第4話 消えた兄上

主な登場人物


龍造寺家兼 …当主康家の五男 主人公

龍造寺家和 …康家の次男

龍造寺胤家 …康家の長男


少弐政資 …龍造寺家を傘下に置く大名、少弐家の当主。

千葉胤資 …西千葉家当主。少弐政資の弟      




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 明応六年(1497)四月十三日、西千葉家はついに運命の日を迎えた。

 大内の大軍に拠城の晴気城を包囲されたのである。



「敵が息つく間もなく攻め立てい!」


 東千葉勢を先陣とした、大内勢の猛攻は連日続いた。

 城主胤資は必死に防戦したものの、如何せん多勢に無勢。一人、また一人と城内の死傷者は増え、四日後、ついに守る事が難しい状況に追い込まれた。



 その夜、二人の家臣を伴った胤資は、兄政資とその子高経を訪ねて告げた。


「この者達は、ここから西にある多久たくへの道を知っておりまする。道中の道案内としてお使い下され」

「道案内?」

「この城はもはやこれまで。今宵のうちに落ち延びて下され。多久の領主、多久宗時は兄上の側室の父。力になってくれましょう」

「そなたは共に参らぬのか」

「千葉家当主としてこの城で死ぬこと。それはそれがしにとって何よりの名誉でござる」



 今生の別れであった。

 自分を長年にわたって支え、この城にかくまって戦ってくれたことに、政資は涙を浮かべて礼を述べると、夜、高経他数人と共に城から脱出した。


「我こそは大将、千葉胤資なり! 腕に覚えがある者はかかって参れ!」


 翌日、大内勢の攻撃を受けた晴気城はついに陥落。

 胤資は城から討って出て奮戦した後、戦場の露と消えた。



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 少弐一行は多久を目指す。

 しかしそれは言うほど簡単な事ではなかった。


 多久は盆地であるため、道なき山々を超えなければならないのだ。

 加えて連戦の疲労がのしかかり、冬の山風が肌を突き刺してくる。いつ倒れてもおかしくない状況に、彼らは追い込まれていた。


 さらに背後からの叫び声が、彼らの心に戦慄を走らせた。


「いたぞあそこじゃ、討ち取って手柄にせい!」


 焦る気持ちとは裏腹に、体はもう言う事を聞かない。

 それでも少弐家臣達は、老齢の政資を逃がそうと奮起し、身を盾にして戦う。


 しかし何とか政資を支えて窮地を脱出したものの、それが限界だった。息子高経の護衛までは手が回らなかったのだ。


 高経ははぐれて敵に包囲されてしまい、山中の木陰で自害して果てた。 



 しかし一族、家臣を多く失っても、なお足掻く少弐一行を、天は見放さなかった。


「殿、集落が見えまする!」


 先行していた道案内の者から喜びの声が響いた。山々を越え、彼らはついに多久へと入る事に成功したのだった。

 さらに進むと、見えてきたのは手勢を率いた多久宗時の姿。たちまち政資は歩みを止め、その場に座り込んだ。



 しかし多久勢の動きは奇妙だった。

 宗時は近づいてきても下馬しようとしない。そして兵たちに抜刀させた。さらに一行を包囲するよう叫んでいる。


 まさか……

 そう政資は思った時にはすでに遅かった。

 たちまち宗時の家臣数人が政資の前にひざまずき、宗時からの伝言を口頭で伝える。

 聞き終えた政資は項垂うなだれ、顔に虚無感をさらけだした。



「花ぞ散る 思へば 風の科ならず 時至りぬる 春の夕暮れ」



 四月十九日、辞世の句を詠んだ政資は、静かに切腹して果てた。享年五十七。

 身内であった多久宗時に裏切られ、強要された上での死であった。


 大宰府奪還から十余年。筑前、筑後、肥前に渡り、彼は勢力を扶植するべく奮闘を重ねた。

 しかし大内の大軍により、その努力はわずか四か月で粉砕されたのだった。



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 少弐と西千葉の滅亡。それは肥前国衆達にとって一つの節目であり、驚きをもって受け止められた。

 しかし彼らをそれ以上に驚かせたことがあった。大内による肥前への仕置きである。



 まず東千葉家の当主、興常おきつねを肥前守護代に任じた。

 しかし大内氏は肥前守護職を有していないので、守護の代行と言ってもその権限は限定的である。


 次に少弐討伐で活躍した家臣、国衆達に対し、功績応じて褒美を与えた。


 そしてそのうちの一人である家臣の仁保護郷にほ もりさとを肥前に残留させ、九州探題である渋川氏の救援を命じた。


 

 主にこれだけである。

 そして仕置きを終えると、山口へと撤兵開始。彼らは肥前を支配する事を放棄したのだった。


 大内氏にとって、肥前は遠いうえに守護職を有していない地。そのため肥前国衆や隣接する大友氏などを刺激し、厄介な事態になるのを避けたのである。

 彼らは以後も、肥前に関しては敵対勢力が挙兵すると鎮圧に向かうという、受太刀の方針を変えなかった。



 つまり肥前に、突然権力の空白が生まれたのである。

 この状況を、少弐や西千葉の残党たちが、喜ばないはずがなかった。



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 翌、明応七年(1498)二月、父と離れて落ち延びていた千葉胤資の養子、胤繁たねしげが挙兵し、難なく晴気城を乗っ取ってしまう。

 大内氏はこの時、敵対していた大友氏に注意を払っており、その隙を突いたものだった。


 由々しき事態とみた大内氏は、筑紫、東などの肥前国衆達に胤繁討伐を指示。


 胤繁はこれを知って晴気城を放棄し、佐嘉郡川副かわぞえへと向かった。



 この知らせを小躍りして喜んだのが、龍造寺の当主である胤家だった。


「家和、家兼、合戦に参るぞ!」

「なりませぬ」

「見よ、胤繁様からの援軍要請の書状を。ようやく西千葉に恩返しできる時が来たのだ。家和、もう止めても無駄だぞ。わしの心は固まっておる」 


「胤繁勢は少弐、西千葉の残党であまりに無勢にござる。対して筑紫は大内に味方して所領を大きく加増してもらい、今や東肥前大身の国衆。さらに西千葉蜂起となれば、東千葉も黙っておりますまい」


「家兼まで…… ではこの機を逃していつ西千葉は再興できるのだ? 大内が手を回せない今しかないであろう。異を唱える者は残っておればよい。わし一人でも征くぞ!」



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 こうして胤家は手勢を率いて西千葉勢に合流。

 二月二十四日、筑紫、東を主力とする大内勢と東千葉勢の連合軍に対し、川副にて合戦に臨んだ。


 しかしそれは無謀な戦であった。

 その日のうちに戦場からの伝令が村中城に到着。もたらしたのは悲報だった。


「残念ながら御味方総崩れ! 死傷者、行方不明者多数。胤家様も戦の混乱のため、その行方は掴めぬままにござります!」


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