#2
奥瀬の夕べは酷く静かだ。人も車も蝉までも、何もかもが空気を読むかのようにナリを潜めている。
耳を澄ませても、波の音しか聞こえない。寄せては返し、寄せては返し。けれど、飽きもせずに飛沫を上げながら砕ける白波の間に、その言葉は確かに響いていた。
「裏切り、って……」
榊は声を震わせながら反芻した。明らかに、誰が見てもわかるほどに狼狽している。
泳いだその目を射殺すように、松前はまくしたてる。
「そうっすよね、先輩? だって今までもそうだったんだ、今さら何かを信用しようなんてのは、無理なんじゃないっすか?」
裏切り。
彼は確かに、そう言った。その真意はわからないが、少なくとも今、僕が出ていけるような雰囲気ではないことだけは確かだった。
息を潜めて、彼らの様子を伺う。盗み聞きはほんの少しだけ気が引けたが、そもそもさっき榊の後をつけた時点で、こうなることはわかっていたようなものなのだから、今さら引くも何もない。
そんなこととは露知らず。榊に詰め寄りながら松前は続ける。彼はたぶん、止まれないのだ。
「三咲はよくわかんねえっすけど、あんただってそうじゃないんすか。そうっすよね。浅瀬だって、俺だってそうだった。そうだったから、俺は――」
ぐっ、と、。
彼はその続きを、噛み潰すように飲み込んだ。歯ぎしりの音が、こっちまで聞こえてきそうなほどだ。そしてしばらくの後、何かを振り切るように頭を振って、彼は吐き捨てるように一度、強く地面を踏みつけた。
そして、榊を追い越すと、そのままこちらに歩いてきた。僕は慌てて頭を隠す。足音が過ぎ去るまでの数秒間、心拍の音が、やけに大きく胸の中に響いていた。
と、不意に、足音が止まる。それは僕の隠れる階段の直上だった。バレたのだろうと、背中に流れる冷たさが脊髄までを冷やして――。
「――コウタロウだって、そうだったはずじゃないんすかね」
そこから、一気に気配が遠のいた。地面を蹴る音が少しずつ小さくなっていく。駆け出したのかもしれないし、逃げ出したのかもしれない。その二つはこの場合、イコールなのかもしれないが、それが僕に及ぼす影響は、なべて同じであるのだろう。
かくして、舞台には榊一人が残された。彼は黙して、海の方を見つめたまま、ピクリとも動かなかった。何を考えているのか、この位置からでは、上手く表情までは読めない。
「……いるんでしょう、在原センセー」
だから、そんな風に声をかけられたときに、僕は口から心臓が飛び出るかと思った。
素直に姿を見せるか否か、一瞬だけ逡巡したが、誤魔化すのも無理だろうと判断して、僕はゆっくりと階段を上った。貼りつけた笑いはバツの悪さを隠すためのカモフラージュで、それもほとんど、機能していないような気がする。
「あ、はは……バレてたか。ごめん、何か出て行きづらい空気でさ」
「そうでしょうね。砂浜を歩いてる時から、なんとなく気配はしてましたし。まあ、無理に言えばこうなるだろうなってことはわかってましたが、ここまで話を聞いてくれないとは」
なんと、とっくにバレていたのか。
驚きを隠して、どうにか繕おうかとも思ったが、きっと無駄な試みに終わるだろう。彼はわかっている。わかった上で、僕に声をかけたのだ。
だから、ここで引いてしまうのは、かえって悪手なのかもしれない。ならばあえて、切り込んだ方がいいのだろう。そう考えて一歩、踏み込むことにした。
「……さっき、松前が言ってたよな。裏切りがどうとか、って。あれはどういうことなんだ?」
榊の眉間に、微かに皺が寄った。これはさっきも、彼をひどく狼狽させたワードだ。それをわざと彼にぶつけるというのは、どこか残酷な気もしたのだが、それでもこれは好機だった。
間違いなくその言葉は。
彼らの傷の根幹に、創傷部に繋がっているのだろうから。
「……それは」榊は視線を逸らす。言うべきか言わざるべきか、口元をもごもごと動かしながら、何やら迷っている様子だった。
やはり、そう簡単には口を割ってくれないか。
なら、と、僕はさらにもう一石を投じてみることにした。
「……君らの事情ってのに、関係あるんだろ?」
間違いなく、これは好機だ。これを逃したら僕が彼らの本音に触れられるチャンスは、二度とないかもしれない。
痛むのは、わかる。僕も自分の後悔に触れられれば、同じような反応を示すだろう。
だけど、それを押してでも僕は彼から話を聞きたい、いや、聞かなければならない。
あともう少しで、何かが掴める。そのピースを、彼は確実に握っている。だからここは絶対に退くわけにはいかないのだ。
「……そんなに睨まないでくださいよ、在原センセー」
そこで榊は息を吐いた。そして、うつむいた拍子にほんの少しだけズレた眼鏡の位置を整えながら、観念したように言う。
「……歩きながら話しましょう。全部は無理ですが、彼らのことについて、ちょっとだけ」
そして僕らは、海沿いを行く。敢えて来た砂浜を戻らなかったのは、足を取られては敵わないからだ。
二重の足音が、黄昏の町に飲まれていく。僕と彼の間に空いた一歩分の距離は心の距離なのか、それとも、物理的に隔絶された不可視な境界なのか。
どうあれ、隣に並べないことだけは確かだった。
辺りに暗がりが這い出して、電灯が光の傘を差し始めた頃。ようやく、彼はぽつりぽつりと話し始めた。
「――あの二人、東と松前が部を訪れたのは、今年の三月頃のことです」
よく通る声。前を向いているのに、僕の耳にもはっきりと届いた。
「最初はビックリしました。訳あって、文芸部には部員が僕しかいなかったので、春になったら廃部にする予定だったんです。なのに、そこに学校の有名人がやってきたんですから」
「……有名人?」僕は間抜けに繰り返す。
「ええ、よく全校集会で賞状をもらっていたり、テレビ局が取材に来ていたり。僕のような日陰者でも、名前と顔くらいは知っていましたよ」
彼はその場で入部届を提出し――部の一員になったというわけだ。
「そりゃあ、おかしな話だな」
運動部の大スターが、一転して潰れかけの文化部に。僕自身が部活動というものにあまり関わらない高校生活を送っていたから何とも言えないが、それを置いても奇妙な出来事ではあると思う。
それだけの理由があったと、そういうことだろう。
「知り合ったばかりの彼は、誰に対してもあんな感じでした。もちろん、僕に対しても。まともに話ができるのは東くらいのもので、まあ、手を焼いたものです」
「東……か、あの二人はどういう関係なんだ?」
そういえば、松前は東の言うことなら比較的よく聞いているような気がする。
さっきも、入部の際は一緒に訪れたと言っていた。ならば、あの二人の関係は一体、どんなものなのだろうか。友人か、恋人か、それとも。
「幼馴染、だそうですよ。それと、東は剣道部のマネージャ―でもあったそうです。あの二人の間にある信頼の正体は、まさしくそれでしょう」
年季の違い。
彼らが共に歩んできた時間がどのくらいのものか僕は知らないが、傷を受けてなお、彼は東だけは信用している――ような気がする。
だから、すぐに僕と打ち解けた彼女が許せなかったのだろう。あの激昂の裏側が、ほんの少しだけ垣間見えた気がした。
「でも、わからないな。それとさっき言ってた裏切りってのが、どう繋がってくるんだ? 松前は怪我をして、部活を辞めたんじゃないのか……?」
岡田は言っていた。松前は肩を負傷していた時期がある。その時の怪我が原因で引退した、というのが一番筋が通る話だ。
「……そこまで知ってるなら、もう、答えは出たようなものでしょう」
榊は、それ以上を口にはしなかった。ただ、どこへ行くともしれない遊覧歩行を、当てもなく続けている。
もう、答えは出たようなもの?
剣士の命である左腕の怪我と、彼が受けた裏切り。
その二つを並べて、見比べて、ああ、もう、そんなことをしなくても、僕はなんとなく気づいてしまった。
いや、最初から気づいていたのかもしれない。少なくとも、常に頭の片隅にあった。けれど、余りに残酷で、救いのないそれが事実であるとは信じたくなかった。
だから、見て見ぬふりをしていたのだ。
けれど、もうこれ以外は考えられない。全部に辻褄を合わせるには、これしか残っていない。
考えうる限り最もおぞましい、最も苛烈な可能性、それはつまり――。
「まさか、松前の左腕は――」
「……さあ、どうでしょう」
遮るように言った榊は、それ以上は肯定も否定もしなかった。
ただ、黙して三歩先の曲がり角を右に折れる。僕もそれに続くと、すぐに見覚えのある道にが見えてきた。『赤レンズ』への帰路だ。
それは一方で、この会話が、彼から何かを聞き出すための時間が終わりを告げるということでもあった。
「……センセー。これ以上は、僕が語ることじゃありません」
この先を語る権利があるのは誰なのか。
もう既に、僕はその人物を知っている。問題は、そいつに相対するに足るだけの情報を、僕が持っているかだろう。
彼らのことを、知ることができたかどうか。恐らく、問われるのはそこだ。
失敗すれば、もう二度と彼らの心を開くことは叶わない。
そういう意味では、榊――彼は僕を試しているのかもしれない。期待に応えられる人間なのか。それとも、見捨てて逃げ出すのか。
どうなるのかは、僕にもわからない。ただ、ベストを尽くすことしかできない。
僕はそんなに器用じゃない。
生き方を選ぶことすらまともにできなかった、半端ものだ。
「わかったよ。後のことは、あいつに聞く。そうしなきゃ、いけないもんな」
これ以上、彼から聞き出すこともないだろう。どころか、十分すぎるくらいに彼は喋ってくれた。
いつの間にか暗色の包装がされた空に、引き裂いた跡のような薄い雲が漂っている。固定された空気は、しかしからりと乾いていて、それほど不快ではなかった。
そろそろ夕食の時間だ。松前は姿を見せるのだろうか。結局、東ともあれっきりだし、なんとなく気まずい。それに結局、関乃さんの手伝いもできなかったな、と、一段落した脳内に情報が満ちていく。
「……最後に、これだけは言わせてください」
榊は、そこで歩調を緩めた。それでも目を合わせようとしないその姿はいつかどこかで見た景色と重なるような気もしたが、それ以上思考を進めれば、僕は赤い靄に囚われてしまうことだろう。
だから僕はそれを、ほとんど受け身も取れないままで聞いた。
「――どうか、あいつに生きる理由を教えてやってください」
生きる、理由?
口内で反芻、しかし音になる前に、彼は言ってしまった。
まったく、東といい、言いたいことだけ言っていなくなる連中だ。ある意味では、退場が早いとも言える。役者ならば褒められたものなのだろうが、意味くらいはちゃんと説明してからにしてほしい。
けれどまあ。斯くして、僕は再び一人になった。
残されたのは、ねばつく口内の違和感と激しい喉の渇き、それと離島のように膨れ上がった藪蚊の痕くらいのものであったが、そのくせ、頭に残された無数のエラーメッセージが、嫌がらせのように電子音で警告し続ける。
ああ、と、首元をぬるい空気が撫でていく。加速した体は、しかし、終着点という意味ではあの少年と変わらず、だからこそ僕はじきに訪れることになるだろうその瞬間に備えて、踏みつぶしていた踵を、指で引っ張って起こしたのだった。
***
「……で、なんでうちの店先にいるのさ」
呆れたような黒木の声が頭上から降ってくる。同時に噛み砕いた氷菓の冷たさが歯に染み、遅れて甘みが押し寄せた。
午後八時過ぎ。町から人の熱が抜け、少しずつ粘性のまどろみが気配を濃くし始めた。都市部ならば今からが一番盛り上がる時間帯だろうが、主だった娯楽のないこの町では、夜になれば寝る以外にやることなどない。
黒木商店の前。昼間と全く同じ位置に腰かけながら、僕は棒アイスを齧っていた。喉を通る冷たさは火照った体を冷ましてくれるが、すぐに生ぬるい空気が額に汗を伝わせる。
半開きの扉にもたれるようにして顔を出した黒木に、僕はさも当たり前のように言った。
「考え事してるんだよ、考え事。物事を俯瞰して見るのはいつだって重要だ。そうだろ?」
「だからって、うちの前じゃなくても……っていうか、そのアイスどうしたのさ」
「試しに言ったら売ってくれた。優しそうなおばあさんじゃないか」
「……ばあちゃん、夜にモノ売っちゃダメって、あれほど言ったのに」
あーもう、と、髪を乱暴に掻きながら、黒木は諦めたように首を振った。
一応、彼女の疑問に答えておくとするのなら、僕だって意味もなくこの場所を訪れたわけではない。
夕食の席において僕の心配していたような事態は一つとして起こらなかった。松前はちゃんと姿を見せたし、東も昼のやり取りなどなかったかのように明るく振舞っていた。
第三者から見れば、僕らに心境の変化はなく。関係は昨日までと、出会ったその時と何ら変わっていないかのようにすら見えるだろうが。
一方で、僕は感じていた。
圧力。「このままかき回さず、恙なく終わらせろ」という、東三咲からの無言のㇷ゚レッシャー。
別に、屈したわけではない。ただ、このまま無計画に突っ込んでは前の二の舞だ。失敗は許されないのだから、もう少しだけ、考えを練る時間が欲しかった。
有り体に言えば、そう、僕は――。
「なるほどね」無言で氷菓を貪る僕の表情から何かを読み取ったのか、黒木は静かに頷いた。
扉をぴしゃりと閉めると、そのまま右隣に並ぶ。それは奇しくも、昼にここを訪れた時と、同じ位置関係だった。
「つまるところ、ユッキーは逃げてきたんだ。まったく、あたしのアドバイスは、役に立たなかったってことなのかな?」
「いや、そんなことない。たぶんだけど、ちょっとだけ先に進めた」
事態はあの時に比べれば、格段に進行している。
どころか、今から迎えることになるのは一つの山場だ。この後の趨勢を全て決めてしまうような、決して勢いでどうにかなることなどない、最終局面だ。
ただ、その前に息を整えられる場所を、ここ以外に知らなかった。それだけのことだ。
「ならよかったけどさ、そう言うわりには険しい顔してんじゃん。あたしはてっきり、こっそり奥瀬からいなくなるから車を出してくれとか、そういう話かと思ったよ」
「夜逃げにしたって、そんなかっこ悪いことを頼みに来るかよ……」
僕が険しい顔をしているのは、なんてことはない。最後のピースが見つからないもどかしさだ。
榊が最後に残した、「生きる理由を教えてやってくれ」という言葉。つまり、松前は今、生きる理由を見失ってしまっているということなのだ。
想像には難くない。もし、誰かの悪意によって、半生をかけて積み重ねてきたものが崩れ去ったとしたのなら、それは人生や日々の暮らしに対する張り合いを失ってしまうことになるだろう。
ただ、その代替を用意することなど、本当に可能なのだろうか。それも、彼らが滞在するほんの短い時間の間に。
「たぶん、駄目なんだ。あいつが求めてるのは、そんな薄っぺらなものじゃない」
僕は呟く。それは弱音のようにも聞こえるだろうが、そうじゃない。
その証拠に、僕はそのまま、思考を言葉に変える。
「剣道が駄目だから別のスポーツを勧めるとか、慰めるとか、そういうのじゃなくて、僕はもっと根っこから、あいつを救わなくちゃいけないのかもしれない」
「……でも、肝心のその子を救う方法がわかんない、ってことか」
「ああ。正直、皆目見当もつかない。一応、もう一人事情を知ってるだろうって奴がいるから、そいつに当たってみて、それからってことにも……」
否。
それこそ逃避。問題の棚上げだ。結局のところ、誰にもその答えがわかっていないからこそ、彼に手を出すことができないのだ。
それはきっと、彼が剣道界から姿を消したその日からずっと、彼に近しい人間たちが皆抱いてきたであろう無力感。そこに僕も直面している。
彼の胸に空いた虚。そこにピタリとはまる蓋を、探している。
もしかしたらそんなもの、ないのかもしれない。ある意味では禅問答的な命題に頭をひねる僕に、黒木は至極普段通りに微笑みかけた。
「なるほどね。ユッキー、そりゃあわかんないよ」
あっさりと言って、彼女は立ち上がる。
僕の懊悩も少年少女の悩みも、彼女にとっては大した重さじゃないのかもしれない。それはこの件の外にいるからとかそういうことじゃなくて、彼女自身のパーソナリティ。一種の才能だ。
深く考えなくていいこと、考えなくてもいいことを考えないことができるというだけで、人間はかくも奔放になれる。彼女はそれを体現しているようだ。
「どこまで行ってもあたしたちは違う生き物なんだよ。だから、幸せの形も違う。他人の幸せの形を想像することなんてそうそうできないよ」
「でも、僕もあいつも同じ人間だろ?」
「違う人間なんだよ、あたしらはさ。同じ形をしてたって、こんなに根っこが違う。あたしとあんたも、帷子さん夫婦も、うちのおばあちゃんだって違う生き物で、全員が一人ずつしかいないんだ」
「……その考え方は、なんだか寂しいな」
それじゃあ、誰もが独りぼっちだ。
群れたって、結んだって、僕らはあくまでも同種じゃない。同じ仲間の存在しない世界で生きていかなければならない。たった一人のままで。一個体のままで。
どこまで行っても、僕らは一人きり。
縁を千切って、独り切り。
「……あたしの友達が言ってたよ。『人と人とは分かり合えないから他人で、わからないから多様なんだ』ってさ」
僕が眉を寄せたのに気付いたのか、彼女は取り繕うように言った。
それは何でもない言葉だったが、何故か、その淵にほんの少しだけ、引っかかるものがあった。ささくれの正体を掴めないままで、僕はまだらの返答をする。
「また、その理屈っぽい友達の引用かよ、っていうか、僕もそれどっかで聞いたことあるぞ。もしかして、有名な人の言葉だったりするのか?」
どこで聞いたのだったか。
僕はそこまで本を読まないし、テレビも見ない。ラジオは少し聞くが、なんだかスピーカー越しに聞いたのではなかったような気がする。
真理を突くような顔をして、誰かの鳩尾を小突こうとするような、その偏屈で説教染みた言葉を僕は何故か知っている。
「ううん、違うよ。たぶんだけど、あの子のオリジナル。こういうので人を馬鹿にするのが好きな子だったから」
「だった、って?」僕は聞き返す。聞き返してしまう。
どうでもいいことのはずなのだ。黒木の友人の話なんて、わざわざ聞かなくてもいい。
なのに、僕は余計な好奇心を出してしまった。喉に刺さった小骨を深追いして傷を作るような、そんな感覚。
踏み込んでしまったと気づいたのは、彼女がキョトンとした表情になったときだろうか。それとも、最後まで気づかなかったのか。一度過ぎ去ってしまえば記憶は形を変えるから、この時の僕の思いを正しく読み解くことなんてのは、もうできないのかもしれない。
ただ、それは必然の出来事だった。起こるべくして起こった事故だった。
この奥瀬という地で、僕と同年代の、『赤レンズ』の近くに住んでいる女性。その友人の言葉に聞き覚えがあったという時点で、察してもよかったのに。
「遠くに行っちゃったんだよ、その子は。つい最近なんだけどね」
じわり。
視界の端に、赤が滲む。
後悔の気配が、饐えた臭いが、目の前を真っ暗に――否、真っ赤に染めていく。
指先が震え、冷や汗が噴き出す。けれど、暗さも相まってか、僕の異変は黒木には伝わっていないようだった。だから彼女は、喋るのを止めない。
やめて、くれない。
「帷子さんから聞いてないかな? ***の話――」
ああ。
その、名前は。
ぐらつく頭。頭痛がひどくなる。水。水が欲しい。
平衡を保てない。体を起こしていられない。猛烈な吐き気。皮膚の内側がめくれあがってしまいそうな寒気。ぐちゃぐちゃに混ざって、どろどろに溶けて、血が流れて、ああ。
血が、血が、血が、真っ赤に。
「ちょ、ユッキー? どうしたの、ねえ⁉」
誰かが、僕の体を揺すっている。けれど、もうその感覚も遠い。大気と体の境が曖昧だ。何もかもから輪郭が失われて、色彩だけが抽象画のようにぽつぽつと置かれている。
そして、その色までもが全部赤黒く塗り潰されてしまって、僕の顔を覗き込む誰かの顔がもう見えなくなってしまった、その後ろに、誰かが立っている。
いや、それだけじゃない。僕の傍らにも、空の上にも、かつて街頭だった光の下にも、それらは立っていた。何人も何人も、いくつもいくつも。
僕は。
それに、耐えられなくて。
『ネエ』影が口を開く。どれもが等しく、僕を責めるように。皮のない剥き出しの肉がひび割れるような、千切れるような音とともに、口元が三日月のように裂ける。
僕は反射的に耳を塞ごうとした。なのに、できない。血が通っていない。神経が通っていない。そう錯覚するほどに、冷たく、重い。
まるで――死人の腕のように。
だから僕はそれを、受け身も取れずになす術がないままで聞いた。
『イツマデソウシテ、イキテイルノ/ハヤク――ネバイイノニ』
落ちる。
落ちる。
深く、落ちていく。
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