四章「再試行順思考」

#1

 世界には大きく分けて二種類の人間がいる。

 己の選択を後悔する人間と、しない人間だ。

 人生が選択の連続である以上、僕らは自分がどっちに属するかに関係なく、選び続けなければならない。そして、その猶予はいつだって僅かな時間しか与えられないものだ。

 だから僕らは時に焦り、また時には大切なものを見誤って、足首までをその不快な泥濘に浸すことになる。そもそもが正しいか間違っているかの二元論であるならば、僕らは常に二分の一の運試しを強いられていることになる。

 世の中にはその結果がどうなろうと関係なく、あらゆる結末を許容できる人間もいるらしいが、僕は生憎にして、あるがままを受け入れられるほど強くはない。

「そうやって、君は自分の弱さを簡単に認めるけど、選ばないっていうのは間違えるよりもずっと愚かなことなんだよ」

 『あいつ』がそう言ったのは、まだ高校の頃の帰り道だった。

 話題は、確か進路について。元々美術の道に進むことを決めており、美大の受験を控えていた『あいつ』と違って、僕の進路は遅々として決まらなかった。

 いや、進学するつもりは毛頭なく、高卒で就職すること自体は前々から決めていたのだが、問題はその就職先だった。

 どこにも行けないわけではない。むしろ、それなりに良いところから声がかかっていた。大手の下請けだが、条件も金払いもよく、出世の道も開けるかもしれない。たかだか十八の世間知らずのガキには、過ぎた話だと思ったくらいだ。

 しかし、その道を選べば、僕は彼女と離れ離れになってしまう。遠距離恋愛など珍しくもないが、僕らの奇妙で心地いい関係が変わってしまうことは、どうにも避けられないような気がした。

 もちろん、そんなもの断ってしまえばいいだけなのだが、この企業から内定を受けられたのは様々な幸運が重なったからであり、ここを蹴って次が見つかる保証は、どこにもなかった。

 迷いに迷った僕は半ば思考停止気味に、彼女にその話を打ち明けた。『あいつ』なら合理的な答えを出してくれるような気がしたし、『あいつ』に決めてもらったことなら、どうあれ納得できると思ったからだ。

 だが、彼女から帰ってきたのは、先述の言葉だった。

 心なしか、不機嫌なようにすら見える彼女に置いていかれないようにと急きながら。いつもの帰路に、僕らの会話は続いていく。

「愚かなこと、って、あのな、僕は真面目に相談してるんだ。離れ離れになっちゃってもいいのかよ?」

 僕は苛立っていた、と思う。彼女に対する僕の感情が、軽く見られたように感じたからだろうか。それとも、大事な話をいつもの調子で誤魔化されたからだろうか。

 判ぜないまま、僕はなんとなく揺れる後ろ姿を見ていた。この頃の彼女は髪をとても短く――それもベリーショートと言っても差し支えないくらいに――切り揃えていて、どこか男性的な雰囲気すら感じさせていた。最初に見た時こそ、なんとなく違和感を覚えていた僕だったが、一週間もしないうちに、その横顔にも慣れてしまっていた。

 彼女からの返答があったのは、そこからさらに曲がり角を二つほど無視したあたりになってだった。足も止めず、振り向きもせず、いつも通りの歌うような調子だった。

「いいわけないじゃん。私だってヤだけどさ、その背中を押すようなことをするのはもっと嫌だよ」

「……別に僕は、背中を押してくれなんて」

 むしろ。

 引き留めてくれるのを待ってすらいる。「行かないで」と、一言言ってくれさえすれば僕は、どんなに眩しい将来からだって目を逸らすだろう。

 なのに、彼女は続ける。僕が間違え続けているかのように、二択を外し続けているかのように。

「言ってるんだよ、君は。そうでなくても、私に選択を委ねようとしてるでしょ」

「委ねようとしてるんじゃなくて、意見を聞きたいだけなんだよ。僕は本当にこれを選ぶのが正しいのか、本当はもっと、上手くやる方法があるんじゃないのかって――」

 そこまで口にして、ハッとした。

 僕はようやく、先ほどの彼女の言葉に追いついたのだ。

「……そう、そういうことだよ。君は間違えることを恐れてる。恐れてるから、逃げようとしてる、そして逃げるために、その決断を私に投げてるんだよ」

 そうすれば自分は傷つかないからね、と。

 彼女は僕の脆弱を、そう結論付けた。

 けれど。

 それでも僕は、その場で答えを選べるほどに強くはなかった。頼れる家族のいない僕と、田舎から出てきた彼女。ひとりとひとり。二人になるための決断をするにはまだ、僕は幼すぎた。

 もしかしたら、そんな僕を見かねたのかもしれない。ピタリと足を止めたそこは、もう、彼女のマンションに程近い曲がり角だった。

「今日は、ここまででいいよ」

 彼女はそう言って、僕を制した。それは傍目には遠慮とも取れるだろうが、僕には拒絶にしか見えなかった。

 嫌われてしまったのだろうか、と、狼狽える僕に、彼女はゆっくり振り返る。

「ね、幸輝。どうしたって後悔はしちゃうものなんだよ。選ばなかった、選べなかった片方は言いようもないくらいに眩しくて、そして、尊く見えるんだ」

「……それじゃあどうしたって、僕は救われないじゃないか。君だって、そんなのは――」

「私はいいよ。君がそうであるように、私だって君が決めたことなら遺存はないんだよ」

 それが、僕らの関係。

 僕らはあくまで、双方向。

 別れの挨拶はなかった。去っていく背中を見ながら、僕は考える。どうすればいいのか、どうすれば幸せになれるのか。

 どうすれば『あいつ』を、幸せにできるのか。

「……でも」

 答えはない。わかっている。全部が正解で、全部が間違いだ。だから重要なのは、僕の意思。定形の手触りなど求めるべくもない。

 見上げる。曇り空。季節の香りなど微塵もせず、代わりにどこからか流れてきた夕飯の臭いが僕の鼻を突く。宙ぶらりんの僕は、その日もまだ、吊るされたままだった。



 ***



「……なるほどな、事情はなんとなく分かったよ。道理で、お前んちに行っても留守にしてるわけだ」

 受話器の向こうで荒っぽい声の主――岡田は、納得するようにため息を吐いた。それはもしかしたら安堵によるものだったのかもしれないが、そう考えるのは、余りに都合がよすぎるだろう。

 彼と電話が繋がった直後、僕はとにかく謝りに謝り倒した。

 気遣ってくれた彼に対して、僕はあまりに酷いことをしてしまった。だから何をするにも、まずは謝罪しておかなければ気が済まなかったのだ。

 そんな僕に、岡田は「気にしてねえよ」と、実にあっさりとした返事をした。

「お前がどういう状況なのかはわかってるし、あの時は俺も一方的に意見を押し付けすぎた。だからあれはオアイコだよ」とは、彼の弁だ。

 一方的に悪意を押し付けたのは僕も同じであるのだが、そういうところをさっぱりと差し引きしてくれるのが、彼のいいところというべきか。

 とにかく、感謝しかない。僕は人の縁にだけは、本当に恵まれている。

 そんな彼に僕は、とりあえず今置かれている状況を話すことにしたのだ。今は奥瀬にいるということ。高校生たちの世話を頼まれたこと。そして、その彼らに心の距離を感じているということ。

 言えないことも、もちろんある。『あいつ』の遺した絵の話なんかはしなかったし、働いているのが『あいつ』の実家だということも伏せた。今、それを話題に出して、赤い後悔に倒れたりしたらたまったものではない。

「まったく、面白いことに巻き込まれてんな、お前。楽しそうで何よりだぜ。こっちは一人分の欠員を埋めるのに必死なのによ」

「ははは……それは、本当に悪いと思ってる」

「いいさ、お前が決めたことだしな――で、だ。急に電話を寄越したってことは、何か用があったんだろ? まさか、仲直りのためだけに連絡してくるほど、お前は殊勝なヤツじゃない」

 ああ、と、僕は苦笑した。

 彼は昔から察しがいい。昔から、と言っても僕らが出会ったのは就職してからだから、まだ数年の短い付き合いではあるのだが、どうあれ、話が早い。

 高校生の気持ちなんて俺にはわからないぜ――なんて冗談を言う彼に、一つの質問を投げかけることにした。

「……それじゃあ聞くけどさ、お前、松前将吾って奴、知ってるか?」

 ああ? と、聞き返してくる岡田に、僕はもう一度「松前将吾だよ」と繰り返した。

 言うまでもなく、彼が松前のことを知っている可能性は低いだろう。

 僕らが生活しているのとは違う町の、たった一人の高校生と、職場の同僚に面識があるなんて偶然は滅多に起こらない。人の縁という双曲線は、そんなに簡単には交わらない。

 ただ。

 滅多に起こらないというだけで、絶対に起こらないわけではない。

 少なくとも、可能性は平等だ。僕に膝をつかせるような理不尽な偶然もあれば、必ず一方で、運は味方してくれる。

 僕が見たネットの記事が正しいのであれば。

 今回、運命の天秤はこちらに傾いてくれるはずだ――。

「松前? あー、もしかして光代高校剣道部の松前か、それなら知ってるぜ」

 祈る僕とは対照的に、岡田はまるで流行りの芸能人か何かの話をするかのように、軽い調子で言った。

「ほ、本当か!」声が思わず裏返ってしまったのは仕方のないことだろう。僕だって何の根拠もなく彼を当たったわけではないが、それでも十分に分の悪い賭けだった。

「ああ、知らないわけないだろ、松前将吾って言えば、高校一年生にして去年のインターハイを征した、当代一の天才剣士だぜ?」

 彼の言葉は、僕が見つけた情報と寸分違わず同じものだった。

 松前将吾。

 あの四人の中で、彼だけはダントツに得られた情報量が多かった。

 ウェブニュースのインタビュー記事、まとめサイトの特集、朝の報道番組の切り抜きに、試合の動画まで。彼が剣道という分野で残してきたあらゆる足跡が、次々と出てきた。

 そして、その全てが彼を称賛していた。その苛烈な剣筋を、或いは人柄を。今の刺々しい彼からは想像できないが、テレビ局の取材に答える彼の姿は、今とは全く違っていた。

 短く刈られた黒髪、力強い眼差し。ピンと伸びた背筋と、高校生とは思えないほどに堂々としたその立ち姿は、まさに質実剛健、といった風情だ。

 そんな彼の活動記録は去年の冬を境にピタリと止んでしまっている。

 その理由が、僕にはわからなかった。調べれば調べるほど、彼はあらゆるものを持っているように思えた。少なくとも、画面の向こうで笑う彼の表情は、実に満たされたものだった。

 それがどうして、彼はあんな風にねじ曲がってしまったのか。

 その理由を、たぶん僕は知らなければいけない。

 そして彼なら――もしかすると。

「……まあ、剣道にこれっぽちも興味のないお前が、どうして急にそんなことを知ろうとしてるのかは聞かないけどよ。俺にも、詳しいことはわからねえ。あいつは急に姿を消したんだ。正直、詳しい事情は何にも知らないぞ」

 知らない。

 そうか、と、僕は心中の落胆を言葉に出さないように努めた。偶然は、そう何度も続かない。彼が松前のことを知っていただけでも十分に幸運だったのだ。

 それ以上は望むべくもない。やはり真相は、頭の中で推測するしかなさそうだ――。

「――ただ」

 諦めかけた僕の耳に、そう続ける声が聞こえてきた。

「たぶん、怪我だと思うぜ。一回だけ試合を見に来てた時に、左腕を吊ってるのが見えた。ありゃあ、肩だな」

 それは。

 まさしく僕が探していたピースの一つに違いなかった。

 つまり彼は、怪我で剣道ができなくなってしまい、それから荒れるようになったということだろうか。

「でも、待てよ。ネットで見たけど、松前は確か右利きだろ? 利き腕の怪我じゃなけりゃ、続けることはできるんじゃ……」

「馬鹿言えよ。竹刀は左手で振るもんだぜ。左腕を失っちまったら、もう今までのようには剣は振れねえよ」

 だとすれば、これが答えなのだろうか。

 彼にとって、剣道は全てだったのだろう。それが奪われて、残ったものと向き合うことができなかった。大切なものの喪失感に、抗うことができなかった。

 なるほど。今になって僕はようやく、秀昌さんが僕をこの町に呼んだ理由が、ほんの少しだけわかったような気がした。

 もし、この推測が正しいのであるならば、僕と彼は同じなのだ。僕も未だ、この胸の穴を埋めることはできていない。どころか、流出する赤色を抑えきれずに、このままでは崩れ落ちてしまうかもしれないのだ。

 相似。けれど、たぶん違う痛み。立ち直れていない僕がかけられる言葉など、そこにあるのだろうか?

「……おーい、幸輝、聞いてるか?」

 僕は思わずハッとした。まだ通話は続いている。

「あ、ああ。聞いてるよ、ごめんな。ちょっと、ボーッとしてた」

 考えるのは、とりあえず後回しにした方がよさそうだ。焦らずとも、まだ時間はある――はずだ。

 少なくとも、今晩くらいは。

 だから今は、この友人と話す時間を大切にするべきだ。

「まあ、いいけどさ。とにかくお前が元気そうでよかったよ。おやっさんも皆も、心配してるんだぜ。こっちに帰るのは、いつ頃になりそうなんだ?」

「あー、そうだな……」

 正直なことを言うと。

 もうあの街には、帰りたくないと思っている自分がいる。

この仕事が終われば、それはもちろん帰ることになるのだろうが、すぐに街を出るつもりでいた。あそこには、『あいつ』との思い出があまりに多すぎる。

 それに、あんな風に出てきてしまった溝浦製作所にも、もう戻ることはないだろう。それもまた逃避なのだろうが、少なくとも今の僕に、あの不義理を雪ぐことは、できそうにない。

 だからもし、これが再会の約束であるのなら、僕が彼に言わなければならない言葉は、決まっているような気がした。

「……全部に、決着がついたら、かな」

 この仕事も。

 自分の弱さも。

 『あいつ』のことも。

 何もかもが飲み込めるようになったらきっと、その時は。

「……そうか、そりゃあ、寂しくなるな」

 岡田は、すべてを察しているようだった。言葉の意味も、その裏も。

 彼の言う通りだ。僕がケリをつけるのには、きっと長い時間がかかる。もしかしたら、その間に摩耗して、僕と彼は二度と会うこともないのかもしれない。

 だから。

「……なあ、幸輝。一個だけ聞かせてくれよ」

 その続きを聞く必要は、なかった。

 僕も同じように、彼の言葉の先を察した。きっと彼は、あの時の会話をやり直したいのだろう。

 胸に残る、赤くない、もう一つの後悔。

 それを晴らすのに、確かに今は絶好の好機であるように思えた。今を逃せば、きっと僕はまた悔やむことになる。この胸の痛みを、一つ余計に抱えたまま生きていくことになる。

 それだけは、ご免だった。

「――ああ、お前は友人だよ。最高の、親友だ」

 返事は、満足したような「そうかよ」という一言だけだった。

 そして別れの言葉もなく、電話が切れる。それは奇妙なさよならだったのかもしれないが、僕らにはそれが合っているように思えた。

 スマートフォンをポケットに滑り込ませる。

心なしか、体が軽くなっているような気がした。荷物を一つ降ろしたからだろうか。それとも彼との会話が、いい気晴らしになったのか。

ともかく、松前についての手掛かりは手に入った。そして、これ以上の詳細を知りたいのなら、僕が話さなければならない人間は、もう決まっている。

あるいは、そのために僕が傷つく必要もあるのかもしれないが。

とりあえず一度、『赤レンズ』に戻ろうか。たぶんそろそろ関乃さんが夕食の準備をしているはずだ。手伝えることがあれば手伝いたいし、一度、頭を落ち着かせる必要もある。

よし、と、短く息を吐く。そして、茜色の屋根を目指して歩き出そうとして――。

「――ん?」

 視界の端に映った、見覚えのある人影に、足を止めた。

 そいつは、砂浜を海沿いに、歩いていた。そろそろ暗くなり始めているというのに、一体、何の用があるというのだろうか。

 僕はとりあえず、後をつけることにした。一応これでも監督役なのだから、何か危ないことをしているのなら、注意しなければならないだろうと、こんなのは後付けの建前。本音を言えば、大半を興味が占めていた。

 その人影は、砂浜の端まで歩いていくと、そのままゆっくりと堤防の階段を上がっていった。足音を殺しながら、僕もその後に続く。

 堤防の上には、僕が追っていたそいつとは別にもう一人、誰かがいた。先の方に座り込んで、海を眺めている。

「――いつまで、そうしているつもりなんだ?」

 手前の方の人影が、張りのある声を上げた。

 それを聞いてか、もう一人がゆっくりと立ち上がる。そして、その癖のある明るい髪をクシャクシャと掻いてから、苛立つように呻いた。

「あー……もう、何なんすか、本当。大人しくしてるんだから、いいんじゃないですか」

「大人しくとか、そういうことじゃない。お前の態度が問題なんだよ。いつまで在原先生に迷惑をかけるつもりなんだ?」

 不意に出てきた自分の名前に、思わずドキリとしてしまう。

 空気が、痛いほどに張り詰めているのを感じた。まさに一触即発というか、いつ二人が掴み合いを始めてもおかしくなさそうだ。

 向かい合う二人――松前と榊は、互いに睨み合ったまま、しばらく静止していた。それは十秒ほどだったかもしれないし、或いは数分にも及んだかもしれないが、その静寂を破ったのは、松前の方が早かった。

「……何が、在原センセーだよ。榊先輩、あんたも三咲も、おかしいんだよ。どうしてあんな人が信じられるんだ?」

「信じるも何も、今回の僕らの引率だからな。いつまでも子供っぽいことばかり言ってないで、言うことくらい聞いたらどうだ?」

「ヘッ、言うこと、言うことねえ。俺はただ、わかってるんだよ。あの人を信用したところで、どうせ――」

 それは、どこか自嘲染みているというか。

 自傷染みているような、口振りだった。


「――あの人も俺らを裏切るんだろ?」


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