たような気もしたが、余韻に浸る間もなく、昼食に呼ばれる。そして、その席で急に思いついたように、榊がこう口にした。

「そうだ、提案なんだが、午後はレクリエーションにしないか?」

 涙で目を真っ赤にした東が元気よく手を上げ、松前も渋々とそれに従った。浅瀬は反応していなかったが、棄権ということで午後の予定が決定した。

 先ほど、僕と松前が対峙したあの砂浜。そこに集められた僕らが目にしたのは、ずしりと重量感のある、丸々とした大きなスイカだった。それに、細長い手ぬぐいのようなものと、一メートルほどの長さの木の棒。

 つまるところ――スイカ割りをしようということだろう。

「はいはい! 私一番手! 一番手やりたい!」

 東が勢いよく躍り出る。憑き物が落ちたかのように屈託なく笑う彼女は、意気揚々と目隠しを巻き始めた。 そしてぐるぐると回転したかと思うと、覚束ない足取りでスイカを目指していく。

「東! そっちじゃないぞ!」榊が笑いながら叫ぶ。

「美咲! もっと右だって!」松前の表情は、前に比べれば随分と柔らかく。

「……近い」浅瀬の声は届いているのかどうかもわからないほどに小さい。

 しばらくふらふらと彷徨った東は、結局スイカから一メートルほど離れたところに棒を振り下ろした。

 砂が舞い、地面を強く叩いた彼女は思わず手を離すと、そのまま手をブラブラと振った。本人は苦い顔をしていたが、一番手が成功させてしまっては味がない。僕らは目隠しを外しながら歩いてくる彼女を、拍手で迎えた。

「いやー、やっぱり難しいって。っていうか、誰か変な方角指示したりしなかった?」

「誰がするかよ」松前がぶっきらぼうに返す。「それで、二番手は誰が行くんだ?」

 すぐに手は上がらない。口ぶりからして、松前も行くつもりはないのだろう。主催者の榊も傍観に徹しているようだし、浅瀬がスイカ割りをするところなど想像もつかない。

 となると、だ。

「やっぱりここは、大人に頑張ってもらおうかな」

 そう言いながら、東は僕に目隠しを手渡してくる。集まる視線。拒否権はないようだと、僕は腹をくくった。

「……わかったよ」目隠しを受け取り、両目を覆う。

 閉ざされた視界。砂浜に反射した陽光が残像として瞼の裏に残っていて、そのチカチカとした輝きが、頭の奥を刺激した。

「それじゃあセンセー、回すね」

 そう聞こえたかと思うと、柔らかい掌が触れる感覚。直後に遠心力が僕の感覚器官を狂わせていった。

 ぐるん、ぐるん。体が外側に引っ張られる軸をずらせば体はすぐそちら側に振れ、どうにも安定しない。倒れないようにだけ気を付けながら、楽しそうに笑う東の手で僕は回転させられていく。

 そのまま二周、三周と続き、気がつけば僕は自分が向いている方向がわからなくなっていた。

 前も、後ろも、右も、左も。

 上下すらもが曖昧な世界。

 回転の余韻が抜けない頭は、絶え間なくたわみ続ける。僅かでも気を抜けば、その場に倒れ込んでしまいそうだった。

「在原センセー! 右だよ!」そんな中、僕の耳に声が届く。

 どうせ他に標などない。言われるがままに右を向く。

「違う、行きすぎだ! もっと左だよ!」乱暴な声は、恐らく松前のものなのだろう。

 そんなこと言われても、と、僕は僅かに左に構えなおす。

「そのまま真っ直ぐ、真っすぐです!」榊の声が鋭く響く。

 一歩一歩確かめながら、静かに前進して。

「……そこ」小さくも、よく通る声。

 僕は大きく振りかぶり、そのまま全力で振り下ろした――。

――がつん。

手ごたえは、無い。僕の一撃は空を切り、恐らくは砂浜に突き刺さったのだろう。渾身の空振りは、ビリビリとした痺れにも似た痛みを僕の両手に残した。

「あっはっはっは! センセー、惜しいね!」

 左後方から聞こえてきた快活な笑い声を合図にするようにして、僕は目隠しを外した。

 僕の振り下ろした棒は、スイカの表面から僅か数センチというところを掠めていた。しかし、外れは外れ、縞々の表皮には傷一つついていない。

「これ、なかなか難しいな」僕は目隠しの布を二つに折りながら呟いた。「方向はいいと思ったんだが、少しずれてたみたいだ」

「いえ、すごくよかったですよ。僕は普通に、割れたんじゃないかと思いましたから」

「それでも、外れは外れだろ。それで、次は誰がやるんだ?」

「俺がやるよ」松前が、僕から目隠しをひったくる。「こういうの、結構得意なんだぜ」

 そう言って目隠しを巻いた彼が、先ほどの僕と同じように目を回させられる。二周、三周。そして、ピタリと停止した彼は右腕一本で棒を構えた。

 その姿は何というか、胴に入っていた。晴眼に向けられた棒は、それこそ一本の刃のようにすら見えてきてしまう。

 松前将吾。

 彼は左腕を失くしても尚、剣士であった。

 少なくとも、僕にはそう見えた。

「……正直ね、彼が参加してくれるとは、思ってませんでした」

 隣に立つ榊が、僕にだけ聞こえるくらいの声量で言う。

「センセーにお願いしといて何ですが、彼をどうしたら救えるのか、僕にはわからなかったんです。でも、あの分ならあいつはもう、大丈夫でしょう」

「……別に、大したことはしてないさ。ただ、ほんの少しだけあいつが気が付けるように後押しをしてやっただけだ」

 結局、松前を救ったのは東だった。

 僕にできたことなど、ほとんどなかった。もしかするとあそこで僕が一計を案じなくとも、いつか二人は向き合えていたかもしれない。

 もしかすると、僕のやったことは全部が全部、余計なおせっかいだったかもしれないのだ。

「それで、いいんですよ」松前はじっと、僕を見つめる。「それだけのことすら、僕らには誰もしてくれなかったんです。あいつにも、東にも、僕にも、浅瀬にも――」

 そこで、彼は言葉を切った。

 何かもう一人分、名前を口にしようとしていたようにも見えたが、彼はそのまま誤魔化すように咳払いをして、それを飲み込んでしまったようだった。

 ――コウタロウ。

 昨日浜辺で聞いた、二人の会話。

 少なくとも今の文芸部員たちの中に、コウタロウという名の人間はいない。もしかすると合宿に参加していない部員なのかもしれないし、松前と榊の共通の友人なのかもしれない。

 わからない。

 少なくとも、彼らが話してくれるその時までは。

 松前の件が落着して、少しばかり肩の力を抜こうとしていたけれど、恐らく、彼らが背負っているものはあれだけではないだろう。

 僕は彼らのことを知らないままだ。

 どうしてこんな中途半端な時期に合宿に来たのか。

 どうして顧問の教師がついてこなかったのか。

 ――どうして、僕が目付け役に選ばれたのか。

 知らなきゃいけないことは、たぶんまだまだたくさんある。

『空想祭』。二日後の祭りが終われば、彼らは帰ってしまう。それまでに、どうにかして僕は彼らの傷の正体を知らなければならない。それができなければ、僕は。

僕は、どうなるのだろう。

秀昌さんたちの期待を裏切ることになる、それは確かにそうだ。けれど、彼らを救うことができたとして、僕の人生は何か変わるだろうか?

 元の生活に戻れるかどうかはわからない。少なくとも溝浦製作所に戻ることはできないだろう、となれば、新しい職を探すことになる。

けれど、選ばなければ仕事は見つかるだろう。そうして平凡な生活に戻ることは、決して難しくない。新しい仕事を覚えながら、日銭を稼ぎ、味のしない飯をかき込んで泥のように眠る。

奥瀬での日々も彼らとの交流も、何もかもが思い出の彼方に流されて、色褪せて、そしてそれでも、僕は生きていく。

『あいつ』のいない日々を、生きていく。

「うっ……!」刹那、頭が鋭く痛んだ。

 じわじわと視界の端から赤色が染み出して、僕はたまらず、その場に膝をついた。

「――在原センセー? 大丈夫ですか!?」

 異変に気付いたのか、僕を助け起こそうとする榊の声が聞こえた。心配そうな表情で覗き込んでくる彼を、僕はどうにか片手で制す。

「……ああ、大丈夫だ。ちょっと、暑さにやられたみたいだ。パラソルの方で休んでるよ」

 僕はそう言って、ふらつく足に力を込めて、どうにか立ち上がる。

 体が、重い。

 午前中のダメージもあるのだろうが、それにつけても、異常なまでに体が動かない。今日は三十度を超える真夏日であるというのに、手足は熱を失い、まるでただの肉の塊になってしまったかのようだ。

 まるで、死人の腕のようだ。

 僕が考えないといけないことは、彼らのことだけではなかった。

『――ドウシテマダイキテルノ/――ネバイイノニ』

 耳を塞いでも、言葉が直接、脳みそに侵入してくる。

『――ソノジンセイニイミハアルノ?/ムカチニイキヲスルダケデ』

 ガンガンと、頭の中で言葉が反響する。もう人のものとは思えない、酷く重なり歪み摩滅した、けれど『あいつ』の面影を失わぬ響きが、責め立てるように繰り返されている。

 耳を塞ぐ。歯を食いしばる。目を瞑る。

 けれど、記憶の奥底から湧いてくるその怨嗟の声は、切り離すことができない。

 響く声は次第に大きくなっている。視界を包む靄は、日を追うごとに濃くなっていく。

 もう幾ばくも、残されていない。

 壊れる。

 『空想祭』を待たずして、恐らく僕は壊れてしまう。

 それまでに何かを。

 何かを為さなければ――。

「――だいじょうぶ?」

 ぴたり、と、頬に何かが押し当てられる感触があった。松前に殴られたのとは逆側、最初、ひんやりと感じられたそれは、次第に脈と体温を思い出していく。

 誰かが、僕に触れている。

 その実感を手繰るようにして、僕の意識は浮上する。

「……浅瀬」僕は思わず、そう口にした。

 僕の頬を包む手は、中富浅瀬のものだった。隣に腰かけ、視線は前に向けたまま。けれど、間違いなくさっきの声は、彼女のものだった。

「……ああ、大丈夫だ」僕はどうにか、言葉を返す。「悪いな、心配させちゃって。暑いの、あんまり得意じゃないんだ」

「……そう」彼女は相変わらず感情の読み取れぬ声色のまま、ゆっくりと手を離した。

 視線の先では、相変わらず松前がスイカを探していた。東が突拍子もない方角を指示しているせいか、その足は海の方に向かっている。足先が海水に触れたのか、驚くようにして飛び退く彼の姿に、榊も年相応の笑顔を浮かべている。

「……いいのか、混ざってこなくて」

 僕は浅瀬にそう問いかける。彼女はしばらくの間反応を示さなかったが、やがてゆっくりと首を振った。

「……いい。あんまり、得意じゃないから」

「そうか。でも、折角こうしてみんなで遊んでるんだ、僕に構わなくていいから、あいつらと――」

 そこで。

 僕の言葉は、彼女の視線に縫い留められた。

 いや、正確には、浅瀬がこちらを向いただけだ。目が合っただけ。それだけで、僕はその続きの言葉を接げなくなってしまった。

 虚ろの瞳。

 がらんどうの両目が、僕を見つめている。がらんどうゆえに、そこに僕が映っているのかもわからない。もし映っていたとしたら、自覚と同時に僕はその虚空に落ちていってしまうのではないか。

 そう感じさせるほどに、昏く、底が見えない。

 何をどうしたら、どんな人生を送ってきたら、こんな目ができるのだろうか。

 それも、まだこんな子供のうちから、どうしたら――。

「……もう、いい」小さく呟き、彼女は腰を上げた。

 そして、日陰の外に歩いていく。僕はその小さな背中に、かける言葉など持っていなかった。

「……みんなじゃないよ。――がいないもん」

 歩き去るその刹那、そう呟く声がかすかに聞こえた気がしたし、もしかすると気のせいだったのかもしれない。

 同時に、何かを引きつぶすような水っぽい音がした。

 見れば、丁度松前の振り下ろした棒がスイカを砕いているところだった。右片手の上段から繰り出された一撃は、逸れることなく果実の頂点を捉えた。流石というべきか、分厚い皮もたったの一撃で爆ぜてしまっているようだ。

 松前のガッツポーズ、東の歓声に合わせて喜ぶ榊、そして、そこに歩み寄っていく浅瀬――。

 傍から見れば微笑ましい、なんのこのことはない青春の一ページに見えた――しかし、僕にはそれがひどく空虚なものに見えて、仕方がなかった。



 ***



 奥瀬の夜は暗い。

 街灯の少ない往来は、日が沈むと同時にとっぷりと暗闇の中に沈んでいってしまう。まだ家々から漏れる明かりが多少は行く手を照らしてくれるが、それもなくなれば頼りは月明かりだけになる。

 町はすっかり眠りにつく。

 昼夜を問わぬ人の営みや、夜を徹しての喧騒はこの町には無縁であり、日が昇れば身を起こし、日が沈めば瞼を閉じる。

 或いはそれは、かつての人間のあるべき姿なのかもしれない。僕らは進化の過程で絶えぬ灯りを手に入れた代わりに、太陽との繋がりを手放した。

 朝と夜の境を朧にした。

 それが人間という生き物にとってどれだけの歪みであるのかはわからないが、少なくとも健全でないことは確かだろう。

 人としての当たり前。

 或いはそんなものは、忘れ去られてしかるべきなのかも知れないが。

「難しい顔をしてるねぇ、お兄さん」

 コトリと音を立てて、僕の座る真横にガラスのコップがひとつ置かれた。よく冷えた半透明な飲料で満たされたそれは、こびりついた太陽の熱のせいで随分と汗をかいている。

「……ああ、黒木のおばあさん。いや、そんなお構い無く……」

 手をかざして、形だけの遠慮を伝えようとして、やめた。この場合はそれが失礼に当たるんだということくらい、僕にもわかっていた。

 ここは黒木商店の店先。時間は、夕食が終わったばかりの午後七時過ぎ。

 飲みに行こう、と黒木に誘われたのは、つい数時間前のことだ。スイカ割りの後、しばらく海で遊んだ僕らが帰ってきたのは日が傾いてからで、僕が黒木からの連絡に気が付いたのも、丁度そのくらいの時間だった。

 文芸部員たちはみんな夜には執筆活動に入るので、確かにその時間は多少自由になるのだが、流石に住み込みで働いてるのに夕食後すぐに抜けるのはどうなのかと思い、帷子夫妻に相談したところ二つ返事で了承された。

 曰く――朝までには帰っておいでよ、と。

 冗談交じりの言葉と共に、やけにニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべていたのが気になったが、そこについては気にしないことにした。

 ――流石に、そこまで節操なしではない。

 まあ、そんなこんなで僕はこうして黒木の準備が整うのを待っているのだ。

「民宿の手伝いはどう? 楽しい?」

 黒木のおばあさんが問いかけてくる。どこか派手な印象のある孫とは違って、彼女にはどこか落ち着いた雰囲気があった。もう相当な年齢のはずだが、腰もほとんど曲がっておらず、杖も要らずに歩けている。

 頬が垂れ、皺が寄り、肌が水分を失い――けれど、目だけは彼女と同じ、強い意思を感じさせるものだった。

「あ、ああ、そうっすね。まあまあぼちぼちって感じです」

 僕は適当に濁すことにした。楽しいかと聞かれれば、楽しいのかもしれない。少なくとも、あの餓死か過労死かを待つだけの日々よりは幾分生きた心地がする。

 けれど、それが焦燥感と二人連れであることからは、目の背けようがない、

 こんなことをしていていいのか。

 そもそも、僕が奥瀬を訪れた理由はなんだったか――と。

 勿論、忘れてはいない。あの高校生たちの面倒を見るというのも、秀昌さんに頼まれているからやっているだけで、僕は。

 僕は。

 本当にそう、思っているのだろうか?

「……ふふ、似てるね、あんた」

 黒木のおばあちゃんが、柔らかく微笑む。

 その視線は僕の方に向いているが、僕を見ているわけではない。僕を通して、何かずっと遠くを見ているような。別の誰かを見ているような。

「似てる、ですか?」僕が鸚鵡返しに繰り返すと、黒木のおばあさんはゆっくりと頷いた。

「うん、あんたは若い頃のヒデ君にそっくりさ。あの子もいつもそうやって、深刻そうな顔をして悩んでいたよ」

「ヒデ君……?」記憶を探るが、合致する人物は出てこない。

「帷子のところの旦那さんさ。歳くって少しは落ち着いたみたいだけど、あの子も昔は色々と悩んでたんだよ。関乃ちゃんのこととか、うちの娘のこととか――」

 想像がつかなかった。僕の知っている秀昌さんはいつもおおらかに笑っていて、悩み事や懸案事項とは無縁の生活を送っているように見えたからだ。

 しかし、どんな人間にも過去は存在する。秀昌さんや黒木のおばあさんもかつては僕と同じ、未完成な若造だったのだ。当然、頭を悩ませることもあっただろうし、懊悩に眠れぬ日々もあっただろう。

 当たり前のことだが、僕らがそれに気がつくのは案外難しい。目に見える、今の彼らの姿が強く残っているせいか、過去の存在に意識が向かないことも多いだろう。

「へえ、秀昌さんも若い頃は色々あったんですね、関乃さんだけじゃなくて、黒木さんちとも仲が良かったんだ」

 だから僕は、何の気なしにそう口にした。世間話の延長線上、話題の繋ぎ目、程度のつもりで。

「ええ、仲が良かったのよ。澄香の母親の妹だから、あの子にとっては叔母に当たるのかね。狭い街だから年の近い子がいなくて、どこに行くにも三人一緒だったよ――」

 そこで、彼女は視線を持ち上げた。

 今日の奥瀬の空は、生憎の曇天だった。雨の気配こそないものの、月だけはしっかりと隠してしまっている。鉛色の夜空を見上げながら、彼女は。

「――三十六年前の、『空想祭』まではね」

 そう、静かに口にした。

「……『空想祭』、ですか?」僕はわけもわからずに聞き返す。

 やめておけばいいのに、踏み込んでしまう。

 黒木のおばあちゃんは静かに頷いた。そしてその先を、ゆっくりとした口ぶりで語り始める。

「……忘れもしない、あの夏の日。思えば、あの時もこんな空梅雨だったかしら。きっとあの二人の時間は、あの日に止まってしまったのね」

 彼女の目が、すうっと、色を失う。

 過去に向かって、ゆっくりと潜航を始める。

 三十六年前の『空想祭』で、何が起こったのだろうか。

 時間が止まったというのは、二人の見た目が年齢に不相応に若々しく見えることを言っているのだろうか。

 ほんの数瞬の間に、僕の思考は圧縮された。予感。彼女は、黒木のおばあちゃんは、何か大切なことを言おうとしている。何故だかわからないが、僕はその先を聞かなければならない気がする――そして。


「――おばあちゃん、何してるの!」


 背後から響いてきた大声に、思考はかき消された。

 見れば、背後の扉に凭れるようにして黒木が立っていた。薄手の黒いパーカーに、ラフでゆったりとしたスウェット。髪はほんの少しだけ濡れており、どうやら風呂を済ませてきたようだった。

「食後の薬も飲まないで、何やってるの? まさか、またユッキーにアイスを売ろうとしてないよね」

「ほほほ、そんなことはしてないよ。ちょっとした思い出話を、聞かせていただけさ」

 それならいいけど、と、黒木はぼやいていた。そして入れ替わりに、おばあちゃんが家の中に入っていく。

 去り際に、彼女は一度だけ振り向いて。

「また続きが聞きたければ、いつでもおいで。なんだかあなたは、あの話を聞いておいた方がいいような――そんな気がするわ」

 そうとだけ残して、彼女は去っていった。その背中を見送りながら、黒木が首を傾げる。

「思い出話って、ユッキー、何の話を聞いてたの?」

「……ああ、取るに足りない、普通の昔話だよ。この辺りの歴史についてとか、黒木んちの話とかさ」

「ふーん……そっか。おばあちゃん、新しい話し相手が見つかって嬉しかったのかな?」

「話し相手っていうか、ほとんど一方的に聞かされてただけだったけどな」

「年寄りなんてそんなもんでしょ。それより、遅くなるといけないし、さっさと出発しちゃおうよ」

 そう言って、彼女は歩き出した。僕もその後に続く。

 いくつもの世間話を交わしながら、僕らは暗い奥瀬の町を往く。

 黒木が僕を引っ張っていったのは、商店街の一角。あちこちがボロボロに解れた暖簾を提げた居酒屋だった。

 辺りを見ても、人気を感じるのはその店だけで、他の建物はどれも死んだように眠っていた。昼間は古き良き、という印象だったそこは、完全にゴーストタウンの様相を呈している。

 躊躇なく横開きの戸を開けて店の中に入った黒木は、カウンターを挟んだ向こうで仏頂面をする店主に、慣れた調子で冷やを二つ注文した。そして、カウンター席の奥の方に腰かけたので、僕もその隣に並ぶ。

 落ち着いた雰囲気だった。

 何十年も前から時間が止まっているような、そんな場所。いまだに現役のブラウン管は日焼けで変色していて、柱やテーブル、加えて椅子まで、木製の部分のあちこちがささくれ立っている。

 店主の背後の棚には何本も焼酎の瓶が並んでいて、中には、僕でも名前を知るような高い銘柄まで含まれていた。四方の壁を囲むように貼り付いた品書きの札は、あちこちが埃と経年劣化でくすんだ色をしていた。

 仄かなアルコールの臭い。

 それと、どこかで炭でも炊いているのだろうか。独特の香りが鼻を突いた。

 どん。と、目の前に二合の瓶とグラスが置かれる。並々と満たされた清酒が、ゆらゆらと揺れていた。

 海を閉じ込めたみたいだ。

 ぼんやり、そんな風に考える。

 白熱灯を呑んだ液体は、光をあちこちに反射しながら、そこに確かに浮かんでいた。

「まあ、まずは一杯飲みなよ。あたしの奢りだからさ」

 そう言いながら、彼女は瓶を取り上げると、僕の前に置かれたグラスにトポトポと注ぎ始めた。虚空に満たされた透明はしばらくの間波紋に振れていたが、すぐに凪いで、僕を見つめ返してきた。

 グラスを掴む。冷たい感覚が、末端に集まった体温を少しずつ解していく。けれど口にすれば、それが耐え難い熱を放つということを経験則で知っていた。

 酒。

 飲むのはいつぶりだろうか。彼女のことを忘れようと浴びるように飲んだことがあったが、結局ひどい頭痛と倦怠感が残るばかりで、僕の記憶はこれっぽちも欠損しなかった。

 口をつけて、流し込む。微かに食道が熱を持つ。それはすぐに腹の中に落ちて、ふわりと顔が熱くなる。脳味噌に毛布でも被せたように乖離する感覚と、口に広がる苦味が、飲酒の実感を三秒遅れで滑り込ませた。

 僕は決して、強い方ではない。付き合いでなければ飲もうとも思わないし、良し悪しもわからない。ただきっとこれはうまい酒なんだろうと、頭のどこかで考えていた。

「……いいお店でしょ、ここ」

 黒木はぽつりと呟く。最初はそれが僕に対しての言葉だとは気づけなかった。

 そのくらいに消え入りそうな、けれど自慢げな調子で、彼女は続ける。

「うちのじーさんとかさ、ずっとここに入り浸ってたの。何年も、何年も前から、ここは変わらない」

 変わらない。

 思い出の中と同じ姿のまま。

 それがいいことなのかは、僕にはわからない。僕にとって思い出とは苛むもので、心を締め付けるものばかりだ。

『あいつ』との思い出すら、僕は刃物に変えてしまった。

 自分で傷つけてしまった。

 そんな僕が今さら、だ。

 無言で二口目を口にする。先程よりいくぶん舌に馴染むが、後に残った苦味が、膿んだように口内を苛んでいた。

「……ユッキーさ、死にそうな顔してるよ」

「……え?」そんな折だった、彼女は何の前触れもなくそう始めた。

「頬の傷はともかくとしても、顔色は悪いし目は濁ってるし。昨日も倒れたりしてたし、本当に大丈夫?」

「…………まあ、大丈夫だよ」僕は繕うように言う。

「大丈夫なら、そんなひどい顔はしてないって。もし私に話せることなら、話してみてよ」

 話せないだろう。

 僕の心はどうしようもなく病んでしまっている。

 『あいつ』を亡くしたことによる僕の病状は、恐らく相当に末期にまで進行してしまっている。放っておけば僕は何かを成す前に、最低の末路を迎えることになるだろう。

 心臓の痛みも。

 目を塞ぐ赤色も。

 致命の域まで、届いてしまっている。

 ただ、それについては話せなくとも――今抱えている直近の懸案くらいについては話してもいいのかもしれない。

 それは僅かな心の揺らぎだった。

 僕の弱さが露呈したのか。それとも、酒が口を緩ませたのかはわからない。

 だが、確かに僕は自分の意思で――ぽつり、と。それを口にした。

「……僕にはわからないんだ、どうすれば道を示せるのか。あの全てに絶望してしまった女の子を、こちら側に引き戻せるのか」

 グラスの中に、ふわりと波紋が広がった。水面が失ってしまった平静はすぐには取り戻すことができず、小さな清酒の海が僕の手の中で時化ている。

 震えている。

 僕は、恐れている。浅瀬と、あの底無しの眼と相対することを、心の深いところで拒んでしまっている。

 彼女にぶつけるべき言葉を、今の僕は持たない。松前に対して東がそうであるような、心を揺さぶるための鍵も見つけられていない。

 今のまま向き合えば、きっと僕は彼女の闇に飲まれてしまう。

 だから――怖くて仕方がないのだ。

「……ねぇ、ユッキー」

 黒木は一息にジョッキを干した。よほど酒に強いのか、その顔の表面には赤みの欠片も見受けられない。ただ、平時より僅かに明度の下がったその大きな両目で、僕を見据えている。

 その黒目が僕の虹彩とラインで結ばれた途端、ズキリ。唐突に目の奥に鋭い痛みが走った。

 僕は。

 僕は、その目を知っていた。

「どうして帷子の親父さんが君をこの町に呼んだのか、わかる?」

「…………秀昌さんが、僕を?

 それは僕もずっと気になっていることだった。

 何故、秀昌さんは彼らの監督役に僕を選んだのだろうか。

 自分の一人娘を守れなかった、腑甲斐無いこの僕を、どうして彼らの前に立たせようと思ったのか。

 僕以外に適する人間が、いくらでもいたように思える。それこそ、今僕の隣で酒をあおっている黒木でも、僕よりは上手くやれただろう。

 少なくとも、と、僕は頬のガーゼに触れた。指で撫でると微かな痛みが走る。

 こんな風に痣をこさえなくても、あの少年を立ち直らせることができたに違いない。

 なら、どうして。

「…………わからない」熱が、頬から耳に移っていた。「どうして僕が選ばれたのか、僕自身にも皆目検討がつかないんだ」

 あの人の目が節穴だったのではないだろうかと思うほど、僕は彼らの『先生』としては不適格だ。

 教師としては不適格で、

 反面教師ほど不出来ではない。

 中途半端に腐った僕は、誰かに何かを伝えられるような存在ではない。せいぜい、腐臭を撒き散らして顔をしかめさせるのが関の山だ。

 僕はそれほどに――薄弱だ。

「そうだろうね。実際、あたしにもわかんないし」

 誰かを責めるような声色で。

「あの人らの考えは、昔からわからない。『あの子』が生きてた頃から、ずっと。たぶん見てるところがあたしらとは違うんだろうね」

「見てるところ?」僕は素っ頓狂に返す。

「全部折り込み済みなんでしょ。好都合も不都合も、まるごと頭の中にあるんだ」

 好都合、不都合。それが今回の場合何を指しているのか。僕にはわからないが、その辺りの兼ね合いで僕に白羽の矢が立ったのだ。

 だとすればたぶん、その辺りの都合はあの二人の「見ているところ」に直接関係するのだろう。

 予想することは難しいに違いない。

「安心しなよ、少なくともユッキーはあの二人の思惑から外れちゃあいないと思う。もしそうなら、適当な理由をつけてとっくに帰らされてる」

「いや、いくらなんでも、そんな」

「そんなもん、なんだよ。帷子さん家は決して成人君子なんかじゃあない。いつだって自分たちの目的以外は、あの人らから削ぎ落とされてる」

 目的。

 四人の少年少女の更生。

 甦り。

 成せているのだろうか。今の僕は、あの人たちの描いた画の通りに。

 絵描き。それは僕と『あいつ』にとっては、随分と気の効いた皮肉だ。

「なら、このままでいいのか? このまま、中途半端な気持ちでぶつかって、生半可な覚悟で向き合って。それが本当に正しい解答なのか、僕は知りたいんだ」

 僕も、一気にグラスを傾ける。脳がたわむような感覚と、鼻に抜けるアルコールの臭い。明日もあるのだ。二日酔いだけは避けなければならなかったが、少なくとも今それを考えている余裕は無かった。

「さあ」黒木はまた、杯を満たす。「あたしにゃそんなことはわかんないよ」

「わかんないって、お前……」

「ただ、これだけはわかる」

 酒瓶の端から、滴が宙に。しばらく浮かんだ後に、ポタリと落ちて小さく飛沫を飛ばす。

 彼女は僕を睨んだ。鋭い目。あるいは、強い感情の籠った目。どちらにせよ、それはいつかどこかで見たことのある色をしていた。

 一心拍、そして。

「たぶん、私たちが決めることじゃないんだよ」

 言って、一息に干した。顔の赤みがほんの少しだけ強くなった彼女は、グラスの底を見つめながら、続ける。

「どこに向かうも、何を選ぶもあの子らの自由だ。それだけがこの世の中で、唯一保証されてる。とくれば、私たちはそれを見届けるしかないんだよ」

 だって私たちはもう、大人なんだからね。

 最後にへらっと表情を崩した黒木は、どちらかというと子供っぽくも見えたが、しかし、それでも彼女の言葉は正しいように思えた。

 僕らは、もう大人なのだ。社会の交換可能な部品のひとつで、物語の構成要素のひとつで、世界の歯車のうちのひとつだ。

 世界を回すことはできる。

 しかし、世界を変える権利はもう、僕らの手の中にはない。もしそんなものがあるとするなら、それは、あの高校生たちのような少年少女が握り締めているのだろう。

 彼らの周りの、面積にしてほんの何キロメートルかの現実を変えられるのは、もう彼らしかいないのだ。

「……そうなんだろうな。となると、やっぱり僕の選んだ手段は間違ってなかった。道化に徹して正解だったよ」

「なにさ、ユッキー。道化って」

「そのまんまだよ。僕にできないことでも、きっとあいつら自身でどうにかできる。僕にできるのは、その背中を押してやることだけなんだ」

 人の心は変えられない。

 ましてや、権利のない僕なんかには。

 変わるとするなら、それはあくまで自発的に、だろう。

 外部からどれだけ刺激を与えようと、結局最後は自分で枷を外せるかだ。だから、僕があれこれと手を尽くしたところで、それは盛大な一人相撲に過ぎないのだ。

 自己完結の自己満足に、過ぎないのだ。

 現に、松前と東はそうだった。二人の心のカギはお互いの中にあって、僕はきっかけを与えただけだ。言ってしまえば、二人が双方向なのだと、気づかせただけなのかもしれない。

 そう嘯く僕を見て、黒木はしばらく何も言わなかった。

 発言の真意を見抜こうとしているのか、じっと、黙して、僕と向かい合って――、

「ぷっ、あ、あはははははは!!」

 直後、吹き出した。

「なんだ、何がおかしいってんだよ」

「あ、あはは。悪いね、別に悪気はなかったんだよ。ただ、ほら、ユッキーがあんまり深刻な顔してるもんだからさ」

「深刻な顔だってするだろ……ああ、もういいよ」

 僕は顔を背けた。苛立ち、とまではいかない小さな心のささくれ。


 それでも、僕の心は確かに満たされていた。不安の傷口は、しっかりと繋がっている。

 浅瀬。

 僕は向き合わなきゃいけない。

 今のところ、どうすればいいのか全然わからないし、彼女について手がかりはこれっぽっちもない。松前と違って、インターネットで情報が出てくるようなことはなかった。

 ただ――道は見えている。

「……ったよ」

「ん、何て?」

「お前が友達でよかった、って言ってんだよ、黒木。そんでもって、お前が『あいつ』の友達でよかった」

「何それ」黒木は屈託なく笑う。「改めて言わないでよ、照れるじゃん」

 きっと、僕は一人なら折れていた。この奥瀬に来てからずっと、僕は彼女を心の支えにしていたのだろう。

 誰にも頼れない状況で。

 誰も何も教えてくれない中で。

 彼女だけが、いつも素直に話してくれる。

「だからさ、運命なんだよ、全部」黒木は歌うように、上機嫌に言う。

「運命……?」

「そう、運命。『あの子』とあたしが友達になったのも、あの電車であたしたちが出会ったのも。何もかも、大きな何かに引き寄せられたみたいに、必然的だった」

「なんかやだな、それ。僕は運命論者じゃないんだ」

「あたしも違うよ。でも、そうだったらロマンティックじゃない?」

 空のグラスを弄びながら、黒木は楽しそうに言った。この朽ちかけた町の中で、彼女は怖いくらいに生き生きとしていた。その生気がどこから来るのかはわからない。

 ただ、『あいつ』が友人として選んだ理由も、よくわかる気がする。常に死を見つめ続け、自分の生と向き合った『あいつ』が持っていないものを、黒木は持っていた。

 だから、惹かれたのだろう。

「ばーか」と、僕はそう返して、もう一度グラスを傾けた。酒の臭いが、ゆっくりと意識を朧化させていく。力が抜ける。心地よい眠気が、手足を弛緩させた。

 脳みその端までが痺れに侵される直前、どこかで懐かしい声がした気がした。それはもしかすると黒木の独り言かもしれないし、店主の愚痴かもしれなかった。

 ただ――『お疲れ様』と、労っているように聞こえたその声が、ゆっくりと心に染み入る感覚だけが、鮮やかに腕の中に残っていた。

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