マグロを求めて


ボニが来なくなった後、清吉はラナとカヌーで釣りに出ていたが、ある日深いところを大型の魚が過ぎるのを見た。それはイワシを追ってきたマグロではないかと思われた。

「もっと小さいのは釣ったことがある。その時は浅瀬まで曳いてくるのに銛を打ったが、あんなに大きいのは経験がない」とラナは言った。

「良し、オレが上げてみんなをびっくりさせてやる」と清吉は笑ってラナに宣言した。

 その夜、清吉が吉太郎に話すと、

「ここの釣り針じゃ、とても浮かせられん思うで。何か良いのを考えなかんわ・・」そう言って首を傾げた。

ここでは鉄の使用がまだ始まっておらず、硬い木や貝殻、石などを漁具として利用している。

「そうだ、お守りに持っちょる嬶のかんざしがあるで、それで作ったらええがや」と吉太郎が思いついてそう言った。

 それを聞くと清吉は、

「とんでもにゃー。そんな大事なもん使えーせんがね。炊ぎの道具箱に何かあると思やーすで、探してみることにしよまい」と慌てて答えた。

 清吉が炊事道具を検めてみると、金串が三本見つかった。それほど硬くないので、針の形にするには好都合だった。清吉は何とか釣り針の形にして、三回焼きを入れた。吉太郎に見せると、返しがないがうまく掛ければ大丈夫だろうと言う。釣り糸はバナナの繊維を撚り合わせて作った。少し太くて綱のようだが、強さは十分だとラナが保証した。

東に流れていく雲が厚くなり、時には陽も差すが雨が多くなってきた。清吉は空模様を見ながら、ラナとカヌーでリーフの端に出かけ、マグロを掛けようとしていた。釣り針には、マグロの好きだという小魚が結わえられ、ラナの舟には銛が置かれている。

四回目くらいまでは、吉太郎も同行していたが、姿も見えず当たりもない日が続くので、呆れて来なくなった。仕掛けがマグロ用では、外道が釣れることもないから、さすがに飽きてしまったらしい。

清吉は諦めなかった。晴れ間を見てはラナを連れてカヌーを出した。たまにボニが小さな群れで移動していったが、その後を追うマグロの姿はなかった。本格的に雨季に入ったのか、満潮の時刻に狙いをつけても、雨になることが多くなった。女たちは浅瀬に刺した柵で小魚を獲ったり、ヤシガニを捕まえたりと、舟を出すことが少なくなった。

ラナは何も言わずに従ってくれるが、そろそろ潮時かと清吉も思い始めていた。ヤシの葉を編んだ帽子で雨は平気だったが、寒さに弱いラナはそういうわけにはいかない。

ある日の午後だった。清吉とラナは満潮の前にカヌーを出した。曇っていたが風が弱く雨は落ちていなかった。波も穏やかで、海の中がかなり下方まで見える。

「ラナ、俺たちずいぶん頑張ったが諦める時かもしれない。でも今日は良さそうだぞ」

 清吉の言葉に頷くと、

「雨季が終わればまたボニもくるからね」とラナは笑って答えた。

 清吉は小魚を結わえた針を、ゆっくりと見えなくなるところまで沈めた。潮が上げてくる中を、リーフに住む小魚たちが泳ぎ回っている。その下はもう見えないが、清吉は餌の小魚を泳がせるように、小石の錘を揺らし始めた。

水が湧くように潮が満ちてくる。清吉は二十分ほどで餌の小魚を取り替えた。魚に喰いつかれたり、弱ったりもするのだ。

雲が低くなって雨になりそうだった。満潮のピークは間もなくだが、降りだしたら止めようと清吉が空を仰いだとき、竿が引っ張られた。空振りでも良いから、思い切り上げようと決めていたのでガツンと合わせた。手ごたえは岩礁を引っ掛けたようだったが、不意に竿を引っ張りこむ力が掛った。清吉の心臓がドクンと鳴り、腕に力が入る。ここで潜られたらお終いである。糸を肘に巻いて必死に堪えた。

「ラナ、来たぞ」と清吉が叫ぶ。

「オーケー、分かった」

 ラナはロープに繋いである銛を確認し、いつでも動けるような姿勢を取った。

 糸の長さは十尋ほどだが、それ以上は伸ばすわけにいかない。潜られてしまえば、一人では浮かせられなくなる。今はじっと我慢し、相手に勢いを与えないことが肝心だった。

獲物が強引に潜ろうとし、清吉はそれを阻止しようと頑張る。ラナはバランスを取るため隣のカヌーに移動した。これからどれほどの間を闘うことになるのか、それは二人にも見当がつかない。

「喰いついたのはマグロだろうか」

清吉は獲物が潜るのを諦めるまで待つことにした。深みへ逃げられないなら、獲物は横に走ろうとする筈だ。その力の方向が変わる瞬間、どれだけ糸を引き寄せられるかが勝負になる。

獲物はゆっくりと旋回しながら、強引に潜ろうとしていた。清吉は糸を背中から左腕に回して、全身で支える姿勢を取ると、さあ来いと気持ちを奮い立たせた。

カヌーは少しずつだが、岸から遠ざかりつつあった。曇った空からは雨が落ち始め、海の中が暗くなる。日暮れにはまだかなり間があったが、海鳥が舞うだけで海上に舟は見えなかった。獲物は相変わらず潜ろうとし、強い引きを見せている。どのくらい経っただろう、上げ潮が止まったようだ。雨と風に震えながら、ラナはオールを掴んで舟のバランスを取ろうとしていた。その時清吉は、獲物が旋回するのを止めたのに気付いた。

「ラナ、始まるぞ」

 叫ぶと同時に、清吉の腕が回転し始めたが、すぐにまた動かなくなった。ものすごい重さが彼の腕を固めさせたのだ。するとカヌーが突然走り出し、黒い影が微かに清吉の目に映って消えた。

「それ引け、もっと引け」

 清吉は滑っていくカヌーの中で、腰を落として耐えながら、獲物と自分にそう呟く。後方ではラナが、オールを必死に動かして抵抗している。引けば引くほど、獲物は自然と自分を浮かせてしまい、泳ぐ力も弱まっていくはずだった。

しかしゆっくりだが、カヌーは着実に進み続けていた。十二、三米先を堂々と行く獲物に、清吉は胸を打たれるような気がした。何と凄い奴ではないか。清吉は初めて微かな不安を感じ、いつかある漁師から言われた言葉を思い出した。

「海にゃよ、どえりゃあ奴がおるだに、鯨取りにゃ分からんか知らんが。そういうのに当たった時はよう、すっぱり諦めにゃいかんのだわ」とその男は言っていた。

 それがこいつなのか。清吉には分からなかった。背に回した糸が綱のようで、簡単には切れまいと思うと安心感が湧いた。すると不安は消え闘志が蘇ってきた。

二十分ほども経ったろうか、さすがにカヌーの勢いが落ち、獲物の姿がぼんやりとだが分かるようになってきた。やっと三尋くらいには浮いてきたらしい。だがまだ銛は打てない。船足がもっと落ち、獲物を近くまで引き寄せてから、カヌーを転覆させないように慎重にやらなければならない。ラナは隣のカヌーでオールを動かし続けていた。

二人が気づかぬうちに、カヌーは陸から遠ざかり、小雨の彼方に島影が霞んでいる。次第に船足が落ち、魚体の大きさが暗い水中でもはっきりしてきた。

「こりゃあ、でかいが・・・・」

清吉の胸が高鳴り、マグロに違いないと確信する。糸を少しずつだが手繰り続け、今や獲物は五米ほどの距離に近づいていた。

獲物の動きは明らかに鈍ってきた。糸を手繰る手はだいぶ前から血がにじんで、その痛みが清吉を鼓舞しつつ、冷静さも与えていた。

「待っちょれ、まあひゃー銛をお見舞いしたるで」

そのとき、獲物の動きが一瞬止まるのを清吉は見逃さなかった。反射的に大きく糸を手繰っていた。獲物は向きを変えようと、清吉に初めて正対する姿勢を取ったが、すぐに体を捻って鎌のように鋭い尾びれを空に突き立てた。

「マグロだ」清吉が息を飲む間もなく、獲物は黒い悪魔のように、海中へ突っ込んで行った。その反動は、オールを持ったラナのバランスを崩し、カヌーの縁を水中へ沈めかけた。清吉はカヌーの上で泳ぐように、体に巻き付けた糸を解こうとしたが、マグロに引っ張られて水に落ちると、そのまま海中に消えてしまった。

「ああっ、セイキチ」

 ラナは叫ぶと、清吉の消えた辺りへ飛び込み、勢いよく潜っていった。

四分ほど経ったろうか、海の下の方から、黒い固まりが幾つか昇ってくると、小雨の落ちる水面に届いた途端、赤黒い膜をぱっと広げた。それは大量の血液だった。清吉とラナと、多分マグロの血も混じった固まりが、次々と上がって来ては、油を流したような模様を波間に描いた。それが途絶えると、暗くなりかけていた海の中には、もう何も見えるものがなかった。

襲撃したのはホオジロザメと思われた。清吉とマグロとの格闘を嗅ぎつけ、じっと後をつけてきていたのであろう。マグロが釣り針によって出血していたのかも知れない。


吉太郎が浜へ出たのは、日暮れに近い頃だった。小雨模様で暗くなるのが早いのに、清吉たちは何をしているのか、と心配になったのだ。あちこち見回しても、目につくものは何もない。サンゴ礁の岸の白さと、海水の黒さが次第にぼんやりしてくる。吉太郎がリーフの端へ歩いて行くと、揺れているカヌーらしきものが見えた。それは清吉たちが乗って行ったもので、風と波によって、そこまで運ばれて来たのであった。

吉太郎が泳いで行ってみると、カヌーの中には紐付きの銛が残されていた。二人に何が起こったのか、吉太郎は手掛かりを求めて調べたが収穫はなかった。

二人を捜索するカヌーが出たのは、すっかり暗くなってからで、吉太郎は篝火を焚いたアモの舟に同乗し、かなり沖の方まで捜して回った。カヌーは全部で十隻ほど、漁火のように美しく波間に揺れた。雨が落ちていたが火を消すほどではなかった。それでも三時間ほどして篝火が燃え尽き始め、何も手掛かりのないまま終了となった。

翌朝は曇り空で、アモと吉太郎の他に三隻のカヌーが捜索に出た。風が弱く波も穏やかな日で、かなり遠くまで見通せたが何の発見もなかった。次の日、アモが止めたが吉太郎は一人でカヌーを出した。その翌日も彼の姿は海上にあった。更に三日間それは続いたが、もはや何をするでもなく、ただ波に揺られているばかりであった。

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