#3
僕は蝉の声が嫌いだ。夏になるとそこかしこから聞こえてくるあの音は、体感の暑さを何倍にも膨れ上がらせる。夏の風物詩といえば聞こえはいいが、耳に合わない者にとってはただの騒音に他ならない。
一週間かそこらしかない命なら、もっと建設的に使えばいいのだ。好きに飲んで、遊んで、そして気の済むまで寝たらいい。もし人間が「来週お前は死ぬ」と伝えられたら、きっとそうするに違いない。もっとも、自分の遺伝子を残そうと必死になっている蝉のほうがその分、生というものに対して真面目であるということなのかもしれないが。
「……くだらないな」僕は立ち止まって、天を仰いだ。
関乃さんに案内されたのは、二階の奥のほうにある一室だった。客室ではないらしく、ベッドとちゃぶ台くらいしか物は無かったが、僕にはそれで十分なように思えた。
どうせ、ここで何をするわけでもないのだ。それに、長居をするわけでもない。仕事が終わったら、すぐに僕はまたあの町へと帰るのだから、最低限寝ることさえできれば構わない。
その後、荷解きも終わり一息ついた僕は、何か手伝えることがあるんじゃないかと、関乃さんの下に話を聞きに戻ることにした。
玄関で退屈そうに外を眺めていた彼女は、そんな僕に対して、
「ああ、今日はまだ仕事とかそういうのはいいよ。肝心のお客さんも着いてないしね。少し、町を見て回ってくるといい。帰ってくる頃には、うちのも戻ってきてるだろうし」
そう言われ、そのまま外に繰り出して、そして今に至る。
当然ながらこの町のことなどひとつとして知らない僕だ。折角だから黒木の家に行ってみようかとも思ったが、さっきの今でまた彼女に会いに行くのもどうかと思えた。例の絵が描かれたであろう場所を探す、というのも考えたが、日が暮れるまでに見つかるとは思えない。
結果、行くアテを失ってしまい、僕はふらふらと彷徨うことになった。手の中で、『赤レンズ』を出るときにもらった500ミリリットルのお茶が汗をかいている。いや、それともこれは僕の手汗なのか。もう判別も難しい。
しばらく、無心で歩く。右折すると、海沿いの道に出た。秀昌さんはこの辺りから僕にかけてきたのだろうかと考えながら、潮騒から遠ざかるように、元の道に戻る。あのまま進めば港に着きそうだったが、正直、行ったところですることもないだろう。
迷わないように、できるだけ太い道を選びながら、僕はあてどなく、町を行く。
「……それにしても、すごい所だよな」
奥瀬の町並みは、良く言えば古き良き、悪く言えば寂れた、という具合だ。都会育ちの僕でも、眺めているだけでありもしないノスタルジーが刺激される。錆の浮いた看板、もう何年も人が住んでいないのだろう、蔦が巻きついた廃屋。きっとこの街は、僕らの懐かしさの奥底にある時代から時が止まっているのだろう。
そんなことを考えながら、僕の散策は続く。ペットボトルの内容物が半分を切ったあたりで引き返そうかとも考えたが、それは何となくもったいない気がして、気づけば、港の対角の反対まで歩いていた。
覆いかぶさるように、斜面に沿って立っている木々。逢瀬は山に囲まれた土地、となれば、なるほど。海と反対の方向に歩いていれば、そのどれかに突き当たるということだろうか。
ということは、僕はこの短い時間で、この町をほとんど横断、または縦断したということになるのだろうか。我ながら馬鹿馬鹿しいことをするものだ。
相当な距離を歩いた。日ごろから運動不足気味な僕にとって、長時間のウォーキングはかなりの消耗になったらしい。端的に言えば、疲れた。どこかで一休みしようかと首を巡らせる。
すると、すぐそこにベンチが見えた。あつらえ向きにトタンの屋根もついている。どうしてこんな場所に、と、それも一瞬。手前に置いてあった看板を見て、すぐに合点が行った。
バス停。ここがそうか。当初の予定では奥瀬まではバスで行くつもりだったので、もしそうしていたなら、重い荷物を抱えてここから『赤レンズ』まで歩く羽目になっていたのだろう。そう考えると、黒木に玄関先まで送ってもらえたのは相当に運がよかったのだろう。
ともあれ、あそこなら落ち着いて一休みできそうだと、近づいてみると、そこには先客がいた。
小学校低学年くらいの、女の子だった。肩の辺りで切り揃えた短い黒髪。真っ白な丈の長いワンピースを着ていて、それはなんだか、さっき関乃さんが着ていたものに似ている気がしたが、女性の服に詳しくない僕だ、どれも同じものに見えてしまうからアテにならない。
少女は遠目、眠っているように見えた。ベンチの隅の方、屋根を支える柱に凭れるような形でまどろんでいる。もしかすると、バスを待っていて眠くなってしまったのかもしれない。
どうであれ、この炎天下だ。寝ている間に脱水症状になってしまった、なんてこともあるらしいから、このまま放置しておくのは危険だろう。
「おーい、そこの」声を張って、ゆっくりと距離を詰める。「こんなところで寝るなよな。お昼寝なら自分ん家でしろよー……」
と、軽口も交えながら一歩、二歩、
三歩。
で、目が開いた。
気だるそうに目元を擦った少女は、もうバス停のすぐ手前まで来ていた僕を見つけて、一瞬だけ驚いたように見開いた。そのまま自分の手や足に視線を這わせてから、安心したように、そうでなければうんざりしたように溜息を吐いた。
「よかった、変なことはされてないみたい」
人聞きの悪いことこの上なかった。
心配して近づいたのに。確かに、このくらいの年頃の子にしてみれば成人男性なんてのは恐怖の対象でしかないのかもしれないが、それにしても、ひどい言われようだった。
「はあ?」と、反射的に反応はしたものの、驚きのあまり続く言葉が出ない僕を、からかうように少女は笑った。
「うそうそ、冗談だよ。お兄さん、この町の人じゃないよね。こんなところで何してるの?」
僕は答えを用意する前に、とりあえず、少女の隣に腰を下ろした。今度こそ変質者扱いされてはたまらないので、人ひとりぶんくらいの間を空けて。
「何にもしてないのさ。何にもすることがないから、散歩してたんだ」
僕は素直にそう答えた。けれど、わかるように言ってやるつもりはなかった。どうせ相手は子供なのだ、適当にあしらってしまえばいい。
もっとも、正確に言うならばすることがない、ではなく、できることがないのかもしれないが。
「ふうん、大変なんだね、お兄さんもさ」少女は言ってから、右足に引っ掛けていたサンダルを振り飛ばした。小さな放物線。日向の真ん中に、ゴム製の二十センチが着地する。
弾かれたように立ち上がると、片足で器用に跳ねて自身も陽だまりへ。足の先で拾い上げて、今度はゆったりとした足取りで戻ってきた。
「君こそ、こんな所で何してたんだ? 今日は平日だろ、学校はどうしたんだ?」
僕の問いかけに、少女はばつが悪そうに目を逸らした。再び座りなおして、遠い目。そして、ぽつり。
「学校で学べることなんかよりも、大事な用があったんだよ」
「用?」僕は繰り返す。
「うん。ここで、待ってたの。何を待ってたのか忘れちゃったんだけど、確か、すごく大切なことだったんだ」
「どっちにしろ、当分バスは来ないんだろ?」
「バスは待ってないよ。ここからどこかにいく必要なんて、ないからね」
「ふーん、つまり、この辺りで遊ぶってことか。それならそっちで待ち合わせしたほうがよかったんじゃないのか?」
「ここじゃないといけないんだ。ここにじゃなきゃきっと、私はそれに会えないんだよ」
「それ? なんだ、誰かを待ってるわけじゃないのか?」
「うん、わからないけど、たぶん、私が待ってるのは運命だと思うんだよ」
どういうことだ? 首を捻った。最近の子は大人をからかうのが好きなのだろうか。形容しがたいそのズレに「変わった子だな」と結論をつけた。
そのまま、二人でしばらく呆ける。正面に見える民家の壁が、ゆらゆらと怯えるように揺らめいていた。陽炎。熱によって歪められた像が、侮るようにしてただそこに立っている。
「お兄さん」少女が言った。「あなたは、何かを探している人なんじゃないかな」
「……どうして、そう思うんだ?」
「そういう目をしているから。一度失ってしまったものを、どうにか取り返そうとしてる人の目」
胸に鋭く何かが差し込まれるような感覚があった。図星。こめかみの辺りが一気に冷えていく。どうしてこの少女は、そんなことがわかるのだろう。
「……随分、大人びた話し方をするんだな、お前」
僕が辛うじて搾り出せたのは、それだけだった。茶化すこともできない。ただ驚愕だけが、じんわりとした温度で残っている。
「そうかな、私は普通に話しているだけだよ」
少女は歌うように言った。そして、テンポを変えずにそのまま続ける。
「話し方なんて、人の一側面でしかないんだよ。あなたが大人びてるって言った私が、本当はすごく幼稚な性格かもしれない、でしょ? 捉えなきゃいけないことは、実は他にあったりするんだよ」
そこまでをまくし立てるように言って、彼女は席を立った。先程とは違って、炎天下に歩いていくその足取りに、戻ってくる気配は感じなかった。
「……おい、いいのか? 何か用事があったんじゃないのかよ」
僕の言葉に足を止める。そしてゆっくりと振り返りながら。
「いいの。たぶんこれ以上はどうしようもないからね。私が待っている時間は終わったんだ」
「終わった、って」
「タイムオーバー、なんだよ。或いは、ひとつのゴールなのかな? なんにせよ、ここがスタートであることは間違いないんだろうね」
どういうことなのか、僕にはほとんど理解できなかった。もしかしたら、またからかわれているだけなのかもしれない。
「私はヒカゲ――日向の裏の、薄っぺらな暗幕。またね、お兄さん」
ぐっ、と、ヒカゲは僕に顔を近づけた。本当に鼻の先まで。まるで、僕の瞳を覗きこむように。そこに何を見つけたのか、僕にはわからなかった。けれど一度だけ、満足そうに頷いてから踵を返した。そして今度こそ歩き出した。
振り返ることは、なかった。
ただ、呆然とした僕だけが、その場に残された。急いで追えば追いつくかもしれないが、これ以上あの少女と話したいことなど、残っていなかった。
ただ一人、バス待合のベンチで息をついた僕は、天井と空との境目を目でなぞりながら、ペットボトルを飲み干した。胸の辺りを流れていく生温い液体が、肺の奥までを冷やしていく。
彼女が待っていた運命とは、結局なんだったのだろうな、と、ぼんやり考えながら、僕は軋む古い背もたれに体を預けて、瞼を閉じた。
***
どこにいようと日はかならず暮れて、いつか夜がやってくる。
僕が『赤レンズ』に足を向けたのは、結局、日がだいぶ傾いてからのことだった。時間が経つにつれ、さすがの暑さも少しずつ和らぎ、心地よい風が吹くようになってきた。
途中、道に迷いそうになったが、『赤レンズ』の茜色の屋根は遠くからでもよく目立つ。それに、だいたいの方向は覚えていたので、僕はさしたる苦労もなく帰ってくることができた。
敷地に入ってすぐに、先程まではなかった車が一台、停まっているのが見えた。くすんだ白色のハイエース。さらに一歩近づくと、その傍らに人影が見えた。
大きな人だった。僕も決して身長が低いほうではないが、そんな僕でも胸くらいまでしか届かない。丸太のような手足。全身は隆々とした筋肉に覆われ、遠目に見てもすぐにわかるくらいの存在感を放っている。
その人はスマートフォンを眺めていたが、僕が接近しているのに気づくと顔を上げて、歯を見せながらにかっと笑った。人柄がにじみ出ているかのような大らかで明るい表情だった。
「よう、在原君。久しぶりだなあ、やっと戻ってきたかい」
声も、素振りも、何もかもがとても懐かしく見えた。最後に会ったのはほんの二週間前だ。『あいつ』がいなくなってから過ごした、永遠にも思えた二週間。けれどこの人のことを、僕が忘れるはずもなかった。
「お久しぶりです、秀昌さん」軽く頭を下げながら。「遅くなっちゃって申し訳ないです。ちょっと遠くまで行き過ぎちゃったみたいで」
僕の言葉に、秀昌さんは気持ち良いくらいの呵呵大笑で答えた。何がそんなに面白いのか、僕にはわからなかったが。
「いやいや、いいんだいいんだ。何よりじゃないか、思ったより元気そうで安心したぜ。それに、留守にしてたのは俺の方だしな」
「はい、それで――仕事のことなんですが」
この人が帰ってきているということは、つまりはそういうことだ。団体客。恐らくもう、到着しているのだろう。
秀昌さんは、まるで何かを試すように、その口角を数度引き上げた。そして、僕を真っ直ぐに見据えながら、勿体つけるような一呼吸を置いた。
「ああ、そうだな。仕事ってのはまあ、もしかするともう察してるかもしんねえけどよ、ウチでやってる民宿――『赤レンズ』の手伝いだ」
「手伝いって、つまりは接客とか掃除とか、ってことですよね」
僕はほとんど、当たり前のことを確かめるような調子で訊いた。そこに関しては疑う余地もないだろう。訊くまでもなかったのだが、それでも何となく、この人の前で確かめて起きたかったのだ。
しかし。
「いや、まあ、それも半分なんだが、君にゃ他に任せたいことがあってな」
意外にも、秀昌さんは首を振った。
「任せたいこと、ですか」
「ああ、うん、もうそろそろ頃合いだな。荷物を置いたら、玄関に集まるように言ってあるんだ」
着いてきな、と秀昌さんは踏み出した。慌てて追いかけたその背中は、当然かもしれないが、さっき見た関乃さんの背中よりも何倍も広く見えた。
そのまま僕は敷居を跨いで、横開きの扉をくぐる。オレンジ色に染まった室内に一瞬だけ、ピントがズレるような感覚があった。
そしてもう一度はっきりと像が結ばれたとき、僕の前には、見知らぬ四人組が立っていた。
半歩高い視点から見下ろすようにして向けられた、不振そうな視線が最初。次に、それを諌めるようにして睨みつける少女、穏やかな微笑をたたえる少年が順番に目に入る、そしてもう一人、その彼らの奥に隠れるようにして、小柄な影が見えた。
その四人は揃って学校の制服のようなものに身を包んでいる。背格好と雰囲気からして、高校生くらいの年頃だろうか。成人してからは随分と縁遠くなってしまったその服装は、それでもこの場所には合わないもののように思えた。
「よう、全員揃ってるな」秀昌さんが声を張る。先頭に立っている眼鏡をかけた少年が返事をして、それに合わせるように小さく頷いた。
「秀昌さん、これは?」僕は思わず問いかける。
「これはもなにも、お客様だ。光代高校文芸部ご一行様、だな」
僕は驚きを隠せなかった。客というのは高校生のことだったのか。夏休みでもなんでもない今の時期に、どうして。疑問は浮かんだが、今それを追求する意味は無いように思えた。
大切なのは『仕事』の内容だ。秀昌さんは、僕に何をさせようとしているのだろうか。皆目、検討もつかない。
秀昌さんは、全ての視線が僕に集まったのを確認してから、ゆっくりと、口を開いた。
「こちらが、さっきも話した在原君。君らの――」
それと、ほとんど同時だった。
僕の正面、鋭く僕を睨みつけてくる少年の体が、ほんの少しだけ揺らいだ。それはただ単に重心を動かしただけなのか、それとも、僕を威圧しようと首を傾けた際に起こってしまったブレなのか。判別はつかないが、ともかく彼は揺らいで、その背後にいるもう一人と、僕の両目が一直線に結ばれる。
後ろに隠れていたそいつは、前に立つ三人よりも幾分幼く見えた。背が低いだけでなく体も細い。何だか、透き通った脆い結晶のような少女だった。
そして、
その、
瞳が。
「――――っ!」
背中を冷たい感覚が登っていく。思わず呼吸は短く途切れ、それでもきっと堪えきれずに瞼は見開かれたに違いない。
恐ろしさ。間違いなくそうだった。取り返しのつかない何かを覗き込んでしまったような、底なしの恐怖。
だってそうだろう。少女の瞳は僕が見たこともないくらい、空っぽで、虚ろで――、
自覚する。ああ、そうか。僕はこの目と対峙しなければならないのだ。このがらんどうの瞳を持つ少女と向き合わなければならないのだ。
そうして罪を雪がなければ、ならないのだ。
「君らの――先生代わりになる男だ」
静かに続けた秀昌さんの声が、陽光に煤けた世界にゆっくりと響いて、染みていく。
これが僕と彼らの出会い。そして僕の人生で一番長い、夏を待つ日々の始まり
歯車が動き出す音。
この時を以て、完全に停止していた僕の物語は再起動したのだった。
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