#5

「……今、なんて言った……?」

 僕の耳を刺したのは、思わず笑えてしまうくらいに予想通りの言葉だった。

 空気が、凍り付いたのを感じる。全身の血が冷たくなって、無理矢理押し広げられた血管が、脈打つたびに酷く痛む。

 そうなるだろうと思っていた。

 こうなるだろうと思っていた。

 だから、僕は心中の波紋をおくびにも出さず、肩をすくめて見せた。

 何となく、予想はついていた。もちろん、詳細に至るまで全てを予見できていたかというとそんなことは無く、少なからず驚きもあった。口にした言葉とは裏腹に、彼の傷跡を嘲るような気持ちはこれっぽちもない。

 半生を――どころではない。幼い頃からずっと打ち込んできた剣の道を絶たれた彼の思い。そして、絶望。きっとそれは、僕なんかが想像もできないくらいに深く、そして、致命的であるのだろう。

 生きる理由を見失うくらいに。

 生きる意味を手放すくらいに。

 だからこそ、だ。僕は彼に教えてやらなければならない。

 まだ、自分の歩むべき道が腐り落ちていないということを。

 まだ、取り返しがつくということを。

「ああ、聞こえなかったか? お前は結局のところ、助けを求めてるんだよ。どうにもならないことを棚に上げて、誰かに助けてもらおうとしてるんだ」

「……俺は、そんな」

「否定できるのか?」僕はわざと、被せるように言った。やみくもに手繰るばかりだった綱の先に、確かな重さを感じる。

 声が届いている。

 そのベクトルが正負どちらに傾いていようと、今は構わない。言葉が交わせるのなら、こちらには勝算がある。だから今は、どちらでもいい。

 彼がこの場にいて、僕の話を聞いてくれさえするのなら、他のことなんて。

「何も変えようとしない、何も変わろうとしない。ただ現状に文句を言いながらくだを巻いて、空から雲の糸が降ってくるのを待ってる。僕には、そう見えるぜ」

 彼に向けたはずの言葉の刃が、同時に己が身も刻む。

 変えようとしないのも、変わろうとしていないのも、僕のことだ。言えた義理ではない。

 こうして彼と向き合っている今でさえ、僕の心は致死性の後悔に蝕まれている。今はまだ、それが僕の喉を食い破っていないだけだ。

 そんな紙一重で、僕はここに立っている。

 それでも、僕の心の中など、彼にはわかるまい。

 思いの丈を伝えたいのなら、僕らは何かの形にしなければならない。言葉か、文か。そうしなければ、逆方向の僕らには伝わらない。

 だから――騙せ。

 感情も、表情も、全部を嘘っぱちで塗り固めてしまえばいい。どうせ誰も、本当の僕など知らないのだ。

 演じきれ、与えられた役を。それが例え、どんな結果を招くとしても。

「だから言ってやったんだよ、クソガキってな。僕に冷たく当たったって、不貞腐れて輪を乱したって、お前を取り巻く現実は変わらない。お前にできることは、過去を振り切って新しい何かに打ち込む……それだけじゃないのか?」

 それは、僕にはできなかったことだ。

 僕には、もうどうしようもなく終わってしまった半端者にはそれができなかった。今も『あいつ』を忘れられないままで、無様に這いずっている。

 だから、せめて。

 目の前の少年には、僕のようになってほしくない。

 気づくことができれば、彼はまだ引き返せる。幸せになれるのだ。だから――。

「……うるせえよ、お前」

 彼は顔を伏せたままで言った。握った拳が震えているのは怒りか、それとももっと別の感情か。どうあれ、それが激情と呼べるものであるということは確かであった。

 彼我の距離が、ぐっと縮まる。何かを振り払うようにして近づいてきた彼は、そのまま僕の胸ぐらを掴み上げた。

 肩で息をしながら、彼は拳を振り上げる。今にも撃鉄を落とさんというところで、彼はぴたりと停止した。

「いい加減、黙れよ。わかったような口をききやがって、結局そんなこと言ったって、お前にとっちゃ他人事なんだろうがよ」

 他人の痛みなど、わかるはずもない。

 僕らはみんな、一人一人が小分けにパッケージされた人間だ。だから、痛みも悲しみも苦しみも、何もかもが自分の中だけで完結してしまう。

 この痛みは自分のものだ。

 この痛みは自分だけのものだ。

 誰もがそうして、抱え込むのだろう。

 それは僕にもわかっている。きっと、彼自身も。

ならば、もう一押しが必要だと思った。

「黙らない。いつまで甘ったれてんだクソガキ。いい加減前を向けっつってんだよ――」

 ああ。

 それは確信だった。

 『これ』は言ってはいけない言葉だ。口にしたが最後、状況は不可逆的に変化する。

 越えてはならない一線。明確に見えているラインを、僕は。


「――たかが、剣道じゃねえかよ」

 

途端、世界が弾けた。

 衝撃、浮遊感、流れる景色。痛みが追い付いたのは、それからしばらく遅れてのことだった。

 振り抜いた右手。強かに打たれた頬。口内には血の味が満ちていき、視界がパチパチと明滅を繰り返す。

 浮いた体は堤防から投げ出され、そのまま砂浜に落ちていった。着地した背中は痛まなかったが、僅かに舞い上がった砂が、汗ばむ肌にまとわりついてくる。

 殴られたのだ――そう理解するよりも早く、僕の耳にそれは届いた。

「ふざけんじゃねえよ! たかが剣道? 俺はその『たかが』に何もかも懸けてたんだよ! お前みたいなやつに、何がわかんだよ!」

 松前は叫ぶ。まるで自分の魂を削って、吐き出すように。その声に呼応するように、彼に殴られた頬が脈打つ感覚があった。

 ああ、と、僕は思う。この感情は僕が今まで抱いたことのないものだ。彼が半生を捧げた剣道に対する思い、そしてそこに土足で踏み込んできた僕への怒り。それがこの拳の重みなんだろう。

 そう考えれば、彼の言葉は実に理に敵っている。「お前みたいな奴に」確かにその通りだ。

 僕は今までの人生で、何かに打ち込んだことなどなかった。

 適当に言い訳をして、真剣な誰かを羨んで、なんとなく生きてきただけだ。

 だから僕の言葉なんかが彼に響くはずがない。

 それでも、これだけは言っておかなければならなかった。

「……わからないことは、ないだろ」

 ゆっくりと、両足に力を込めて立ち上がる。立ち上がれる。頬の痛みも、どこか遠い。きっと、興奮が痛みを忘れさせているのだろう。ならば丁度いい、そんなものは忘れたままにしておけ。今、この場には不要なものだ。

「お前は、まだ気付いていないのか。こんなに近くにいるのに」

「……何のことだよ」

 僕は祈る、間にあってくれ。『赤レンズ』からここまで、走れば10分ほどだ。

 もしも僕の考えたとおりになっているのなら、あともう少し。あともう少しで到着するだろう。

 それまで僕は彼を逃がすわけにはいかない。彼の心が剥き出しになった今でなければ、きっと『その言葉』は届かない。

 だから僕は口を開く。彼を縫い止める、そのために。

「お前の周りには、いるだろ? お前のことを考えてくれている人がたくさん。なのにお前は、気付いていない」

「……なんだよ、それ」

 ああ、こんなのはただの後悔だ。

 僕の後悔。赤くない、そこには友人や恩人の顔がある。岡田、社長、秀昌さんと関乃さん。

 僕はそれを裏切った。岡田のことを拒んで、社長の前からは逃げ出して、秀昌さんと関乃さんには嘘を吐いた。

 みんな、僕を気遣ってくれたのに。

 みんな、僕を救おうとしてくれたのに。

 だからこれはただの後悔。僕と同じ轍を踏んでほしくないから伝える、悔恨の言葉だ。


「いい加減前を向けよ。下ばっか見てるからわからねぇんだよ。無くしたものばっか数えやがってこの――臆病者が」


 それは彼に向けた――けれど実際は僕の方を向いた言葉だった。

 手放したものから離れることができず、全部失くしてしまった愚か者。臆病者。何もかも僕のことだ。

 僕は一歩、踏み出した。なんとなく体が地面から離れているような気がする。足が伝える感覚がどうにも遠い。それでも今だけは倒れるわけにはいかなかった。

「……うるせぇ」

 震えている。声が、体が。彼の全てが。堪えきれない感情は怒りか、それとも別の何かなのか。判別もつかない内に、彼は誤魔化すように拳を握った。

「何がわかんだよ、お前に。俺はあれが全てだったんだよ。もうそれがなくなった俺に価値なんて無いんだよ……!」

 松前がコンクリートの地面を蹴って、僕めがけて飛び込んでくる。もう避けることもできなかった僕は、それをもろに食らい、僕は再び砂浜に倒れ込む。

 馬乗りに彼が腕を振り上げた。ああ、きっと彼の一撃をもう一度耐えることはできないだろう。

 頭を打ってしまったのか、視界がはっきりしない。このまま殴られたのなら、次は立ち上がれないだろう。誰かが僕を探しに来てくれれば『赤レンズ』まで運んでくれるかもしれないが、そうでなければこのまま野ざらしかもしれない。

 幸いにも今は夏だ。熱帯夜が続いているから、意識を失ったまま放置されても凍えるようなことはない。ただ、その間にせっかく溶けた彼の心はもう一度凍りついてしまうだろう。

 だから。ああ、叶うなら、どうか。

 願う言葉、拳がだんだん大きく、遠近法。嘆息も遅く、僕は――。



「――将吾っ!!」 


 ドッ、と。

 彼の拳は、確かに僕の頬を捉えた。しかし、そこまでだった。振り抜かれることはない。勢いの死んだ彼の左手は、そのまま、だらんと垂れ下がる。

 同時、抜ける力。けれど、意識を手放すわけにはいかない。

 胸を安堵が満たしていく。賭けには、どうやら勝てたようだった。

「……なんでお前、ここにいんだよ」

 立ち上がりながら、松前が震える声で呟いた。信じられない、とでも言う風に。

 それもそうだろう。彼女は、ここに来るはずのない人間だ。いや、もしかすると偶然訪れることはあるかもしれないが、だとしてもタイミングが良すぎる。

視線の先。砂浜に降りる階段の上。そこには唯一、今の彼に言葉を届けることのできる人間が。


 東三咲が、立っていた。

                                                             

「……なにしてるの、将吾」

彼女の言葉に込められた感情は、ひとつではなかった。戸惑い、怒り、焦り、しかしきっと、一番大きかったものは僕と同じだろう。

 間に合ったのだ。松前が僕を力で捩じ伏せ、どこへなりと姿を消す前に。

 道を外れる前に、ここに至れたのだ。

「…………んだよ」

 見開いたまま、松前は呟く。どこか、怯えているようにも見えた。見られたくないところを見られた、とでも言いたげに。彼は少しだけ、後ずさる。

「聞いてるのは私だよ、将吾。何をしてるの、こんなとこで。どうしてセンセーはボロボロなの?」

「……………………」

 彼は答えられない。歯を食い縛り、ばつが悪そうに俯くばかりだ。

 だが、東は言葉を緩めはしなかった。一歩ずつ進みながら、たったの一瞬すらも、目を離さなかった。

「ねぇ、将吾」

 そして、彼女はゆっくりと歩いてくる。一歩、二歩。松前は身動きもできないままで、やがて二人は、それこそ手を伸ばせば触れられるような距離で向かい合う。

 逃げられない。

 もう、彼には逃げ場がない。

 だから、もう彼女の言葉を正面から受け止めるしか――ない。

「あんたが、やったの?」

 それは、訣別の言葉のようにも聞こえた。

 追及。今までお互いに傷を隠しながら、不干渉を貫いてきた彼らの境界が崩れる音。

 もうこの二人は、今までのようにはいかない。

 もう今までのようには過ごせない。

「…………そうだよ」

 松前はしばらくの間、俯いたまま黙していたが、ついには観念したように、ぽつりと言った。

「俺が殴ったんだ、こいつを。俺に、俺なんかに向き合ってくれたこの人を、思いっきりぶっ叩いた」

「……なんで、そんなことしたの?」

 東の声に、責めるような色はなかった。ただ純粋に、どうしてかわからないというように、彼女は訊く。真っ直ぐな瞳で、意図を隠さない、率直な言葉で。

 たぶんそれが、彼には辛いのだろう。

 耐えられないくらいに。裏表のない問いは、彼の心に深く刺さる。

「俺は……俺は……」

 松前は静かに拳を握る。しかし、それを降り下ろす相手はいない。最後まで彼を信じ、支えようとしてくれた東に、それを降り下ろすことなどできない。

 そこまで彼は、腐っていない。

「私、あんたのことはわかってるつもりだった。小っさい頃から一緒でさ。剣道と食べ物のことくらいしか考えてない、真っ直ぐなバカだった」

「……おい、バカって、お前」

「こんな風に人を殴るような奴じゃ、なかった」

 まっすぐで。

 ひたむきで。

 愚直で。

 そんな彼が歪んでいく様を、東はどんな気持ちで見ていたのだろうか。

 誰よりも近くで。大事なものも取り落として、輝きは鈍って。それでもまだどうしようもないくらいに彼のままの彼を、東はきっと誰よりも近くで見てきた。

 ともに文芸部に入ったのも、そういうことだろう。彼女は松前を見捨てられなかった。その先に待つのがどんなに苛烈な悲痛の道であろうとも、彼女は共に歩くことを選んだのだ。

 僕は向かい合ったまま、微動だにしない二人を倒れたままで眺めていた。動かない。風になびく服と髪、それに僕らのやり取りなど意にも介さないような並みの音だけが、世界が回っている証拠だった。

 けれど、きっと二人は停止しているわけではない。

 二人の間には、いくつもの言葉が。あるいは可視化されない言葉未満の感情や表情、視線の動きや僅かな息遣いで、無数のメッセージがやり取りされている。

 今まで、してこなかった。

 近くにいたはずなのに、一度たりとも剥き出しの感情を見せ合おうとはしなかった。

 傷つけたくないから。

 あるいは、傷つきたくないから。

 それが都合のいい言い訳でしかないことに、彼らはようやく気が付いたのだろう。

「……俺は」松前が口を開く。「俺は、剣道なんか好きじゃなかったんだ。練習して、強くなって、勝って、でも、その先に何かがあるわけじゃない。試合が、大会が終わった後に残るのは、いつだって虚しさばっかだった」

 それでも、彼は続けてきた。

 先ほど彼は「やめる理由がなかった」と言っていたが、それはきっと、本音ではない。恐らく彼は、続けていたかったのだ。

 認めてくれるから。

 こっちを見てくれるから。

「……お前が、すごいって言ってくれるから」

 彼は絞り出すように言った。先ほどまで大声で怒鳴りつけてきていたあの勢いは、もうすっかり萎んでしまっていて、年相応の少年にしか見えない。

 そのまま、松前は静かに膝をついた。覆った指の隙間から漏れる嗚咽、小さく震える体。ずっと彼はこうして泣きたかったのだろう。

 だけど、できなかった。たった一人の幼馴染の前では、弱ったところを見せたくなかった。

 それだけのこと。

 意地っ張りな男の子が、格好をつけたかっただけのこと。

「……もういいよ、将吾」

 彼の驚くほどに小さく見えるようになってしまった肩を、東が両手で包み込む。彼女の頬にもまた、一筋の涙が伝う。

あの時、この砂浜で彼女は激昂した。僕にはわからないと、そう、責め立ててきた。

 けれど、一方で。彼女もまた、同時に言葉の刃を自分に突き立てていたのだ。

 痛みの正体を知っているのに向き合おうとしない――自分の腹に。

「私ね、ずっと後悔してたんだ。あれだけ近くにいながら、どうして防げなかったんだろうって。私がもっと強ければ、今も将吾は剣道を続けてて、きっと、もっとすごくなってたんじゃないかって」

「……そんなの、お前のせいじゃ……」

「私のせいなんだよ」東は続ける。「私のせいって、どうしても思っちゃうし、きっと私にもできることがあった。でも私は、ただ見てただけだった。将吾が苦しんでるときも、崩れてる時も、何かを、諦めようとしている時も」

「……そんなのは、今さらだろ」

「今さらだけど、伝えなきゃいけないと思ったの。そうしなきゃ、将吾が遠くに行っちゃうと思ったから」

 彼女はポケットから一枚の紙切れを取り出した。

 それは僕が『赤レンズ』を出る前に用意したものだ。正直、これが彼女の下に届くかはかなりの賭けだった。しかし、東にはどうしてもこのタイミングで来てもらわなければならなかった。

 彼の心が剥き出しになった瞬間に。

 彼の虚飾が剥がれ落ちた一瞬に。

 たぶん、彼を救うことのできる最初で最後のこの場面で、登場してもらう必要があった。

「『防波堤、松前と話しに行ってくる。あいつを助けたければ、すぐに来てくれ』。在原センセーの書き置き、最初は冗談か何かだと思ったの。それに、軽い気持ちで首を突っ込んでほしくなかったから、少しだけ苛つきもしたかな」

 松前が、その目を丸く見開いて僕の方を見つめる。僕は不敵な笑みの一つでも返してやろうと思ったが、そんな余裕は残っていなかった。

ここに至るまでずっと、僕は必死だったのだ。僕ではできないことを僕が成すにはどうするべきなのか、それで頭がいっぱいだった。

 挙句、こんな方法でしか彼を止めることができなかったのだから、ある意味では自分の実力を正しく把握できていたのかもしれない。

 そう考えられるのも、こうして東が間に合ってくれただろうが。

「でも、ここに来てみてわかったんだ。この人はきっと、信頼できる人。私たちのために体を張ってくれる、同じ痛みを引き受けてくれる人なんだって」

 かつて。

 この場所で彼女は僕を拒絶した。『わからない』と言われた僕は、一方で、その言葉に奇妙な納得すら覚えていた。

 人はどうせ、他人同士にしかなり得ない。

 だから、相手を理解しようとするのは痛みが伴う行為だ。『わからない』のが普通で、歩み寄ろうとするから僕らは傷ついていく。

 でも、それでいい。

 そうでなければ、僕らはいつまでも一方通行だ。

「ねえ、将吾。今からじゃもう遅いかな。私が将吾と一緒に背負うには、もう何もかも手遅れなのかな?」

 ぼろぼろ、ぼろぼろ。

 ガラス玉のような涙が、幾粒も零れる。ぐちゃぐちゃの顔を歪めた彼女の心中に満ちる感情は、一体何なのだろうか。

 安堵か。

 後悔か。

 それとも、もっと複雑で度し難く、甘みと苦みが躁鬱混ざり合った、混沌とした発色なのだろうか。

 僕にはわからない。

 きっと、ふたりにしかわからない。

「……そんなこと、おまえは、ずっと……」

 将吾は、多くを語ろうとしなかった。

 ただ、涙を流す彼女を静かに抱きしめる。

 それが答えで、それだけが唯一、彼の思いを伝える手段だった。固く、固く。もう二度と解けぬように、その手を離さぬように。

僕と『あいつ』のように。

きっと、彼女らも双方向だったのだ。

双方向に、なれたのだ。

 しばらくの間、二人はそうしていた。僕も、体を起こせぬままでその静寂に付き合っていた。

 無様だ。

 僕は思わず、自分の口角が上がってしまうのを感じていた。引っ張られた頬の肉が鋭く痛み、殴られたのだという事実を思い出させる。

 こんな風にしか、僕は彼らを救ってやれない。

 自分をとことんまで犠牲にして、切り刻んで、食餌にして給仕して。ようやくほんの少しだけ、誰かの背が押せた。

 けれど、まあ。

「……よいしょ……っと」

 それも悪くはないのだろう。

 総身に力を込めて、どうにか上体を起こす。それだけでやっとだったが、震える両足に渇を入れ、僕はどうにか立ち上がった。

 僕の役割は終わった。

 演者は舞台から掃けなければならない。あの二人の物語に、もうきっと僕は必要ないのだから。

 ふらつく足取りで、僕は砂浜を後にする。

 ひどく重たい体も、熱をもって腫れあがった頬も。なんだか少しだけ、誇らしい気がした。

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