#3


 黒木から品物を受け取った僕は、彼女と別れてまっすぐ『赤レンズ』に戻った。そして、台所にいた関乃さんに荷物を渡してから、またすぐに外出することにした。

そろそろ南中しようかという太陽が、過剰なくらいに輝いている。夕立の気配はどこにもなかった。はるか遠くに大きな入道雲は見えたが、洋上では仕方がない。

 僕が向かっていたのは、昨日とは真逆の方角だったほとんど当て勘だったが、数分もしないうちに、それは見えてきた。

 海岸。

 陽光に焼かれた黄色の砂が、視界の端までいっぱいに敷かれている。ほんの少しだけ視界を奥の方に伸ばせば、途端に深い青色が、そのまま空まで続いているように見えた。

「……意外と、近いところにあるんだな」

 呟いて、僕は砂浜へと続く石段をゆっくり降り始めた。海水浴のシーズンでないからか、それともここが辺鄙な場所だからなのか。判然としないが、あたりにはほとんど人気が無いようだった。だから、目当てのものはすぐに見つけることができた。

 茜色のパラソル。

 階段を降り切ったところから、程近いところに、それは突き立てられていた。聞いた話が正しければ、僕が探している人物は、ここにいるはずだった。

 さて、と、僕が決して、近づくよりも早く。

「あ、在原センセーじゃん! こっちこっちー!」

 パラソルの陰から飛び出してきたそいつは、明らかに過多な声量で僕にそう呼びかけた。おまけに、大きく手まで振っている。誰がどう見ても、馬鹿丸出しの姿だった。

「東……だから、センセーは勘弁してくれって」

 僕は誰か聞いている者がいないかと、辺りを確認しながら、彼女に歩み寄った。別に旅先で気にするような世間体もないのだが、そこはもう、社会人として身についてしまった、一種の防衛本能のようなものだ。

 東は朝見た時とは違い、薄手のTシャツと、髪色に近い配色のショートパンツを履いていた。足元のサンダルにはどこか見覚えがあるような気がしたが、たぶん、≪赤レンズ≫の玄関先に置いてあったものだろう。ビーチサンダル代わりとしてはいかがなものかとは思ったが、指摘することには意味がないように思えた。

「センセー、よく私たちがここにいるのわかったね」

「ああ、関乃さんに教えてもらったんだ。というか、私たちってことは――」

 言い終わる前に、東の背後からゆらり、と、這い出して来る影があった。

 中臣浅瀬。

 日差しに顔をしかめながら僕に会釈をしてきた彼女は、ほとんど東と同じような恰好をしていた、だが、ショートパンツの色だけが、対照的な寒色だった。

 彼女は一言も発さずに、すぐに日陰に引っ込んでしまった。もしかすると、こういうところはあまり得意じゃないのかもしれない。

「うん、見ての通り、浅瀬ちゃんも一緒だよ」

「……あんまり乗り気じゃなさそうに見えるが」

「私が、無理言って連れてきたんだよ。ここ、すっごい海綺麗だし、せっかくなら遊びに来なきゃ、勿体ないじゃん?」

 実に模範的なありがた迷惑だった。

 背後で眉間に皺を寄せながら、恨みがましい視線を向けている後輩の表情には気づいていないのだろう。感情に乏しい浅瀬の気持ちが、今だけはほんの少しわかるような気がした。

「というか、遊びに来たいなら、男子を誘ってやればいいだろ。わざわざ無理に浅瀬を連れ出さなくったって……」

 しかし、東は僕の言葉に、浮かない顔で首を振った。

「ダメダメ、ダメなんだよ、センセー。うちの男どもはみんなこういうの付き合ってくれないんだ」

「……そう、なのか?」

「うん、部長は根っからのインドア派で、今日もたぶん部屋で読書でもしてるんじゃないかな。将吾はあの調子だし、あいつは――」

 そこで、不意に口ごもった。珍しく暗い調子で「ごめん、忘れて」とだけ残した。

 あいつ――? 僕はそれを、聞き流してはいなかった。男子は榊と松前の二人しかいなかったはずだ。もしかすると、合宿に来ていないメンバーがいるのかもしれないが、それならそれで、別に隠すこともないだろうに。

 不自然に空いてしまった間。先に声を発したのは、東の方だった。

「ほ、ほら、そんなのはまあ、どうでもいいじゃん。それよりもセンセーはどうしてここに来たの?」

 明らかに取り繕うような話題の逸らし方だったが、追及してもいいことはなさそうだ。それに、僕には今、差し当たって解決しなければならない懸案がある。

「いや、な。その、お前らの事情について、何か聞かせてもらえないかと思って。結局、朝は中途半端な感じで終わっちゃったしな。それに、松前があんな調子だとほら……やりにくい、というか」

 自分の言葉選びの下手さに辟易しながら、僕はどうにかそこまでを言い切った。本当は関係を深めていく中で聞けるのが一番いいのだろうが、僕にはそれだけの時間もなければ、取り入るための話題や話術も持っていない。

 と、なればこういう風にストレートに聞くしかないのだろうが、松前に直接聞きに行っても教えてはくれないだろう。そうなれば、とりあえず身近で一番僕と関わってくれる彼女に聞くしかないように思えた。

 東は、しばらくの間僕のことを見つめていた。その後方、パラソルの中からも視線を感じる。正直、浅瀬がここにいたのは予想外だったが、それでも、適当に濁して立ち去るという選択はあり得なかった。

 大丈夫。なるようになるだけだ。

 言い聞かせながら、緊張に重みを増した生唾を飲み込む。長い間を置いて、ようやく東が、口を開いた。

「……最初に、聞いておきたいんだけどさ。センセーは本当に私たちのこと、知らない?」

 彼女が発したのは予想外の問いかけだった。

 知らないか、なんて、聞くまでもないだろう。僕らは昨日初めて顔を合わせたんだ。それに、秀昌さんだって、僕には何にも教えてはくれなかった。

「……知らないよ。実のところ僕も、そんなに多くを聞かされているわけじゃないんだ」

「そうじゃなくて、ほら、SNSとか、ニュースとか、新聞とかさ」

 ニュース? 新聞?

 どうにも、奇妙な話になってきた。彼女らは一体、何を抱えているのだろう。それこそ、報道されるような事件か何かに巻き込まれているのだろうか。

どうあれ、僕の知るところではないのだが。

「SNSはやってないし、新聞も取ってない。それにちょっと事情があってな、ここんところニュースもまともに見てないんだ」

「事情?」東は首を傾げた。

「まあ、気にしないでくれ。とにかく僕はお前らのことは一切知らない。だから何と言うか、話せる範囲でいいから、教えてくれないか」

 自分の内情を明かさずに、一方的に教えてくれというのは不誠実な気がしたが、生憎、僕の事情は彼女らの合宿には何ら影響しないものだ。言わなければいけない義理はない。

 それに、言えるはずもない。

 恋人が。

   『あいつ』が。

        死んで――。

「――ッ!」

 じわり。僅かに、視界に朱が差した。後悔が、またしても僕を絡めとろうとしている。これ以上は考えない方がよさそうだった。

「センセーどうしたの、大丈夫?」

「あ、ああ……ちょっと、暑さでな。心配ないさ」

「ならいいけど……ほら、水分とかちゃんと摂りなよ」

 手に持っていたペットボトルを押し付けてくる東に、僕はどうにか笑みを返した。強がりもいいところだったが、繕うことはできたようだ。

 腹筋に力を込め、体勢を立て直す。問題ない、体は何の支障もなく動いた。

 やはり、『あいつ』のことを少し考えるだけで、僕の心は後悔に沈んでしまうようだ。

 こいつらには悪いが、まだ僕の事情を話すことはできない。隠し事をするのは嫌だが、そもそも僕の事情なんてのはひどく個人的なものだ。関係のないことまで話す義理はないだろう。

 なんて、ぼんやりと考えながら。

「で、話してくれるのか?」

「……えーと、んー……」

 東は、まだ渋っているようだった。低く唸りながら、困ったように視線を右往左往させている。浅瀬に目を向けて助けを求めても、彼女はがらんどうの瞳で見つめ返すだけだ。

 このままでは、埒が明かない。だから、彼女から何とか情報を引き出そうと、会話を振る。

「全部話してくれとは言わないさ。ほんの少し、お前の知ってることを教えてくれたらそれでいいんだ」

「……でも、私」

 東は明らかに困惑し、そして、狼狽しているようだった。

 僕はほんの少しだけ、焦れてしまった。彼女は間違いなく、すべてを知っているはずだ。それを聞ければ、回りくどいこともしなくて済む。あれこれ考えなくて済む。

 なんて。

 思ってしまったから。

「なあ、頼むよ。別に生きるか死ぬかって話じゃないんだ。な?」

 口を滑らせた自覚はなかった。僕からすれば、それは自然に出てきた言葉だ。だから、僕は直後の変化の意味が、分からなかった。

 東の顔から。

 スッと、表情が消えた。

 能面のような、と形容するのが最も即しているだろう。

「お、おい、東?」

 そこまで機嫌を損ねるようなことを言ってしまっただろうか、と、僕が思い至る前に、もう、彼女は完全に変質してしまっていた。話を聞くどころか、これでは、僕から何か聞いてもらうのも難しいだろう。

「……どうして、在原さんが私に話を聞きにきたのかはわかんないけどさ」

 言うと同時に、先程まで友好に綻んでいた眼光が、どこか金属めいた鋭さを帯びた。

 先ほどまでの狼狽はどこへやら、彼女の相貌には、確かな怒りが滲んでいる。そして、僕に向けられているのはもう、まちがっても好意なんかじゃない。

 敵意。

 これはそう、呼ばれるものだ。

「私たちにも、譲れないことがあるんだよ。将吾だって、別に好きであんな風な態度をとってるんじゃないよ」

「…………じゃあ、何だって言うんだ?」

 僕の言葉も、思わず攻撃的なものになってしまう。

 譲れない、とは言われても、松前の行動は明らかに度を越している。彼女だってそれがわからない歳ではないだろう。

 別に礼儀を説くつもりはないが、僕だって聖人君子ではない。あんな態度を取られれば、多少は頭に来るというものだ。

 だから、この言葉のささくれは、ある意味では仕方のないことで。

 僕は少なくとも、その場はそうやって自分を納得させた。

「なにって、それは……」

 東は口ごもり、視線を逸らした。

 そんなに言いづらいことなのだろうか。僕はなにも、彼女らの敵だというわけではない。ただ、状況を正しく把握したいだけなのだ。

 一言、彼女が口を開いてくれたなら、もしかすると僕は、力になってあげられるかもしれない。

 多くは望んでいない。ただ、この数日の間、僕が任された仕事が円滑に進んでくれればいい。それだけなのだ。

 だが、東が最後に用意していたのは。

「……在原センセーにはきっと、『わかんない』よ」

 これ以上ないくらいに明確な、拒絶の言葉だった。

 ああ、そうだ。わからない。

 彼女らが何を抱えているのか、何を考えているのか。

 例えば、この一部始終を黙して見つめている浅瀬は、一体何を思っているのか。

 僕にはわからない。

 想像すらつかない。

 だから――駄目だっていうのか?

「……そんな、東。僕は――」

「いいよ、浅瀬ちゃん。行こっか」

 立ち尽くす僕を置いて、東は歩き出した。その後ろを、虚ろ目の少女は黙ってついていく。

 乾いた砂の上に、彼女らの小さい足跡が並んでいく。僕はそれを、呆けたまま見つめていた。

「在原センセー。ごめんね、仲良くなりたいとは思うけど、それでも、私たちがセンセーに望んでるのは、一個だけなんだ」

 最後に、彼女は言った。冷たい声。彼女からなら何か聞き出せるんじゃないかなんて考えていた僕は、甘かったのだと思い知らされるような。

 冷徹な。

 冷酷な、声。


「お願いだから、私たちをこれ以上傷つけないで。最後の日まで――静かに、放っておいて」

 

 その後を追うことは、できなかった



 ***



 僕が≪赤レンズ≫に戻ることにしたのは、正午過ぎから少ししてのことだった。

 東たちが残していったパラソルを担いで、再び奥瀬の街の中を行く。その足取りは、往路に比べて幾分重かった。

 まさか、あんなにハッキリと拒絶されるとは。

 少なからず、東や部長は僕にそこまで敵対的ではないと思っていた。真摯な姿勢を見せれば、事情を話してくれるだろうとも、あわよくば、松前との架け橋になってくれるかもしれないなんて期待していた。

 しかし、甘かったのだ。彼女らは彼女らで、殻に籠ってしまっている。取りつく島もない残り二人に比べればどうにかなるかもしれないが、それでも、簡単に片がつく話ではないのだろう。

 なら、どうするべきか。肩に負ったポールを弄びながら、僕は思考する。たぶん、時間にはそこまで余裕があるわけではない。

 僕の一言二言で変わるような心であれば、あんな風にひねくれることもなかったはずだ。もしかすると何度否定されてでも根気よく向き合う必要があるのかもしれない。

 どうあれ、このままではいけない。何か、打開策が必要だと思った。

「……とはいえ、か」

 今のところ、謎は深まるばかりだ。あと僕にできそうなことは、榊にも話を聞きに行くくらいか。しかし、彼にまで拒絶されてしまえば、解決するしないの前に、そもそもこの仕事を続けるのが難しくなりかねない。

 慎重になるべきなのか。それとも、多少はほとぼりが冷めるのを待つべきか

 東は放っておいてくれと言っていたが、そうする訳にはいかない。何かいい案はないかと、僕が丁度、≪赤レンズ≫の門の前まで戻ってきた時だった。

「お、在原くん。いいとこに来たな」

 鷹揚に手を上げながら、声をかけてきたのは秀昌さんだった。

 見れば、門柱の脇に止めた車に何かを運び込んでいる最中のようだった。そばに積まれた段ボールにはどれもこれも『絵空神社』と書かれた紙が貼り付けられている。

「秀昌さん、これは……?」

「ああ、『空想祭』が近いからよ。色々と準備が必要なんだ。在原くん、今暇なら手伝ってもらえねぇかい」

 そういえば、黒木が言っていた気がする。

 秀昌さんたちは『空想祭』が近くなると、仕事を任せられる。近所付き合いが希薄な町で暮らしていた僕には想像もつかないが、たぶん町内会とかそういった関係の中でやらなければならないのだろう。

 あの高校生たちを僕に任せた理由の一端も、もしかしたらそのあたりにあるのかもしれない。どうあれ、行き詰まってしまった僕が、気分転換をするにはあつらえ向きだ。

「はい、僕でよければ。これ、全部積みこんじゃっていいんですか?」

「ああ、あとは裏の納屋にも――」


 僕はパラソルを一旦門柱の陰に立てかけると、秀昌さんと一緒に作業に取り掛かった。

 荷物はどれもこれも大した重さではなかったが、ハイエースの後部座席まで積み込んでもまだ余りあるくらいに大量だった。

とりあえず詰めるだけの荷物を積み込んだ僕らは車に乗りこんで、一路、神社に向かうことになった。とはいっても、僕には場所がわからないので、助手席で呆けていることしかできないのだが。

「……なあ、在原くん」

 寒いくらいにクーラーの効いた車内で、先に口を開いたのは、秀昌さんだった。

「どうだい、調子はさ。あの子らとは上手くやっていけそうかい?」

 それは何気ない問いかけだったが、さっきの今では話が別だった。

思わず一瞬、答えに窮する。音割れのひどい車載スピーカーから聞こえてくる二十年は前の歌謡曲が、やけに耳障りだった。

「……ええ、まあ。一人言うことを聞いてくれない奴がいますが、何とか」

 咄嗟に口を突いたのは、嘘だった。

 上手くやっていける見通しは、未だについていない。何ならついさっき、こっぴどく拒絶されてきたばかりだ。

 微かに感じた胸の痛みは、良心の呵責か、はたまた、このまだらな心の防衛機構か。判ぜないままで、自然、拳に力が籠る。

結局のところ、僕が何を求められていて、何をすべきで、あの子らとどう関わっていくべきなのか。その辺りの答えは、流石に昨日今日では見えてきそうにもない。

 あるいは。

 この人ならばそれを、知っているのかもしれないが。

 ぐいん、と、横方向への重力を感じる。車がカーブに差し掛かったのだろう。傾いだ世界の中で、次に僕の耳に飛び込んできたのは、

「っくくく、はあーっはっはっはっはっは!!」

 呵々大笑。

 それも、車外に聞こえそうなほどの。

 ハンドルがおろそかにならないか心配になるほどに腹を抱えて笑いながら、秀昌さんは、僕に言った。

「在原くん、君は嘘が下手だなぁ! 顔見りゃわかるさ、どうすりゃいいのかわからないって顔だ。おおかた、あの中の誰かに馬鹿正直に突っ込んでいって、玉砕したんだろ。まったく、いい意味で馬鹿な奴だよな、君は」

 ドキリとした。

 まさしく、その通りだ。突っ込んでいって、玉砕。これ以上に正確な例えがあるだろうか。馬鹿だなんだと言われても仕方がない。

「……そんなに笑わなくたっていいじゃないですか。僕だってこれでも一応、精一杯にやってるつもりなんですから」

 ただ、あまりにゲラゲラと笑うもんだから、ほんの少しだけ苛立ってしまった。言い返すつもりはなかったのに、知らずのうちに、僕はそう投げ返していた。

「いや、すまんすまん。あまりに下手な隠し方をするもんだからつい、な。別に、君のやり方を否定する訳じゃあないさ」

「……いいですよ。自分でもわかってます。賢いやり方ではなかった。あの子らのことを考えるなら、もっと」

 もっと。

「もっと?」秀昌さんが続きを促してくる。

 が、僕にはそれ以上続けることができなかった。

 もっと、気を使って言葉を選んでいたら?

 もっと、時間をかけて話していたら?

 もっと、気に入られるように媚を売っていたら?

 違う。違う。違う。どれもが間違いだ。結局どうしたところで、あの場には致命的な失敗しか存在していなかった。ほんの少し展開をズラしたところで、僕には必ず拒絶の矛先が向けられただろう。

 なら、どうすればよかったんだ?

「わかんねえだろうな、君には」秀昌さんの声には、どこか悟ったような雰囲気があった。

「ひとつ、アドバイスしてやるよ。もしも君が本当にあの子らを変えたいんなら、上っ面の言葉じゃあダメだぜ。無様でもなんでも、君の思ったことを率直に伝えるんだ」

「僕の、思ったことを?」

「ああ、君が思ってるよりもあの子らは賢い、んでもって、捻くれちまってる。本気で届けたいなら、真っすぐで、衒いのない言葉にするんだ」

 そうすりゃ、響くかもな――と。

 秀昌さんはこともなげにそう言った。まるで冗談か何かでも話しているかのような、軽い口ぶりだった。

 衒いのない言葉。

 それを用意するのは、とても難しいような気がした。

 僕は自分を誤魔化して、自分に嘘を吐いて、それでどうにか、ここに立っている。赤い影に怯えながら、いつ切れるともしれない心の綱渡りをしている。

 輪郭はとうにぼやけ、距離感は薄れ、臨場感は遠のいた。そんな僕がいかにして、素直な言葉を用意すればいいのだろうか?

「ま、悩めばいいさ、時間はまだある。幸か不幸か、俺も君もまだ、生きてるんだからな――」

 最後の一言は、もしかするととんでもなく残酷な意味を帯びていたのかもしれないけれど。

 僕の頭に判ずるだけの容量はなく、傾く視界。景色はぐんぐんと斜面を登っていく。

 そして、訪れた無言の間が三百秒を数えようかという頃になって、不意に、秀昌さんは車を止めた。

「……おらよ、着いたぜ」

 秀昌さんが顎で指す先にあったのは、あちこちに苔の生した十数段ほどの石段――その上に聳え立つ、こんな山の中にあるとは思えないほど立派で、荘厳な雰囲気の漂う、巨大な鳥居だった。

 一応、ここが何なのかはネットで調べたから知っている。『奥瀬』と打ち込めば、検索エンジンの一番トップにこの場所の名前が出てくるはずだ。

 絵空神社。

 芸術の神を祀る神社であり、その筋ではそれなりに有名らしい。今でも著名な画家や彫刻家、それ以外にも多数のアーティストが参拝に訪れるとか。

 そして、何より、全国から送られてきたあらゆる芸術作品、およそ数千点が奉納されているともいう。そこまで神様の力にあやかろうという人間が多いのは意外な気もしたが、もしかするとそういった繊細なセンスを問われる世界に生きる者にとっては、神頼みも一つの心の支えなのかもしれないな、などと、ぼんやりと考えていた。

 彼が車を止めたのは、その少し手前にあるバス停の近くだった。あまりにも大胆な路上駐車にほんの少しだけ気が引けたが、そもそもほかに通る車もなし、バスは朝夕の二度とくれば、、咎める者もいないのだろう。

 ドアを開ける。と、同時に、夏の生ぬるい空気が一気に肌を包み込んだ。ねっとりと貼りつくような、人肌に近い温度の空気はひどく不快で、一瞬で、額に玉の汗が浮くのがわかった。

「荷物を運んでほしいのは、そっちの倉庫だ。俺はこのまま事務所の方に行っちまうからよ、後は頼んだぜ」

 車から降りた秀昌さんは、トランクの鍵を開けると、そのまま境内の方に歩いて行ってしまった。

 正直、車には決して少なくない量の荷物が積んである。一人で降ろすのは骨が折れそうだったが、呼び止める前に、彼はいなくなってしまった。

 去り際に石段の端にぽつりと置いていったスポーツドリンクのペットボトルが、白々しく汗をかいているのが見える。やるしかないか、と、僕は一つ目の荷物――『衣装』と書かれた張り紙のある段ボール箱――に手をかけた。

 そのまま、石段を登っていく。不思議と、荷の重さはそこまで感じなかった。そして、てっぺんが近づくにつれ、僕の肌にへばりつく不快な気温が一つ、また一つと手を放していく。

 そして、最後の一段。登り切って鳥居をくぐる。

「――――っ!」

 そこは、紛れもなく神域だった。

 信心深くなどない、津堂のいい時にしか神に祈らない、ある意味でこの国らしい宗教感しか持たない僕にもわかる、清らかな空気。

 清々しい風が境内の木々を揺らし、どことなく、心地良い自然の香りが漂ってくるような気さえする。あれだけ鬱陶しかった蝉の声も、今となっては怖いくらいにマッチしたBGMのようだ。

 ここが、絵空神社。

 空想(そらごと)を祀る、絵空事の神社――。

「――そして、すべてが始まった場所、かもよ」

 唐突に聞こえたその声に、僕は驚きのあまり危うく荷物を取り落としてしまうところだった。

 見れば、小さな影が一つ、僕の隣に並んでいる。短い黒髪に、白いワンピース。何より、そのすべてを見透かしたような超然とした瞳に、見覚えがあった。

「……ヒカゲ、だったか。どうしてこんなところにいるんだ、お前」

 ここは子供が一人で来られるような所じゃない。バスに乗れば別だろうが、朝のバスの時間からはもう数時間は経っている。まさか、この境内で時間を潰していたわけでもあるまい。

 困惑する僕に対して、彼女は以前と変わらず、冷静な様子だった。

「私はここにいるからここにいる、それだけだよ。ここだって、『日陰』なんだから。私がいたっておかしくはない、そうでしょ?」

 そういう彼女は、確かに僕の影の中にいる。僕の作った、ひとり分の日陰。

 それはあまりにも屁理屈が過ぎると思ったが、きっと追及するだけ無駄なのだろう。思えば、彼女と前に出会ったあのバス停も、広義で言えば日陰だったのかもしれないし、ある意味では筋が通っているのかもしれない。

 まあ、与太話だが。

「……はあ、もういいよ。それで、その日陰者が僕に何の用事なんだ?」

 僕は構わず、歩きながら言った。倉庫というのは、多分あの端の方にあるプレハブ小屋のことだろう。辺りに満ちる自然の気配と、それをかき分けるようにして存在する人工物の色合いは、輪郭の隙間をひどく際立たせている。

「用事? むしろあるのは、君の方なんじゃないかな?」

不思議そうに首を傾げてから、倉庫に辿り着くまでの数歩の間に、ヒカゲはさらに言葉を重ねた。

「助言か、否定か、それとも他力本願かな。どうあれ、君は現状の打開を願ってるね。自分の力でできることなんて、実はもうないんじゃないかと思ってる」

「……なんで、そんなことが言えるんだ?」

「言えるからだよ。私はそういう役回りだからね。今の君がドン詰まりにいることくらいはわかるよ」

 僕は頭を抱えたくなった。秀昌さんにしろ、ヒカゲにしろ、僕の表情を読むのが上手い。あるいは、僕が顔に出やすいタイプなのかもしれないが。

 だとすれば。

 僕はあの時。

 どんな顔をしていたのだろう。

「考えるだけ、無駄なんじゃないかな?」

 僕の思考の渦の中心を、その何気ない言葉が深く抉った。

 思考停止。確かにそれも選択肢の一つなのだ。僕がこれ以上考えたって、わからない、わかるはずがない。なぜなら、現状、あまりにも――。

「――足りない。情報が足りなさすぎる。そうでしょ?」

 そう言うヒカゲの瞳は、何もかも見透かすようだった。あるいは、本当に見透かしているのかもしれない。

 僕の浅い底など。

 僕の拙い知恵など。

 僕の矮小な臆心すらも、彼女は見抜いている――かもしれない。

「……だから、どうしろって言うんだよ」

 そうであったとしても、僕にできることなど、思いつかない。

 確かに、彼女の言うことは正しい。しかし、問題は肝心の彼らが心を閉ざしてしまっていることにある。

 東から情報を聞き出すことに失敗した今、その情報を集めることすらできないのだ。

「どうしたもこうしたもないよ。そんなに難しく考える必要はないんだよ。結局のところ人が人を知るというのは難しいことなのかもしれないけど、君はまずそれ以前に、最も簡単で、誰にだって思いつく方法を試していないんじゃないの?」

 誰にでも思いつく方法?

 言われても、今ひとつピンとこない。誰にでも思いつくことが僕に思いつかないというのは、つまるところ僕が欠陥品であるということの証左なのかもしれないが。

 知らないが。

「まあ、それはよくあることだと思うよ。自分の求めるものを潜在的に遠ざけて、ただ惰性で進めば辿り着けるはずの答えを見失ってしまうんだ。『そこに至るにはこんな簡単な方法じゃダメだ』と思ってしまうってことだね。文豪が手なりで書いた一文の意味を深読みしてしまったり、簡単な数式をわざと難しい解法で解いてみたり。そういう遠回りを、私たちは往々にしてしてしまうものなんだよ」

「……なんだか、ややこしいな。もっと簡単に言ってくれ」

 からかわれている、のだろうか。

 前にも思ったが、ヒカゲの言葉は的を射ない。意図的に核心から外しているのか、それとも、僕を悩ませて楽しんでいるのだろうか。

 秀昌さんも、関乃さんも、そして『あいつ』も。奥瀬の人間は物事を遠回りに言わないと気が済まないのだろうか。

 と、僕は半ば本気でそう思っていた。

 もちろん、苛立ちやストレスによって心がささくれ立っていたのもあるということは否定しないが、それでもたぶん今回も、はぐらかされて終わりなんだろうなと、どこかで思っていた。

 しかし、僕の予想は意外な形で裏切られることになる。

 こと今回に限って、ヒカゲは何故か、僕にわかりやすいように意味を噛み砕いてくれたのだ。それも、実に端的に、難しい解釈や裏を感じさせないほどスマートに、見方によってはにべもなく、或いは素っ気なさすら感じさせる調子で、彼女は僕の前に答えを提示した。

 曰くそれは――たった一言で。

 何よりも単純な、解決法だった。


「――ググってみたら?」




 ***



 物語の分岐点が、実に小さな分かれ道であることは珍しくない。

 それは偶然に支えられた些細なきっかけであることもあれば、無数に積み重ねた理論の中の、ほんの一行の見落としであったりもする。

 例えばそれが――最初に疑うべき、初歩の初歩的な知識であることも、ある。

「だからって、こんなことがあるのかよ……」

 大股で歩きながら、僕はぼやく。

 秀昌さんの手伝いを急ぎ足で終えた僕は、【赤レンズ】の前まで送ってもらうと、そのまま奥瀬の街に繰り出した。

 どこに行きたかったわけでもない。とにかく、これから先の僕の行動を、あの高校生たちに知られたくなかった。そこに合理的な理由はなく、強いて言うなら、気恥ずかしいから、だ。

 あの後、ヒカゲに言われるがままに、僕はスマートフォンの検索エンジンに彼らの名前を打ち込んだ。

 結論から言うならば、全員が全員、有益な情報が出てきたわけではなかった。世の中に同姓同名の人間などいくらでもいるだろうし、検索窓に入力するだけで何もかもがわかるような世界であるのならば、僕はここまで苦労しなかっただろう。

 それにしても、あまりに俗っぽく、なにより、愚かに思える行為だ。自分がスマートフォン離れできていたと考えれば、ある意味で喜ばしくもあるのだろうが。

 ともあれ、成果はあった。

 『これ』が何の役に立つのかはまだわからない。少なくとも、ここから彼らが歪んだ理由を見出すのは難しいのではないかと思う。

 僕がそんな風に彼のことを知った所で。

 彼の痛みに寄り添うことは、できない。

 それは、たぶん、僕の役目ではない。ならば、僕がすべきことはなんだろう。

 考えるうち、僕は再び、あの浜辺に戻ってきていた。もうそろそろ空にも夕暮れの気配が漂い、先ほど僕等がいた足跡も、どうやら消えてしまったようだ。

『難しく考える必要はないんだよ』日陰の少女の言葉が、胸に去来する。あの後すぐに、彼女は姿を消してしまった。どうせならもっと、相談に乗ってくれればいいのにとは思う。

 だが、そうしなかったということは、もしかすると僕が気付いていないだけで、方法はもう提示されているのだろうか。それこそ、ネットで検索するような手軽さで、僕はその答えを見つけられるのかもしれない。

 この先に進むことは、できる。

 その方法だけはわかっている。

 だから、【赤レンズ】から距離を取ったのだろう。『それ』をするのに、あいつと話すのに、僕は平静を保てる自信がない。

 もしかしたら、ここで折れてしまう可能性すらあるし、何より先を知ったところで、それが彼らを救い出すことには繋がらないかもしれない。半端な同情は、むしろ彼らにとっても邪魔になるんじゃないだろうか。

 スマートフォンの表面を指でなぞる。サイレントマナーの端末は、起動音すら発てなかった。そのまま二度三度続けて操作して、僕は一つの名前を見つける。

 たった四つ、漢字が並んでいるだけなのに、その名前は僕の心をきつく締めあげた。

今さら、どの面を下げてこいつと話せというのだろうか。僕は一度、彼を突き放している。それも、一方的に、自分勝手な理由で拒絶した。

 そもそも、もう話してくれさえしないかもしれない。今かけたところで、電話を取ってくれる保証すらもないのだ。

 だから――。

 だから……?

「……そうか、全部、言い訳だ」

 結局のところ、この指先を鈍らせているのは、僕のちっぽけなプライドなのだ。

 一言、謝ればいい。もう『ごめんなさい』が言えない歳でもないのだし、それでも許してくれないのなら、ひたすらに謝り続ければいい。

 僕は、覚悟を決めた。まだ時間も早いし、もし、彼が出なかったら、そうしたらこの覚悟が揺らいでしまうかもしれない。まだ時間も早い。その可能性は、十分にあった。

だから、もうほとんど祈るように。画面を撫でる指に、無意味なくらいに集中しながら。詰まりそうな息を深呼吸で吹き飛ばしてから、電話を耳に当てる。

血管を駆ける血液が、痛いくらいに加速している。跳ねた心臓が口から飛び出そうになったのは、たぶん、人生でこれが初めてだ。

コールが重なる。電子音が束なる。そしてそれが十を数えようとした、その時だった。


「おい、どうしたんだよ、幸輝‼」


 電話を取る音は、まるで頭蓋骨を剥がされるかのように鮮烈で。

 もう懐かしくすら感じる粗暴な声が、スピーカーの向こうから響いてきた。

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