楽 園
一年後の雨季が近づいた頃、カエが新平の子を産んだ。男子であった。考えた末、新平はヤマトと名付けた。カエは言いにくいと文句を言い、勝手にマトと呼ぶことにしてしまった。
新平は一人きりになって、この地の伝承を書き残すことを、いよいよ生活の中心にすると決意した。西洋の船を諦めたわけではないが、それに縋るだけでは、ずっと中途半端な気持ちのままだろう。幸いカエとヤマトという家族ができ、精神的にも安定した生活が送れそうであった。
ヤマトはカエに似て、目の澄んだ利発そうな顔をしていた。村長の息子のプイがヤマトの子守を買って出て、犬のトトを連れては毎日やって来た。
「マトはシンペに似てないね」
そんなことを言って新平をからかい、カエを笑わせた。何を言われても新平はヤマトが可愛かった。雨季は蚊が多くなるので、マラリアが心配になる。大丈夫だとまるで気にしないカエが新平は不満だった。半分俺の血が入っていても、マカト由来の免疫はあるのかと考えてしまう。それで蚊やりを工夫したりして、ヤマトのことを一番に考える暮らしになった。
語り部のモサ老人から聞いた伝承は、新平が漉いた武骨な紙に墨で記され、大量に部屋の隅に積まれていた。それでも彼は、思い立ってはモサに逢いに出かけて行った。モサは新平には欠かせない話し相手だった。話題は伝承に限らず自由なもので、それに知的な刺激を覚えながら、マカトを一層理解することになった。そして彼は家族を持った喜びと同時に、それを守っていけるだろうかという不安も感じたのである。
新平はモサの話で、この地が選ばれた者たちの楽園なのだと知った。もし赤子の死亡率がもっと低ければ、人口の増加で食糧が不足することになろう。そうでないのは、見えざる摂理の篩から、不運に零れ落ちた命のお陰なのだ。私はヤマトの幸運を祈るしかないのか、と新平は思う。彼は死んだ赤子や幼児を海へ流すところに、これまで何度も出くわしていた。沖へと流されるその小振りな筏は、丈高く飾りつけられた花籠のように美しかった。
モサが子を五人も失くしている、と聞いて新平は驚いたが、珍しいことではないという。生きる力のない者は、万一生き残っても大人になるまで生きられない、とモサは言った。
大自然から選ばれた子どもだけが、この楽園に住むのを許されるのなら、大人は全員その幸運児の果てなのだ。それなら子どもを無制限に可愛がるのも当然だろう、と新平は納得した。
幸いヤマトは元気に成長した。新平は色々と注意を怠らなかったが、やはり幸運に恵まれたからに違いない。なぜならヤマトに続いて産まれた女の子は、わずか七か月でこの世を去ってしまったのだ。新平がヒメと名付けたその子を、文字通り子宝として大切に育てたのは言うまでもない。
新平には、ヤマトが村のどの子よりも利発に思われた。まだ二歳前なのに、妹がいなくなったのを気にして、どこへいったのと訊いたというのが自慢だった。ヤマトは三歳になる頃、新平とカエの会話を真似することができるようになった。それが面白いと、新平は尾張の言葉を言わせたりして喜んでいた。だが、外の世界の話は一切しないと決めていた。自分たち、勇魚丸の五人にとって、ここが楽園でなかったのは、別の世界を知っていたからだ。マカトで生きていくヤマトには、それは知る必要のないことだ。
カエは三度目にまた女の子を産んだ。新平にナツと名付けられた妹をヤマトは可愛がった。五歳になった彼は、ヒメが帰ってきたような気持だったかもしれない。
新平は子育てに奮闘しながら、モサから聞き出した伝承をあらかた書き終えた。手漉きの紙がごわごわと厚いので、その紙本は部屋を占領しそうな嵩になっていた。新平はそれを見ると、誰も読み手のないこんなものを、我ながら良く飽きずに書き続けたと感心してしまうが、それがこの六年間の生きる支えであったのも事実だった。
新平は、西洋の船が現れることに疑問はなかった。それがいつになるかだけなのだ。それなのに、私を残してなぜ皆急いで行ってしまったのか。彼は自分が日和見者だからこうしているのか、と思うと悲しい気持ちになったが、ヤマトとナツのことを考えると心は和んだ。
ある日の朝方、新平は浜辺を歩いていた。晴れて砂浜はあくまで白く、サンゴ礁の海は明るい青緑に輝いて、楽園と形容するほかない美しさだった。その時、爽やかな風がヤシのてっぺんを揺らしたと思うと、良く熟れたとりわけ大きな実が樹を離れ、地球の中心に向かって引かれて行ったが、歩いてきた新平の頭蓋骨が、まさしくその落下進路中に出現したのである。ヤシの実は、突然に進路を妨害され、乾いた明るい音を立てた後、ドスンと砂の上に転がった。新平は、ふらりと泳ぐような恰好を見せたが、すぐにその薄茶色の大きな実の傍へ仰向けに倒れた。即死だった。彼は自分が死んだのも知らずに昇天したのであった。
カエもヤマトもナツも、もちろんプイを始めノッチ村の誰もが新平の死を悲しんだ。隣村のアタロも慌てて飛んできた。遺体が乗せられた筏は、盛大に花が飾りつけられ、それを沖まで曳いて行ったのは、逞しい青年に成長したプイであった。
何年かすると、先祖の国から来た五人の男のことは、次第に村人の記憶からも薄れていった。吉太郎の藁草履も、いつの間にか使われなくなった。素足の気持ちよさに勝るものはないらしい。その間には、大型のサイクロンがやってきて、三つの島のほとんどの家を吹き飛ばしたこともあった。それで新平が書き残した大量の紙本も、どこへいったのか跡形もなかった。久六と太市を乗せて出ていった勇魚丸も、杳として行方が知れなかった。
五人の男たちが待ち焦がれた西洋の船が現れたのは、新平の死から三十年後のことであった。完。
勇魚丸と五人の男 宇宮出 寛 @Kan-Umiyade
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