三章「理想分岐点」
#1
『あいつ』は、いつも飄々としていて、滅多に感情を表に出さない人間だった。
それでも付き合っていれば、腹の中くらいは透いて見ることができる。僕らのコミュニケーションは、或いは恋愛は、そうして成り立っていた。
だからその日、声を荒げる彼女を目にしたとき、正直僕は、心の底から驚き、同時に恐怖したのだ。
高校を出て、一年目の冬だった。僕は溝裏製作所に、『あいつ』は美大にそれぞれ通うのも、もうすっかり慣れた頃だ。
いつも通り定時で退勤した僕は、岡田からの飲みの誘いを断り、コンビニで一本の缶コーヒーだけを購入して家路についていた。いつもと変わらない、何の変哲もない一日。
けれど、一つだけおかしなことがあった。
部屋の灯りが、点いていなかった。この時間、もう彼女は帰ってきているはずだ。どうしたのだろう、と、僕は錆だらけの階段を駆け上がった。ギシギシとあちこちから軋む音がして、ともすれば崩れてしまうのではないかと思うくらい、乱暴な足取りだった。
ドアの鍵を開けて、ノブを捻る。当然、電気は点いていなかった。どころか、暖房すらついていない。やっぱり、彼女はまだ帰ってきていないのだろうか、と、一歩、踏み入れて。
「あああああああああ! 違う!」
どこからともなく響いてきたその絶叫に、思わず足を止めた。いや、足だけじゃない。全身の筋肉が、その得体の知れない響きに慄いて停止した。
それは間違いなく、彼女の部屋から聞こえてきたものだった。何が起こったのか、なんて考える間も無く、僕は扉を開けて、飛び込んで。
そこにあったのは、変わり果てた風景だった。
まず目に飛び込んできたのは、真正面に置かれたカンバス。半ばまで色とりどりの絵の具が置かれたそれは、中央辺りを斜めに切り裂かれていた。それも、滑らかな切り口ではない。何かを突き刺して無理やりに引き裂いたような、乱暴な傷だ。
部屋の中もぐちゃぐちゃに荒れていた。画集や画材が無秩序に散乱している。元々、彼女は整理整頓が苦手だったが、さすがにここまでではなかった。
そんなことはどうでもいいのだ。彼女は、『あいつ』はどこへ行ったのか。首を巡らせた僕は、窓際に凭れるようにして沈むその姿を見つけることができた。
しかし、それは僕の知る『あいつ』とはかけ離れたものだった。濡れたような艶のあった黒髪は、一切の光を返さずにぼさぼさと散ってしまっている。滑らかだった肌はその色を失い、しかし、目だけは爛々と輝いていた。
まるで幽鬼のような。
生きながらにして死んでいるような、姿だった。
「おい、どうしたんだ。何があったんだよ!」
僕は叫んだ。大きな声を出して怯えを隠そうと必死だった。彼女がここ数日、作品に没頭しているのは知っていた。しかしまさか、こんな風に擦り切れるなんて、予想もできなかった。
彼女は乾いた唇を動かして、何事かを呟いた。余りに小さい、か細い声。聴き取ることはできなくて、僕はもう少しだけ、耳を寄せた。
「違う。私が描きたいのは、これじゃない……違うの」
うわごとのように繰り返す。それはどこか懺悔のようにも聞こえた。
しかし、僕にはわからなかった。どうして部屋が荒れていたのか。彼女が何を描こうとしていたのか。引き裂かれたカンバスがどうして許されなかったのか。
どうして、『あいつ』が震えていたのか。
僕には、わからなかった。
そして今も、わからない。
***
「じゃあ、初日のミーティングを始めようか。まずは、自己紹介からかな」
眼鏡を掛けた少年は、とりあえず、といった感じでそう言った。
『赤レンズ』二階、多目的室。板張りの床で、部屋の西側に設置されたホワイトボード以外はほとんど物の置いていないこの部屋は、しかし、それなりの広さがあった。
ボードの前に眼鏡の彼が立ち、それを囲むように他の三人が座っている。僕はそれを、部屋の隅から眺めているような構図だ。
夕食の支度をする、という関乃さんを手伝おうとしたところ、「君は彼らの面倒を見ていてくれないか」と言われ、僕はこの場に居ることになった。仕事の手伝いに来ているのに、夕食の準備の一つも手伝わずに大丈夫だろうか、と不安になる。
それに面倒をとは言われたが、彼らは高校生らしいし、僕があれこれ世話を焼く必要などないのではないかと思う。
どうしてこうなったのか。先生代わりと言われても、何をすればいいのか。頭の中の疑問符は、一向に数を減らしてくれなかった。
「はい、じゃあ、私からね!」
最初に手を挙げたのは、右端に座る少女だった。声の調子と雰囲気から、とても快活そうな印象を受ける。後ろで纏められた薄茶色の髪がよく似合っていた。
「私は
少女はすばやく起立して、にこやかに言った。通りのよい、張りのある声だ。ただ、一つだけ言うことがあるとするのなら。
「……よろしくな、東。早速だけど、そのセンセーってのは僕のことか?」
自分がセンセーと呼ばれるのは、なんだかおかしな気分だ。僕も今こそ成人してはいるが、つい数年前までは彼らと同じ高校生だったのだ。先生。とは僕にとって教卓の向こうに立っている存在で、自分とはかけ離れたものにしか思えない。
それに、僕は免許も持っていなければ、人に何かを教える者としてはおおよそ失格だ。なれて反面教師がいいとこだろう。そこまで考えてのセンセーなら、なるほど、皮肉が効いているが。
「うん、そうだよ。だって、私たちの先生代わりって言ってたでしょ?」東は不思議そうに、首を傾げながら言った。
「いや、それはほら。君らの監督役という意味であって……」
「まあ、いいじゃないですか」困り果てた僕と東の間に割り込んできたのは、眼鏡の彼だった。「僕らが勝手にそう呼ぶだけですし」
「そうは言ってもなあ、何か、むず痒いんだよ。えーっと……」
僕は彼の名を呼ぼうとして、詰まってしまった。確か玄関で名前は聞いていたはずなのだが、名前は聞いていたはずなのだが。
「
「そう、榊。お前、ある日突然高校生から『センセー』なんて呼ばれるようになったらなんとなく気恥ずかしいだろ?」
「……僕はまだ高校生ですから、その気持ちはあまりわかりませんが」
「……そうだったな」間抜けを晒してしまった。大人びた振る舞いと言動からか、話していると彼が高校生であるということを忘れそうになる。
「とりあえず、この話は一旦置いておこうか」
このまま話していても、僕があしらわれ続けるだけで、永遠に呼称を改めてもらうことはできないだろう。そこまでムキになる話でもない。とりあえず棚上げしておいてミーティングとやらを進めてもらわないと、夕食に間に合わなくなってしまいそうだ。
榊も、脱線しすぎていることに気がついたのか、一つ咳払いをして、真面目な表情に戻った。「そうですね、まだ、二人残ってますし」と言い、『残りの二人』の方に目を向ける。
鋭い目つきの、体格のいい少年。
どこまでも、がらんどうの眼の少女。
二人は、それでも口を開こうとはしなかった。
「君ら、いい加減にしないか」榊が僅かに語気を荒げる。「これから僕らは世話になるのに、その態度は何なんだ?」
少年は、その言葉に一層機嫌を悪くしたようで、眉間に皺を寄せた。
一方、少女はしばらくの間、そのどこを見るとも判ぜぬ視線を彷徨わせていたが、この気まずい沈黙の中に何かを見つけたのか、唐突にぴたり、とこちらに向けて。
「
こうして、いよいよ残るはひとりとなった。浅瀬を除いた僕らの視線が、全て彼の元へ集中する。
さすがにばつが悪かったのか、少年は舌打ちをしながら顔を背けた。しかし、すぐに何かを決めたかのように立ち上がって。
「俺は、嫌です」と、一言。
「嫌、って、どういうことだい?」榊が静かに訊く。
「だって、そうでしょう。何で俺らがこんな見ず知らずのおっさんに面倒見てもらわなきゃならないんです? そもそもこの人、信用できるんですか?」
「
東が、一歩前に進み出る。
「突然、どうしたの? 何かおかしいんじゃないの?」
「おかしいのは」彼は、他の部員を見回すようにして。「あんたらの方じゃねえんすか、いつからそんな風に簡単に、人を信じられるようになったんだよ」
「なあ、
「黙りませんよ、部長。だって俺らは、そういう集まりじゃないですか。どうせ、この合宿だって――」
『そういう』というのが何を指すのかはわからなかったが、ともかく彼は、そこで言葉を切った。しばらく、言葉に詰まったように榊を睨みつけてから、逃げるようにして部屋の出口に向かった。
「おい、どこに行くんだ?」
「……ちょっと、外歩いてくるんですよ。メシまでに戻れば、文句無いでしょ」
彼は、松前と呼ばれた少年は、そのまま扉の向こうに消えていった。引き留めようとしたのだろうか、伸ばされた東の腕が、行き場を失ってだらんと垂れる。
僕はその一部始終を、ただ呆然としたまま見ていた。どうして彼が激高したのか、あの意味ありげな発言はどういうことなのか、僕の理解は及ばない。
彼らの物語の速度に置いてけぼりにされた傍観者、それが、この時点での僕だった。
「……しょうがない、自己紹介は、また今度だね」
呆れたように言った榊の声が、彼がいなくなった分の空洞に響いて、虚しく。一日目、僕らの顔合わせは、考えうる限り最悪の形で終わったのであった。
***
「まあ、事情を詳しく話せなかったことは、悪りいと思ってるさ。でも、全部話したらここまで来ちゃあくれなかっただろ?」
秀昌さんは、ゆったりと清酒の満ちたグラスを傾けた。三分の一ほどの体積を失った液体は、その欠損を意にも介さないように揺れている。
あの後、言ったとおりに松前は夕食の直前に戻ってきた。しかし、食卓を囲んでいる間、一言も発することはなく、食べ終わると、そのまま自室に戻ってしまった。
彼のことは気にはなったが、その前に秀昌さんにはいくつも訊いておきたいことがあった。だから、僕は食後の晩酌を楽しむ彼を捕まえて、こうして話をすることにしたのだ。
「いや、確かにそうかもしれないんですが……」
騙された、とまでは言うつもりはない。けれど、要求されていることが普通の民宿の手伝いからかけ離れていることは確かだ。せめて、少しくらい説明してもらわなければ困る。
「あの子らは、俺の古い知り合いが受け持ってる生徒でよ」間に、一杯を挟んで。「ちょっと事情があって、息抜きをさせてやりたいって話でな。でも、この時期だろ? 高校生が合宿だ何だするには、まだ早い」
「……確かに、それは」
普通の学校ならまだこの時期には授業を行っているだろう。そして、今日は平日。合宿を行うタイミングとしてはどうもおかしい。
「なるほど、わかりました。ちなみにその事情ってのは」
「俺の口から言っていいもんじゃねえ。というより、たぶんあいつらと接してれば自然と見えてくるだろ」
「自然と?」僕は語尾を上げた。
「ああ、『センセー』として触れ合ってれば、そのうちな」
秀昌さんは、悪戯っぽく笑った。深く刻み込まれた皺とは裏腹に、その笑顔はまるで少年のようだった。豪快であるが、どことなく凄みのようなものを帯びた表情で、彼はまた、グラスをあおった。
「秀昌さんまで、やめて下さいよ。僕は先生なんて柄じゃない。そもそも、どうして僕に先生役なんて」
「何でだよ、俺はいいと思うぜ。在原センセー」
「……僕なんてのはただの工場勤めで、先生なんて呼ばれるような、できた人間じゃないんですよ」
僕は思わず、目を伏せた。あまり卑屈な発言はしないようにしようと思っていたが、堪え切れなかった。少しでも吐き出しておかなければ、肩に乗せた弱さに押し潰されそうだった。
秀昌さんはしばらくの間、咎めるように僕を見つめていた。気まずい沈黙。どこからともなく聞こえてくる波の音は、一瞥もなく通り過ぎていく。きっとこれが無関心というやつなのだろう。
「じゃあ、やめるかい?」底の方に僅かに残った液体が、グラスを揺らす動きに合わせてくるくると回転する。透明な渦を弄びながら、目の光がすうっと、鋭くなった。
「君が嫌なら、俺たちだって強制するようなことはしないさ。普通に掃除だとか、飯の準備だとか、手伝ってもらう仕事ならいくらでもある。何なら、そっちをやったって構わないんだ」
選べ。
僕には、彼がそう言っているように聞こえた。何を考えて僕に彼らを任せようとしているのか、皆目見当もつかない。ただ、ここの返事は軽い気持ちでしてはいけない。
ような、気がした。
「……いえ、やります」二十秒ほど迷った僕は、弱弱しく意志を示した。「僕にできるかは、わからないですが」
どうせ、他の仕事だって、僕は上手くできはしない。ならどちらを選んだところで大差ないだろう。それに、ここで断って明日以降の空気が悪くなるのに比べたら、幾分ましだろう。
秀昌さんはそれを訊いて、満足げに頷いた。鋭かった眼光は輝きを失い、元の柔和な目元が戻ってきている。
「そうか、いいんだよ。それでも」
とだけ呟くと、一升瓶をグラスに向けて傾けようとして、やめた。顔も赤くなっていたし、もうそれなりの量を飲んでいるのだろう。自制した、と言うことだろうか。
「世の教師どもなんてな、ろくに世間を見てきてねえ連中ばっかだ。勉強して、資格を取って、面接に通ればはい先生の時代だぜ。できたできねえなんて関係なく、俺らは君が適任だと、そう思った。それだけのことだよ」
酒が回っているのだろうか。いつもよりも幾分早い調子で秀昌さんは言った。
結局、どうして、に対する答えは返ってこなかった。
俺ら、ということは、関乃さんも僕のことを買ってくれているのだろうか。だとすれば、余計にわからない。僕のどこに、信用に足るだけの強さがあるのだろうか。
僕は腐ってしまっている。人として、これ以上ないほどに。そんな僕があの少年少女と共にいたところで、何ができるわけでもあるまいに。
「まあ、難しく考えんなよ。なるようにしか、なんねえのさ」
言いながら、秀昌さんは席を立った。まだ半分ほど入った一升瓶を掴んでいる辺り、今日の晩酌はここまで、ということなのだろう。キッチンの方に消えていく大きな背中を見送って、ひとり。
色々な音がいやに大きく聞こえる。遠くで聞こえる水の音はグラスを洗う音だろう。上の階から響いてくる規則正しい振動は誰かの足音で、もっと向こうではよくわからない鳥と虫の音が重なるようにして揺らめいている。
一人きりで座る食堂は、どうにも寂しかった。天井から下がる電球のほかに光源はなく、部屋の端の方は粘つくような闇の侵入を許している。薄ぼんやりとした境界の色は、僕の部屋で何度も見た青白さによく似ていた。
彼と話せば、少しはこの抱え込んだ疑問符も数を減らすのではないかと思った、しかし、実際にはさらに増えただけだ。
この奥瀬に来てからまだ一日と経っていないが、色々なことがありすぎた。さっさと寝て明日にしてしまった方がいいのかもしれない。生きている限り、僕らには嫌でも朝が来る。それがただの逃避でしかないことはわかっているが、だからと言って僕にどうしろというのだ。
ああ、もし。
もし彼女なら、こんな僕を見て、何と言うだろうか。
一瞬の思考、それも許さず滲み出た赤い靄をから逃げるように、僕はふらつく足で立ち上がった。許容量の限界の近い頭は、鉛でも詰まっているかのように重かった。
覚束ない足取りで、自室を目指す。とにかく今は、眠りたかった。眠ればまた、僕は夢の中で彼女に会えるだろう。そんな与太話すら、想像しただけで赤色は追ってくるのだが。
真っ暗な廊下。角を曲がって、月光の差し込む玄関は、ほんの少しだけ明るい。さっさと階段を上がろうとしていた僕は素通りしようとして、そこに人影を見つけて、足を止めた。
顔は見えなかった。けれど、背格好と髪型に、何となく消去法的に、僕にはそれが誰なのか、特定できた。
「……浅瀬、だっけ?」
僕の声に、小さな人影は振り返る。空っぽの瞳の少女。恐ろしいほどに真っ白な肌が、月の光に照らされて発光しているようにも見えた。
彼女は驚いたのか、僕のことを少しの間見つめていたが、すぐに興味を失ったようで、視線を外して歩き去ろうとした。僕は何となくそれを黙って見ていてはいけないような気がして。
「こんな時間に、どうしたんだ? もうそろそろ消灯だし、部屋に戻った方がいいぞ?」
自分の台詞があまりにも取ってつけた『先生』のようで、思わず苦笑しそうになる。しかし、浅瀬は無感動に僕を一瞥すると、何事もなかったかのようにこちらに向かってくる。
「……捜してた」
消え入りそうな声で、追い抜きざまにそう言って、彼女は階段を上がっていった。
捜してた、何を? 僕はまた頭を捻った。しかし今更わからないことが一つ増えたって、何も変わらないように思えた僕は、深く考えることもなく、彼女の後を追うように次の段に足を掛けた。そこから先には、もう阻むものは何もなかった。
青ざめた、物の少ない部屋。戻ってきた僕は、すぐに言いようのないほどの眠気に襲われた。まるで失血の死体のようにベッドに倒れこんだ僕は、それから幾ばくもしないうちに眠りに落ちた。
体に当たるスプリングの感触も遠く、すぐに意識を失った。
こうして、僕が奥瀬で過ごした長い長い最初の一日は、何もかもがあやふやなままで、幕を閉じたのだった。
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