#3

 あの瞬間のことは、もうほとんど崩れ落ちてしまいそうなほど鮮明に覚えている。

 雨降りの日。何もかもが書き割りのように白々しく、そうでなければ、当てつけのようにベタ塗りの色調だった。

 二人きりの切り取られた空間。半径数十センチの、小さな小さな舞台。

 僕らはそこで語り合っていた。自分たちの不足を、避けようもなく欠けてしまった虚の淵を、補い合っていた――分け合っていた。

 それは出生の否定であったり。

 生きる理由の模索であったり。

 どうしようもなく、曖昧で、愚昧で、蒙昧で。どこを切っても自分の弱さが滲むような時間を過ごしていた。

 それだけで、よかったのに。

「だからね――大切なのは、今を生きている理由なんじゃないかって、私は思うんだ」

 それが結びの言葉だった。

 何か悲劇的なものの合図のように、世界が広がった。そこから先には何もなかったはずなのに、彼女は駆けだした。僕らしかいなかったその場所から、僕を追い抜いて駆け出した。

 笑顔。

 振り返って僕に向かって手を振る彼女は、確かに笑っていた。

 ずぶ濡れのまま、滴る水の感触すらも楽しむように。人混みの中に踏み入っていく。

 僕も、たぶん笑っていたのだと思う。だって、彼女が笑っていたから。鏡合わせの僕らは、共依存の僕らは、その笑顔の果てにきっと、何かが続くのだと信じていて。

「はやく、おいていっちゃうよ」なんて。台本通りの台詞すら愛おしくて。

 だから。

 僕は。

 気づけなかった。

 どっ、と。

 手を上げながら朗らかに微笑みかける『あいつ』に、誰かがぶつかった。

 笑顔が曇る。彼女の。そして、鏡の向こうの僕の。双方向の回線が、ぷつりと途絶える音さえした。

 だけど。

 僕はまだ気づけない。ただ、走ってきた誰かが彼女にたまたまぶつかったのだと、その程度にしか思っていなかった。

 その表情が苦痛に歪んで。

 彼女の膝が折れて。

 そこまで来て僕はようやく、地面を蹴った。

「***!」名前。誰の? 『あいつ』のだ。もう今では口にすることもできなくなったそれを、何かに縋るように叫びながら、僕は駆ける。

 誰かが叫んだ。女の声だったと思う。それを皮切りに、緩やかだった人の群れは、激流と化して僕を飲み込んだ。

 その流れに逆らって、僕は進む。しかし、辿り着けない。

 誰かが僕の足を踏んだ。

 靴が裂けても構わず、僕は進んだ。

 誰かが僕の袖を引っ張った。

 服が千切れても構わず、僕は進んだ。

 誰かの肘が、僕の顎をしたたかに打ち付けた。

 痣なんて気にすることもなく、僕は進んだ。

 進んで、進んで、叫んで、叫んだ。

 邪魔をするな。行かなくちゃ。僕は、あの場所に。あいつの所に。

 そして、めちゃくちゃに、ボロボロに揉まれ、ズタズタになりながら、僕はようやくたどり着いた。

 そこに横たわる彼女は、真っ赤に染まっていて。

 真っ白だったワンピースに、痛々しく滲んでいて。

 一目で致死量とわかる円の中心に横たわる彼女は赤くて、赤くて、赤くて。

 赤。

 真っ赤。深紅。酸化する前の血の色。雨と混じって、歪む視界。

赤が、赤が、赤が。

 焼き付いて、消えない。

 彼女の赤が、消えない。

 

 

 ***

 

 

 ズキン。ズキン。ズキン。

 僕の意識を引き上げたのは、擬音にするならそんな感じの、鋭い頭痛だった。

 痛い。

 熱い。

 まるで頭蓋の裏側に、焼けた釘でも入れられたようだった。その痛みは、熱は、真っ赤な苦痛は僕を酷く苛んで、耐えきれずに、僕は頭を掻きむしりながら飛び起きた。

「はあ、はあ、はあ……」

 息が荒い。心臓が暴れている。全身を濡らす汗がひどく不快で、僕は思わず身震いをした。

 眩しい。

上体を起こした僕に降り注いだのは、朝日だった。辺りがすっかり明るくなっている。

僕が寝ていたのは、『赤レンズ』の自室だった。畳の上に敷かれた布団、その上に、ついさっきまで横たわっていた。

どうやって帰ってきたのか、これっぽちも憶えていない。

記憶の糸を手繰る。確か昨日は、気持ちを落ち着かせるために黒木の所に遊びに行ったんじゃなかったか。それで黒木の友達の話になって、そして――。

そこまで考えたところで、思考はぷつりと途絶えた。ガチャリとドアノブを捻る音が、回想の波を遮断したのだ。

「お、もう起きてんじゃん。おっは、ユッキー」

蝶番を軋ませながら入ってきたのは、驚くことに、黒木だった。ラフなスウェットに、僕の知らないバンドの派手なライブTシャツ。脱色された髪は後ろで一つに縛られていて、化粧をしていないからか、いつもよりも幾分、優しそうな顔付きをしていた。

彼女は僕のすぐ傍まで寄ってくると、無言で手に持っていたタオルを渡してきた。僕はそれを受け取りながら、彼女に問いかける。

「黒木、僕は昨日、一体……」

「覚えてないの? あんたは昨日、うちの店先で倒れたんだよ。すぐ帷子のおじさんに来てもらって、ここに運び込んだんだ」

 そうか、と、僕は努めて冷静に返しながら、心中の動揺を押し隠した。

 明らかに、悪化している。

 突然倒れ、一晩気を失うようなことは、今までなかった。赤い後悔は、静かにだが、着実に僕を蝕んでいる。

 このままでは、いずれ。

 掌に目を落とす。倒れた時に地面でも掻いたのだろうか。指先の皮が、僅かに捲れていた。

 薄っすらと皮下に走る血管を見ながら、僕は思う。

 あとどのくらい、時間が残されているのだろう。

 僕はきっと、この赤色を振り払えない。そして近いうちに限界を迎えるだろう。

 この痛みに耐え切れずに、自分を殺してしまうだろう。

 そうなる前に、壊れてしまう前に、僕が僕でいられる時間は、あとどれだけ。

 その前に、僕は思いを遂げられるのだろうか。あの絵の描かれた場所を見つけ、そして、あの少年少女を更生させる。

 成し遂げるまで、僕は立っていられるのだろうか。

「ユッキー……」

黙考する僕のすぐ隣で、黒木が静かに口を開いた。彼女も彼女なりにタイミングを計っていたのだろうが、僕が考え込む様子を見て、今を逃せば好機は無いと断じたのだろう。

「『あの子』と、知り合いだったんだね。それも、ただの友達とかじゃなくてさ」

僕はどう返すか、一瞬だけ迷った。問いかけの真意が見えなかったのもあるが、口にすることで赤色に咎められるのを恐れていたのだ。

けれど、ここで誤魔化すのは誠意に欠けると思った。それに、彼女にはもう、僕の弱みを見せてしまったのだ。今さらこれ以上、隠すこともあるまい。

「……ああ、そうだ。僕と『あいつ』は知り合い――というか、恋人同士だった」

 そっか。

 黒木の反応は、意外にも淡白だった。てっきり僕は、もっと追及されるものだと思っていたが、彼女はただ、何かに納得したように何度か頷くだけだった。

 本当に、それが知りたかっただけだというように。彼女は僕の領域に、それ以上踏み込んでこようとはしない。あるいはそれが僕との適切な距離感で、黒木はそれを、今も守ろうとしてくれているだけなのかもしれないが。

「……ユッキー、あたしさ。実は『あの子』に彼氏がいることは、ずっと前から聞いてたんだよ」

 彼女は部屋の隅に腰を下ろすと、そのまま壁にもたれながら、天を仰いだ。

 そこには誰もいないのに、僕らはもういない誰かを想うとき、決まってそうするのだ。天国は空の上に無く。成層圏の向こうには星の海が広がると知っていても、そうせざるを得ない。

「『あの子』の訃報を聞いたときさ、あたし、実はすっごく怒ってたんだ。あたしなんかよりもずっと近くにいたのに、手の届く距離にいたのに、どうして守れなかったんだって、ずっと思ってた」

「……それは、当然の怒りだ。僕は守れなかった。あんなに近くにいたのに、あんなに言葉を交わしたのに、僕は彼女が刺されるのを、ただ見ていたんだから」

 何もできなかった。

 あまりに突然の出来事だったとか、予想もしてなかったとか、そんな言い訳をするつもりはない。あの場ですぐに『あいつ』の下に駆け寄れなかったのは、僕の弱さだ。

 なのに。

「それは違うでしょ、ユッキー」

 黒木は意外にも首を横に振った。それは自分の負担を軽くしようと、あっさり非を認めた僕の弱さを、振り払っているようにも見えた。

「少し考えればわかることなんだ。通り魔が突然出てくるなんて、誰にも予想できない。だから、そんな突然の緊急事態に動けないのだって、別におかしなことじゃないんだ。ただ、あたしが勝手に怒ってただけ。事情も大して知らなかった部外者が、見当違いの怒りを向けてただけなんだよ」

「……いや、でも」

 卑屈に俯く僕の頬に、ピタリと触れる体温があった。ひんやりとした彼女の手は、それでも、死人の冷たさとは違う。

 皮下には血が走り、血が走るということは心臓が脈打ち、心臓が脈打つということは、彼女は生きているということ。

 黒木澄香は、確かにここで生きているということ。

 そして生きているから、こうして僕に触れる。そして、触れるから、僕の顔を自分の方に向けて、言うのだった。

「でも、じゃない。みんなそんなことはわかってるんだ。わかってないのはあんただけ。その証拠に、帷子さんたちはユッキーをこの町に呼んでるでしょ? あんたが本当に『あの子』を見殺しにするようなロクデナシなら、あの人たちだってそんなことはしないよ」

 そう、なのだろうか。

 もっともらしい理由のようにも思えたが、一方で、方便のようにも聞こえていた。結局のところ、あの人たちにだって僕の心が透かし見えるはずもない。

 真相はわからない。僕とあの二人は一方通行で、こんなに僕のことを気にかけてくれる黒木とすら、僕らは分かり合えない。

 だから、どこかで納得するしかないのだ。飲み込んで、折り合いをつけて、僕はやるべきことをやらなければならない。

「……そうだな、黒木。ありがとう、もう大丈夫だ」

 『空想祭』まで、あと二日。

 時間はある。が、有限だ。やらなければいけないことを過不足なく終えるには、こうして寝ている場合ではない。

 歩き出さなければならない。少しでも、前に進まなければ。

「それに、やらなきゃいけないことも、わかった。そうだよな、そうだ。僕なんかがいくら声を張ったところで駄目に決まってんだ」

 僕はどこまで行っても部外者だ。

 だから、彼らを救えない。松前将吾を、或いは、東三咲を。

 なら、どうすればいいか。

 簡単だ。つまり、僕がやらなければいい。

 部外者ではない誰かに、彼の心の傷の核心を知る人物にご登場願えばいい。

 それだけの話。そう考えればこの一件は、複雑に絡んでしまった意図は、至極単純にほどけるに違いないのだ。

「さあ、そろそろ僕は起きるよ。働きに来てんのに、いつまでも寝ちゃあいられないからな。黒木、お前はどうするんだ?」

「んにゃ、帰らせてもらうよ、ユッキーの顔見に来ただけだしね。それにもうちょいしたらばあちゃんを病院まで送らなきゃいけないんだ」

 そうか。

 自分でも意外なくらいに淡白に返しながら、僕は足に力を込める。大丈夫、動けそうだ。

 立ち上がる、それと同時に、貧血にも似た眩暈と立ち眩み。やはりまだ本調子ではないか。それを言い訳にするつもりなど、これっぽちもないのだが。

 些か寝すぎたようで、時間はもう昼前だ。動くなら早い方がいい。

 たぶん、今日は長い一日になるだろう。あるいは、驚くほど短い一日か。どうあれ、とぐろを巻いた悲しみと向き合うためにも、僕はもう少しだけ、傷つかなければいけないようだった。



 ***



「おはよう、在原くん。昨日は大丈夫だったかい?」

 黒木を見送って数分後、着替えを済ませた僕が部屋を出たところで、声をかけてきたのは関乃さんだった。

 今日も今日とて謎の白衣に身を包んだ彼女は、雑巾を手にしていた。掃除の最中なのだろうか。『赤レンズ』はそこまで広くないだろうが、一人で掃除して回るのは骨が折れそうだ。

「え、ええ、まあ。ちょっと貧血か何かにでもなっちゃったみたいで……」

「ふうん、そうかい。澄香ちゃんちの前で倒れたっていうからビックリしたよ。うちのも相当に心配してたみたいだ」

 後で会ったら一言言っておくといい。

 関乃さんはシニカルに笑い、僕の目を覗き込んできた。ほんの少しだけ青みがかった彼女の瞳が、すうっと網膜の内まで入り込んでくるような気がした。

 何もかもを見透かすように。

 何もかもを見通すように。

「……まあ、多少は目を瞑ろうか。よし、食堂に軽い食事を用意してある。何をするにも、とりあえず食べてくるといい」

 しばらくの後、関乃さんは納得するように頷いて、そのまま歩いていく。どことなく『あいつ』に似ているような気がする背中をぼんやりと見つめ、そのまま見送る。風が吹くたびに揺れる髪は薄墨のようで、僕はなんだか、絵画でも見ているような気分になった。

 と、そこで不意に予感がした。

 彼女は、きっと振り返る。振り返って、僕に意味深な言葉を投げかけていくだろう。

 そして、その予感は的中することになった。

「……あ、そうだ、在原くん」

 くるり、踵を返す。「あ、そうだ」なんて言いながら、その声色には白々しさが滲んでいた。どうせ、最初から何か言うつもりだったのだろう。

 だから僕も、知らないふりをして返事をした。

「……はい、何でしょう」

「君がこれから何をしようとするのかは知らないけれど、救急箱なら食堂に出しておいたよ」

 僕はその言葉に、思わず背筋を伸ばしてしまう。

 見抜かれて、いるのか。

 僕が今から何をするのか。

 どうやって――松前を立ち直らせるのか。

 全く、この人には敵わない。

 どこまで知っているのだろう。これまでの人生で、頭の中を他人に見せた経験はない。

 なのに、関乃さんは何もかもを知っているようだった。僕の覚悟も、脆弱さも、もしかすると、この真っ赤な傷跡さえも。

 ただ、仮にそうだったとしてもこの場の僕にできることなど、大してありはしない。

「ありがとうございます。もしかしたら、使うかもしれません」

 だって、今から僕がしようとしているのは。

 何と言われても、何をされても仕方がないような、最低な――。

「……関乃さん、よければ、お願いがあるんです」

 関乃さんは怪訝そうに眉を寄せた。そして、その透明なアルトで「なんだい?」とだけ。僕がここで頼みごとをしてくるのは予想外だったのだろうか。初めて見る表情だ。

 そんな顔をしなくても、僕だってわかっている。これは僕がやらなければいけないことだ。僕がやって、僕が悪者にならなきゃいけない。

「紙と、ペンを。それから一つだけ、教えてください」

 傷つくのは、僕だけでいい。



***



 今日も今日とて、奥瀬の空は干上がっていた。

 乾ききったアスファルトからの反射熱も相まって、表皮が焦げそうなほどに熱されている。ほんの数分歩くだけで肌を汗の膜が包んでしまう。僕は多汗な方ではないと思っていたのだが、それだけ気温が高いということだろうか。

 異常気象だと、テレビでは甲高い声の気象予報士が繰り返し叫んでいた。全国的に見れば雨天が全くないわけではないらしいが、降水量はここ数十年で最低を記録しているらしい。

 異常気象。

 常とは異なる、狂った気象。

 もしかすると、これは――なんて、思いを馳せることもあったけれど、人ひとりの死が世界に与える影響など、たかが知れている。

 世界は今日も恙なく回る。

 君を載せずに平然と回る。

 だからこれも、ただのアトランダムの振れ幅なのだろう。関連するなどと声を上げる方がどうかしているのだ。

「……それはそれとして、もう少し涼しくてもよさそうなもんだけどな」

 独り言ちて、聞く者はなし。陽炎の向こうに虚しく響いた言葉が、揺らめいて消えた。

 茹だりそうな頭を抱えながら、僕は一直線に『そこ』を目指していた。

 もちろん、『そこ』というのはあいつが僕を待つであろう場所だ。向こうには僕を待つなどという意識はこれっぽちもないだろうが、少なくともそこが僕にとって決戦の舞台になるであろうことはわかっている。

 というか、僕は他にあいつがいそうな場所を知らない。『そこ』にいなければ、僕はあいつらと向き合うチャンスを失うことになる。その予感だけは、恐ろしいほどに硬質な感覚を伴って頭の中に浮かんでいた。

 備えに不足がないとは言えない。

 調べようによってはまだまだ松前の情報は手に入るかもしれない。ネットに僕の見落としていた記事があるかもしれないし、岡田に頼んで剣道関係者を当たってもらうこともできるだろう。もしかすると高校生たちと交流していくうちに、誰かが口を開いてくれるかもしれない。

 急いては事を仕損じる。もしかするともっと時間をかけて、それこそ彼らの滞在時間いっぱいまで準備をしてから、彼と向き合うべきなのかもしれない。

 ただ――その時に、僕が動けるコンディションであるとは限らないのだ。

 この赤い後悔が僕をどのくらい蝕んでいるのか、そして、僕がまともに活動できる時間はあとどのくらいなのか。先の見通しはこれっぽちも立っていない。

 僕が僕であるうちに。

 僕が崩れてしまう前に。

 やれるだけのことはやっておかなければならないだろう。

「……もしかすると、無駄なのかもしれないけどな」

 呟いて、僕はまた逸る歩調を抑えながら歩いていく。

 道中、潮風のせいか、それとも流れた月日がそうさせたのかはわからないが、あちこちにひどく錆が浮いた自動販売機でペットボトルを購入した。直感で選んだ新製品だという毒々しい色の炭酸飲料は、口の中に合成甘味料のべたついた甘さを残して、あっという間に容器から消えてしまった。

 空のペットボトルをぶら下げた僕は、さらに先を行く。阻むものは何もない。実はほんの少しだけ、まだ心の中に残る迷いが、僕の足を引き留めてはくれないかとも願ってはみたが、願いというのは往々にして叶わないもので、それはこの場合においても、同じことが言えるようだった。

 例えばそう、ヒカゲ。あの神出鬼没な少女であれば僕の前にふらりと表れて、ほんの二言三言で僕の間違いに気づかせてくれそうなものだが、こういう時に限って、白いワンピースも、サイズの小さなつま先も、僕の視界の端を掠めることすらしなかった。

 いつか、『あいつ』と話したことがある。

 僕らの生きる世界は、もしかしたら舞台のようなもので、僕らはそれぞれがそれぞれの演目に合わせて踊る演者でしかないのだと。

 僕は僕の人生を。

 黒木や岡田、帷子夫妻や高校生たちも、それぞれの人生を演じている。

 そして『あいつ』は『あいつ』の人生を演じきった。

 それは酷い悲劇だった――だからシェイクスピアは嫌いなのだ。誰だってハッピーエンドを迎えたくて、そのために主役を張って、時に、理不尽な台本に悩まされる。

 舞台の上には僕たちだけで、余計な存在はそこに上がることすら許されない。

 ただただ、僕らは孤独に演じ、踊り、そしていつか、幕を引く。

 だからきっと、今ここに誰もいないということは、そういうことだ。

 必要がない。

 僕を正す必要も、止める必要もない。運命なんてものがあるのなら、これはきっとなべて台本通りに進んでいることの証左なのだろう。そう思うと、幾分心が楽になった。

 軽くなった足取りは、その先の道程を実に軽率に飛び越えた。昨日、岡田と通話した砂浜へ降り立ち、海沿いに歩いていく。

昨晩は暗かったので気づかなかったが、砂浜の端の方には漂着物だろうか、廃材やゴミが積み上げられていた。誰かが集めたのだろう、それはある程度綺麗にまとめられていたが、一部、満潮時の波のせいか、流木なんかが散乱してしまっていた。

 それを踏まないように気を付けながら、さらに歩く。歩く。もうここまで来れば、心中に澱む躊躇も、ほとんど息をしていなかった。

 そして、堤防の階段の一段目に足をかける。

 この上が、僕らの舞台。僕ら二人の演者が、それぞれの人生の主役が二人で上がる、アンコールなしの大舞台だ。

 もし、だ。

 僕は考える。もし、僕が彼の人生において必要な演者だったとして。

 その場合、僕に与えられるべき役は、どんな役なのだろうか。

 考えて、思わず吹き出しそうになってしまった。どんな、なんて、考えるまでもない。

 僕に演じられる役など、ずっと前から決まっている。奥瀬に来る前から。『あいつ』が生きていた頃から。溝裏製作所で働き始める前から、一度たりとも変わっていない。

 僕は変わらない。

 僕は変えられない。

 だから。

 かつん。靴底が捉えた硬質な感覚は、先ほどまでのコンクリートと変わらない材質のはずなのに、いやに骨の奥まで響いてきた。

 堤防の上に吹く風は強く、けれど、煩わしさは感じさせない。微かに鼻腔に届く潮の香りが、爽やかにすら思わせるほどだ。

 そして、その風の吹いてくる方角。堤防の先に、そいつはいた。

 胡坐をかいて座る後ろ姿は、開けた景色も相まって幾分小さく見えたが、シャツから伸びる両腕は、なるほど、スポーツマンらしい筋肉のつき方をしていた。

しかし、その太い手足や胸板も、威嚇的に染められた髪色も、どれもこれもがどこか怯えるような、何かから遠ざかろうとするような気配を帯びていた。

「よう、こんなところで何してるんだ、お前」

そんな背中に、僕は語り掛ける。びゅうびゅうと吹く風に負けないように、声を張る。

ああ、そうだ。僕にはそんなことしかできない。こんなことしかできない。

 だから目一杯に演じてやるさ――道化を。

 松野が、ゆっくりと振り返る。それは何かの引き金を引いてしまったような致命的な気配と取り返しのつかなさを感じさせたが。まあ、ともかくとして。

 斯くして賽は――投げられたのだった。

 

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