#2

「はあ? 部長、そりゃあどういうことなんすか」

 電話から戻った僕に詰め寄るように言ってきたのは、二年生の松前だった。そんなに怒るような口調で言われたって、僕だってさっき聞いたばかりなのだが、文句よりも先に言わなければならないことがある。

「うん」僕は勤めて冷静に振舞いながら、電話の内容を頭の中で要約する。「先生はどうやら、向こうの処理が忙しいらしい。学校にも結構無理してハナシ通したらしいし仕方ないよ」

 言って、とりあえず反応をうかがう。僕らは全員で四人。松前は未だに不服そうな顔をしているが、後の二人は大人しく頷いている。

 部活動の合宿。ある理由で今の時期に行うことにした僕たちは、電車を乗り継いで、とある町まで来ていた。本来の目的地はここからバスで数十分ほど行ったところなのだが、その前にここで、遅れてくる顧問の先生を待つということになっていた。

 しかし、どうやら事は計画通りには運ばなかったらしい。

 合宿、といえば聞こえはいいが、実際はそんな能天気なものではない。それに、僕らはここで――、

「ねえ、部長。じゃあ私たち、これからどうするの?」

不安げに聞いてきたのは、同じく二年生のあずまだった。彼女のほんのりと茶色に染まった前髪の向こう、大きな瞳が頼りなさげに揺れている。

 無理もない、僕らはただの高校生だ。大人の力無しに、勝手なことをする事はできない。いや、できなくはないだろうが、その行動に対して責任を取ることができない。

 僕らはまだ、悪い意味で子供なのだから。

「一応、現地の人が監督役としてついていてくれるらしい。僕もよくわからないけど……」

「はっ、現地の人、ね。大方よぼよぼのじいさんか、偏屈なおっさんなんだろ」

 松前の声は、どこか嘲るようでもあった。彼はすぐにこうやって、周りに突っかかっていこうとする。

「ちょっと、将吾しょうご、その言い方はないでしょ。面倒見てもらえるだけでありがたいんだから、変なこと言わないでよね」

 子供を叱るように、東が彼を諌める。いつも通りの光景だ。松前も彼女には強く出られないらしく、不満そうな顔ではあったが、大人しく引き下がってくれた。何とか場が落ち着きを取り戻したことを確認してから、僕は声を張った。

「じゃあ、とりあえずこのまま、僕らは合宿先に行くことにしよう。次のバスまで結構時間があるから、こっちで昼食を摂ってから出発だ」

 返事とともに頷く二人。けれどそれでは、一つ足りない。僕は応答のなかったもう一人に歩み寄って、できるだけ柔らかい声色で尋ねる。

「……浅瀬あさせも、それでいいかな?」

 もう一人、東の半歩後ろに隠れるように立っていた少女は、僕の言葉に静かに頷いた。その瞳からは相変わらず何かを汲み取ることはできそうになかったが、一応、承諾はしてくれたのだろう。

「じゃあ、とりあえずどこか入れる店を探そうか。食べたいものとかある?」

 ここは駅前だ。いささか寂れてはいるが、飲食店の一つや二つ、見つけることはできるだろう。とりあえず先生のことについては、そこで落ち着いてから考えればいい。この厳しい夏の暑さの中で話し合ったって、考えはまとまらないだろう。

 そういえば、最後に雨が降ったのはいつだっただろうか。一雨来てくれたら涼しくなるのにな、なんてくだらないことを考えながら、僕らはアテもなく、歩き出すことにした。


***


 黒木が車を止めたのは、山道を抜けて二十分ほどしてからだった。下りに差し掛かってからの彼女の運転は輪をかけて荒くなり、奥瀬の町に入った頃には景色を見ている余裕など殆ど残っておらず、半ば死体のように脱力した状態でシートに収まっていた。

「着いたよ、ここでしょ?」彼女の言葉でようやく目的地に着いたことに気づいた僕は、重たくなった頭を持ち上げて、窓の外に目をやった。

 まず目に入ってきたのは、鮮やかな茜色の屋根だった。年季の入った三階建ての木造建築。両開きの大きな玄関は開け放たれていて、海から流れてきた潮風が爽やかに吹き抜けていきそうだ。

 初めて来る場所なのに、どこか懐かしいような、不思議な気分になる。ここが。

「赤レンズ、か」

 『あいつ』の実家。まさか本人がいなくなってから来ることになるとは思わなかった。一瞬、赤い後悔に視界を覆われるのではないかと身構えたが、意外にも、あの忌々しい靄はなりを潜めていた。

 そのことに安堵した僕は、「うん、ありがとう。たぶんここで……合ってると思う」と、我ながら情けない声で言ってから、シートベルトを外した。そのまま扉を開けて車外に出る。それまで忘れていた強烈な日光が頭のてっぺんを焼くような暑さが、僕に向かって一斉に降り注いでくる。

 少しだけ遅れて降りてきた黒木も、僕と同じようなことを思っているのだろう。まぶしそうに目を細めている。僕は途端に噴き出してきた汗を拭いながら、トランクから荷物を降ろした。

「ユッキー、こっちにはどのくらいいる予定なの?」手馴れた様子でトランクを閉めながら、黒木が訊いてきた。

「一応、六月いっぱいの予定かな。七月の一日には帰る予定だよ」

「そっか、じゃあ、『空想祭』まではいるんだね。あたしんち、すぐそこだからさ。よかったら今度、飲みにでも行こうよ」

 僕は「今度な」と返しながら、ボストンバックを担ぎ上げた。数日分の衣服しか入っていないはずのそれは、中身とは不釣合いなくらいに重く感じた。

 軽く手を振って、再び車に乗り込む彼女を見送る。黒いミニバンは本当に一本だけ先の曲がり角を右に折れて、やがてエンジン音すら聞こえなくなった。代わりに、『赤レンズ』の広い庭に植えられた何本もの広葉樹が、まるで歌うようにさざめいている。

 『あいつ』の、生まれた家。

 僕が彼女と出会ったのは、高校に進学してからだ。だから、その前のことはあまり知らない。おしゃべりだった『あいつ』は、故郷のことに関しては何故か多くを語ろうとしなかった。

 だからか、とても不思議な気分になる。僕と出会う前の『あいつ』は、たしかにここにいたのだ。ここにいて、確かに生きていたのだ。

 もしかして、このままあの玄関から名前を呼んだら、その頃の『あいつ』がひょっこりと顔を出したりしないだろうか――と、そこまで考えて。

「うっ…………」

 ずきん。

頭の奥に疼きに似た、それでいて眼下までを貫くような痛みが走る。それを合図にしたかのように、視界に漂い始める靄。真っ赤な、あの日の後悔。

横合いで、どすん、と重い音がした。肩から鞄が滑り落ちた音だろう。急激に重くなっていく頭に耐え切れず、僕は膝をつく。とにかく必死に手のひらを額に押し付けて、脈動を抑えようとした。

 しまった。どうやら無駄なことを考えすぎたらしい。体表を湿らせていた汗が、急に冷たく、さらにその粘度を増していく。心拍が加速し、心臓が存在の主張を始めた。僕は大きく意識的に吸って、吐いて。どうにか痛みを鎮めようとする。

 吸って。

 吐いて。

 少しずつ、赤色は消えていく。呼気に乗って排出されているかのように、だんだん薄くなっていく。薄くなって、頭部の重量も正常に近づいて、僕はどうにか、立ち上がろうとした。

 した、ところで、目が合った。

 誰と? 僕には一瞬、それが誰なのかわからなかった。腰ほどまである、長くて艶のある黒髪。水色のシンプルなワンピースの上から、何故か真っ白な白衣のようなものを羽織っている。そして、ようやくその顔立ちまでを認識したところで、僕の記憶に、ふわりと波紋が浮いた。

「あれ、うちの前で蹲ってるのは誰かと思って見に来たら、見知った顔じゃないか。どうしたんだい。暑さにでもやられたのかい?」

 そして声を聞いてようやく、僕のおぼろげな記憶が像を成した。

「…………関乃せきのさん」僕がそう呼ぶと、彼女は小さく微笑んだ。その表情は、『あいつ』にそっくりだ。

 それもそうだろう。関乃さんは『あいつ』の母親だ。最後に見たときは真っ黒な喪服姿だったし、髪も結っていた。一目で気づけなかったのは、そのためだろうか。

「やあ、久しぶりだね、在原くん。早かったじゃないか。近くまで来てるなら、連絡くらいしてくれてもいいだろうに」

 眼鏡の奥の切れ長の瞳が、僕を見据えている。彼女と会うのはこれで二度目だが、最初は信じられなかった。僕の倍以上の年月を生きているとは思えない肌の張り。もしかしたら僕と同い年くらいだと言っても通るんじゃないかというほどの若々しさだ。

「すみません」僕は緊張を隠すために、声の震えを抑えながら「ちょっと、いろいろありまして……」

「まあ、無事に着けたんだから構わないさ。いや、無事じゃあないか。大丈夫かい? さっきは随分と辛そうにしてたけど」

「大丈夫……じゃないですね。あんまり。関乃さんの言うとおり、もしかしたら暑さにやられたのかもしれません。ここのところ、随分と暑いですし」

「空梅雨、だものね。本当に……」その後に続けて何かを言ったようだったが、僕には聞き取れなかった。何となく聞き直すのも憚られたし、先程まで蹲っていた理由も何となく話したくなかったので、適当なところでお茶を濁して、話題を変えることにした。

「そういえば、秀昌さんはどこですか?」

「ああ、それが、ついさっき出て行ったところでね。何でも、急にお客さんを迎えに行くことになったらしい」

「お客さん?」言ってから、そうか、と合点がいく。例の団体客というやつだろう。

「うん、今日から『空想祭』の終わりまでの予約でね――普段、この時期にお客さんは取っていないから、人手が足りなくてね。急遽、君に来てもらうことにしたんだ」

 どうやら黒木から聞いた通りのようだった。しかし、だとすると、どうして――、

「――どうして普段は取ってないのに、今年はお客さんを取ったんですか?」

 言ってから、しまった、と思った。しかし、時既に遅し。一度吐いてしまった台詞は拾えない。そんなこと訊くつもりはなかったのに、思わず口が滑ってしまった。

 関乃さんは、一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、すぐにシニカルな笑みを浮かべた。

「なあに、深い意味は無いよ。ただ、必要だったのさ」

 必要? 意味深な言い回しに、先程まで必死に抑えていた好奇心が、一気に得票数を伸ばした。どういうことだろうか。疑問が胸の中で形になり、言葉に姿を変え、喉を伝っていこうとした。

 したまま、その先には接げなかった。

「ほら、ほら。そんなことはいいだろう。それよりも、君の体のほうが大切だ。早く中で涼むといい。生憎と気の利いたものは用意していないが、冷たい麦茶くらいならすぐに出せるよ」

 関乃さんはそう言うと、そのまま庭の向こう側へと歩いていってしまった。口を開けた扉の間に吸い込まれるようにして、その向こうに消えていく。

 僕は落としてしまったバックを担ぎなおして、僕はその後を追った。建物に近づくにつれて徐々に木の匂いが濃くなっていって、軒の手前まで来たところで、さらにいっそう強く香った。僕に建材についての知識はないが、木造独特の暖かい気配が、嗅覚に訴えかけるような形で、確かにそこに存在していた。

 僕はさらに一歩進んで、そのまま、玄関をくぐった。陽光をさえぎる天井のおかげか、途端に心地よい涼風が肌を撫でた。不思議と、汗が引いていくような気さえする。

 『赤レンズ』。

 外見からのイメージと違わず、落ち着いた内装となっていた。壁際に置かれた大きな靴箱と、三和土に敷かれたすのこ。端のほうには太い字で『赤レンズ』と書かれたサンダルが並べられていて、何となくかくあるべき田舎の宿泊施設、と言う感じがする。

「ようこそ、『赤レンズ』へ。歓迎するよ、在原くん」

 関乃さんは先程よりもほんの少しだけ高い視点から、そう言った。すぐに靴を脱いで、僕もそれに並ぶ。

「あれ、君は少し背が伸びたかい?」

「つい二週間前に会ったばかりじゃないですか。そんなすぐには変わりませんよ」

 それにもう、成長期はとっくに終わっている。身長など、『あいつ』と出会った頃からほとんど変わっていない。

「そうでもないさ」関乃さんは目を細めながら言った、「あの時の君は、ずっと下ばかり向いていたからね。今も幾分猫背みたいだけど、それでも、ここまで来られただけ、前を向いているだけまだマシだ」

 いや、と。、僕は心の中で首を振った。前など向けてはいない。僕はずっと、あの日に囚われている。それに、ここまで来られたのは『あいつ』の遺してくれた絵があったからだ。

 なのに、関乃さんは続ける。

「どうだい、あれから少しは立ち直れたかい?」

 どくん。

 心臓が、一際高く跳ねた。胸の辺りの血流が加速して、痛いくらいだ。

 何と答えるのが正解なのだろう。正直に、今もずっと蹲ったままでいると言うべきなのか。それとも、嘘を吐いてでも立ち直っていると伝えるべきなのか。

 思案。一瞬の間に、僕は何十倍にも思考を凝縮して、そして、

「まあ、それなりには。それこそ、ここまで来られるくらいには、ですかね」

 嘘。

 虚言。

 虚勢。

 わかっていても、僕は張ることにした。張り続けることにした。

 ただでさえ、この人たちは愛娘を亡くしているのだ。きっと、僕よりも深く傷ついていることだろう。僕の心配までさせるわけには、いかないと思った。

 関乃さんは、一瞬だけ疑うように上目遣いで僕を見つめたが、すぐに表情を崩して、

「そうかい、それはよかったよ。君が囚われていないのなら何よりだ」

 そう、微笑んで、背を向けた。そのまま数歩歩いてから、首だけで振り返る。

「じゃあ、ついて来てくれるかい? 君の使う部屋まで案内しよう。いつまでも、そんな大きな荷物を担いでいるのは大変だろう」

 そう言って、廊下の奥に歩いていく。細い背中を追いながら、その後ろ姿は何となく、『あいつ』に似ている気がして。

「……母親、か」呟いた僕は、しつこく纏わりつく面影を振り払ってから、歩き出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る