やがて悲しき・・・
吉太郎は清吉を失って、胸の中ががらんどうに感じていたが、アモも同じような思いを抱いていた。ただ彼女の場合は、オカンの掟を破ってしまった、という痛切な後悔の念が加わっていた。部族の祖であるテスラさまを無視して、なぜ男を漁に参加させてしまったのか。その結果がラナと清吉の死となったのだ。
アモは前村長のブリに事の顛末を話し、その指示を仰いだ。ブリは伝承の語り部である夫のカンと話し合ってから、
「テスラさまの国から来た衆であれば仕方なかったか。今はまだ代わりがないで、ご苦労だがお前さんにもう少し頑張って貰わにゃならんね」と答えた。
そう言われると、アモも不本意ながら従うしかなかった。吉太郎と自分の沈鬱な気持ちをどうするか。兄と慕うセイキチを失った痛手から、息子のシンをどう立ち直らせてやるか。それが責任を取ってからの、自分の任務だと思っていたのだ。
季節は完全に雨季となって、毎日のように雨が降った。涼しいと蚊が元気になるが、村人はあまり気にしていない。寒さが嫌いなので、暑い季節が待ち遠しいだけらしい。
吉太郎は胸が痛んで、眠れぬ夜を過ごしていた。食物も喉を通らずにいたが、なぜか涙は出なかった。
「ワシは清吉を見殺しにしてしまった。一緒にいたら助けられたのではないか」
そういう考えが吉太郎を責めた。それは尾張の妻子を思うのとは違い、永遠に失われたという欠落感から来るのか。いつでも傍にいた清吉とラナのことを考えると、ただ胸が苦しくなるのだ。
吉太郎とアモは床を共にしていたが、二人に睡眠以外の動きは何もなかった。それでも二人はお互いの気持ちが分かって、
「済まんアモ、済まん」と吉太郎が言えば、
「キチタロ、元気出して」とアモは答えた。
アモは真夜中に目覚め、闇の中で吉太郎の目が光っているのに気付いても、どうすることも出来なかった。
アモは事件を知らせて、新平の来訪を願うためマカトに人をやった。すると新平が慌ててやってきた。
「一体どうしていなくなったんです?」
訊かれても吉太郎には答えられない。
「何も分かれせん。舟から落ちてまって、サメにやられたか・・・・」
新平は四日滞在して、吉太郎と話し合った。マカトで一緒に暮らそうという提案には、俺はここが良い、清吉の思い出もあるからと言う。新平は吉太郎の元気のないのが気になったが、アモがいるから大丈夫だろうとマカトへ帰っていった。
雨季の陰気さが広がっていくなか、アモの努力で少しずつ吉太郎の元気が出てくると、シンの顔にも明るさが戻ってきた。息子のように思ってくれるよう、アモは何かとシンを吉太郎の傍へと気を配ったが、その影響が現れたらしい。
オカンの大抵の男は楽器ができるが、それは伝統芸能として、男たちに受け継がれているからだった。楽器といっては、竹笛に木琴、弓に一本の糸を張ったもの、吊り下げた竹筒をガランガランと鳴らすものなどで、音階も素朴なものである。
既にシンは、竹笛の作り方から吹くことまで習得していた。照れ屋で引っ込み思案なオカンの男らしく、シンは物陰に隠れて笛を吹くのが習いだった。その風の音を思わせる響きが、喪失の痛手から回復途上にある吉太郎の胸に届いたとき、出なかった涙が溢れた。そして胸の苦しさも和らぐような気がした。
彼はアモとシンに感謝した。悲しみは消えないが、やがて気力も戻って来るだろう。自分には時間が必要なのだ、と吉太郎は思った。だが、清吉とラナの死に責任がある、という考えは捨てられなかった。
吉太郎は藁草履の交易を、誰かに継承させようとは考えなかった。作業所の隅にはかなりの量が積まれてあったが、それには目もくれずに、ぼんやりと腰を下ろしていた。彼にはまだそんなことを考える余裕がなかった。
作業所では、シンが籠や帽子を編むのを始めたが、まだ修業中で時々先輩の指導を仰いでいる。それを吉太郎は黙って眺めていた。以前なら、興味から手を出すこともあったのだが、今ではただシンの身振りを観察しているだけだ。
吉太郎は食欲不振で瘦せたが、二か月ほどして少しずつ体重が戻りつつあった。だが気持ちには張りがなく、何だか腹に力が入らなかった。その鬱陶しい気持ちを少しでも軽くしようと、アモとシンが気を配ってくれるのだが、彼にはどうすることもできなかった。
雨季で涼しいということもあるが、アモもシンもしつこいほど吉太郎に体を寄せ、それがオカンの愛情表現だと主張しているようだった。戸惑いつつそれに身を任せていると、二人の存在が心の支えになっていることに改めて気づかされた。それなのに、なぜ自分の心は前のように弾まないのか、と吉太郎は困惑する。
吉太郎の気分は軽くなりつつあったが、意欲を感じるまでにはなかった。昼はシンの作業を見守り、夜はアモを母親であるかのように抱いて寝た。そんな日々を送りながら、自分を責めて涙ぐんだり、周囲の者に感謝の言葉を掛けたりするのであった。
そんなある日の暮れ方、吉太郎はひどく寒気がするのを感じた。すぐに歯の根も合わないような震えがきた。それを見るとアモはシンに衣類を出すように言い、自分は湯を沸かして薬湯作りに取り掛かった。
熱い薬湯は苦かったが、吉太郎の腹に沁みた。だが、いくら衣類を重ねても去らなかった悪寒が、夜中にはひどい高熱に変わり滂沱の汗である。この病は寝ていれば治る、とアモは言ったが、吉太郎は熱に浮かされながら「おこり」というのはこれかもしれないと思った。尾張でもそういう人がたまにあった。
夜が明けるとまた悪寒がきて、吉太郎はアモが体の汗を拭っている間も震えていた。半日すると今度は汗が流れ出す。そういうことが繰り返し起こった。三日経ったが状態の改善が見られないので、アモの顔に焦りの色が現れてきた。
「キチタロ、おかしい。どうしたのだろう。シン、カン爺を呼んできなさい」
アモは、今にも泣きそうにしているシンにそう命じた。前村長の夫であるカンは、語り部であり祈祷師でもあった。カンはすぐに来た。薬湯を飲ませても効果がないとアモが説明すると、カンは吉太郎の体を確かめるように触っていたが、
「こんなに悪いのは知らない。まあ、やってみよう」と自信なげに呟いた。
カンはバナナの青い葉を持ってこさせると、それを千切って花のようなものを拵えた。それをヤシの実の鉢に水を張って浮かべ、吉太郎の枕元へ置いた。それから祈祷が始まり一時間ほどして終わった。
その夜も、悪寒と発熱が吉太郎を襲ってきたが、アモにはどうしようもなかった。わずかに汁物は摂っていたが、吉太郎の体から精力が抜けていくのが見えるようだった。
アモは夜が明けるとマカトへ人をやった。新平に縋るしかもう手がなかった。
夕方近くなって新平が来た。吉太郎は熱で意識が朦朧としていたが、新平の顔を見ると嬉しそうにした。だが下痢と熱とで物を言う元気はなかった。新平はアモに色々と質問してから、
「親方、これはおこりの一つでマラリという病だと思います。アモが飲ませている薬が効かないようですね。私も探してみますが、水分と食べることです。体力勝負ですからね」と言った。
吉太郎は目を閉じて聞いていたが、予想した通りなのを知っても、何の感慨も湧かなかった。熱に浮かされながら、楽になりたいとそれだけを願っていた。
マラリアの薬は、キナの樹皮から作るキニーネや中国由来のクソニンジンなどあるが、それらがこの地域に自生しているものか、新平は自分の知識を使ってアモに尋ねたが、そんなことで分かるわけもなかった。新平はアモとシンを連れて森へ入り、キナとクソニンジンの特徴を説明した。アモは村人に協力を頼んで探索すると言ったが、本心は半信半疑だった。もし新平の言う薬用植物が存在するなら、既に利用されてカンも知っている筈だ。だが今は藁にも縋りたい気持ちなのだ。
新平は、マラリは蚊が運んでくるから刺されないようにせよ、栄養のつくものを吉太郎に食べさせろ、と注意を与えてからマカトへ戻った。
マカトでもフラガでも、新平の依頼でキナとクソニンジンの探索が行われたが、採集された大量の草木の中に、それらは見出されなかった。重い気持ちで渡ったオカンでも同じことで、新平は吉太郎の顔を見るのが辛かった。
吉太郎は意識が混濁して、新平が来たのも分からないようだった。朝に熱が下がって気がつくことがあるが、それも僅かな間でまた元に戻ってしまう、とアモは疲れた顔つきで新平に説明した。もう三日ほど水しか飲んでいないらしい。
新平は吉太郎を見守っていたが、もはや回復は無理かもしれないと思った。あれほど逞しく溌溂としていた親方が、やせ衰えて無残な姿で横たわっていた。
病を得る前に逢った時、清吉を亡くして気力を失った吉太郎を新平は見ていた。あの時親方の抱えた鬱を、何とか散じてやれなかったものか、と今になって思う。すでに吉太郎には、マラリアと闘う気力は期待できなかった。
アモは吉太郎に果汁を飲ませようとしたが成功しなかった。病人はただ息をしているだけの存在に思われた。新平はアモに自分の考えを言うことにした。
「親方はもうじき死んでしまう。心の準備は良いですか? あなたは良くやりました。親方はキット幸せだった」
アモは目を剥いて、怖い顔をしたが泣かなかった。代わりにシンが大声で泣き出し、何か言っていたが新平には分からなかった。
朝になると吉太郎の意識が戻って、苦しそうな息の中で薄目を開けた。新平はアモを大声で呼ぶと、顔を吉太郎に近づけた。
「親方、私です。分かりますか?」
吉太郎は柔和な表情をすると、
「セイキチ・・」と微かな声でそう言った。
「キチタロ、キチタロ」とアモが叫んだ。
「キチタロ」とシンも泣きながら叫んだ。
その声が聞こえたのだろう、吉太郎は目を閉じていたが僅かに頷いたように見えた。
吉太郎の葬儀は小雨の中行われた。花で覆われた遺体は、竹の筏に乗せられて浜辺へと運ばれていった。そこには見送りの村人が集まっていて、同じ作業小屋の男たちの中には泣いている者もいた。筏の傍に跪いたカンの祈りの言葉に続いて、七人の男たちの吹く笛の音が風のように響き渡った。アモとシンが抱き合って見守る中、筏はカヌーで沖へと曳かれていった。
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