客車の一生
兵庫県にあった別府(べふ)鉄道の列車に私が乗車したのは、もうずいぶんと昔のことである。
列車はすでにホームに入っていたが、一目見て相当な時代ものだと知れた。
乗車口はデッキになっているが、ドアも壁もなく、まるでベランダのように風に吹かれる形なのだ。
オープンデッキという名は知っていたが、実物を見るのは初めてである。
車体は小さく短く、側面にはペンキでハフ7と書かれているからそういう車両番号なのだろうが、日本史の教科書に出てくる『マッチ箱』という言葉が思わず頭に浮かんだ。
木造車だろうと見当をつけていたが、車内に足を踏み入れると、まさにその通り。
イスも床も天井も、すべて木でできていた。
座席はベンチのように長いのが二つ、向かい合っているが、背ずりにはクッションはなく、ここも木になっている。
真四角な窓は、みなイノシシの目のように小さい。
腰かけて天井を見上げると、なんと細長い長方形の明かり窓が並んでいることに気が付いた。
昭和初期までの典型的な様式だが、残念ながらこのときにはすでに、ペンキのようなもので塗りつぶされていた。
時刻になり、ゴトンと揺れて列車が動き始めた。
左カーブを描いて、ゆっくりと駅を出てゆくが、床下から聞こえてくる音は、電車のようなカタタンではなく、カタンカタンと二拍子で、貨車と全く同じ音がする。
乗り心地は良くはない。
だが速度が遅いから、不愉快というほどの揺れではない。
おそらく時速20キロほどで、自転車にだって簡単に追い抜かれてしまうだろう。
夏目漱石の坊ちゃんではないが、終点にはすぐに着いた。
港に近い工場街のようなところである。
見て回る観光地一つあるわけではないが、本来は工場の製品を貨車で運び出すための鉄道である。
人生において、こんな旧式車両に出くわすなど、そうそうあることではないから、家に帰ってから少し調べてみる気になった。
資料をあさり読みながら、何度かホウと声が出た。
小さな客車はグリーンとベージュに塗られていたが、製造されたのは1926年(大正15年)のことだそうだ。
客車というのは現代の電車とは違って、モーターも何も装備していない車両のこと。
だから自力で走行することができず、必ず何か他の機関車にけん引してもらわなくてはならない。
蒸気機関車か電気機関車か、はたまたディーゼル機関車か。仲間の客車たちと一緒にその後ろに従い、ガラガラと引かれてゆくのである。
製造当時、客車の車内に室内灯はともかく、暖房と空気ブレーキはまだ備えていなかったかもしれない。
冷房など、夢のまた夢である。
製造したメーカーは、汽車会社といった。
冗談でもなんでもなく、そういう名称の会社が存在したのだ。
正式には、汽車製造株式会社と称した。
日本で最初に生まれた機関車メーカーで、1896年の創業以来、国内外の国鉄や私鉄の車両を多数製造したが、1972年に川崎重工と合併している。
客車の発注者は、私が乗車した別府鉄道ではなく、神奈川県内にあった神中鉄道という会社。「じんちゅう」と読む。
聞き慣れない名だけれど、後に名を変えた相模鉄道ならご存知の方も多かろう。
あの大手私鉄も、昭和初期にはこんな小型客車が蒸気機関車にひかれて走っていたのだ。
神中鉄道時代、この客車には、ハ24と番号がつけられていた。
同じ形をしたお仲間の客車は5両。ハ20からハ24まで存在したようである。
相模鉄道が電化されて電車を走らせるようになった1949年(昭和24年)、ハ24はもはや不要ということで、三重県にある別の鉄道に売却された。
買い取ったのは三岐鉄道といい、偶然だが、この鉄道のことも私は知っていた。過去に乗車したことがあったのである。
鈴鹿山系に藤原岳という山があり、セメントの原料が取れる。このセメントを運び出すための鉄道なのだ。
だからこの客車も、セメントを積んだ貨車と同じ線路の上を走っていたのであろう。
そして1959年(昭和34年)、ついに三岐鉄道も電化されて電車にかわり、ハ24は兵庫県へとやって来た。
この時に名をハフ7と変えたのである。
この小さな鉄道でハフ7は、こののち1984年(昭和59年)まで、貨車とともにディーゼル機関車にひかれて走り続けた。
そこへある日、私が乗車したのである。
ハフ7にとって私が何人目の乗客であったのか、もはや想像してみることすらできない。
客車として走り続けた58年間。
そのうち神中鉄道で23年間。
三岐鉄道で10年間。
別府鉄道で25年間。
昭和の初めから戦争をはさんで、戦後の混乱期、高度成長期を走り続けたわけである。
そして廃車になった。
だが幸いにも、その後は元の相模鉄道に引き取られ、今は大切に保管されているそうだ。
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