ボニが来た
清吉は藁草履を持って、マカトのアタロと新平を訪ねた。オカンにはない果物や野菜と交換して、持ち帰るのが今度で何回目になるか。それは吉太郎と清吉だけでなく、草履を編むオカンの男たちの張合いにも成っていた。
「久六兄さんと太市さんが出て行きゃーた、そうアタロが言やーすが。新平さん何か知ってりゃーすか?」
清吉は新平の顔を見るなりそう訊いた。実は、自分も承知で二人を送り出したのだ、と新平は答えた。そして久六も太市も、フラガに居辛くなったので、この季節の風を頼りに別の所へ行こうと決めたらしいと説明した。
「ここらの海は穏やかですから、勇魚丸でも遠くまで行けると考えたようで。でもここと同じような島に着くのかもしれませんね」と新平は、仕方がなかったのだというように言い足した。
清吉はそれを聞きながら、もはや船を待つしか選択肢がなくなったことを知った。誘われていたら自分はどうしたろう、無謀な計画だと断っただろうか?そんな気もしたが、仲間外れにされたようでもあった。
フラガではババ村長が清吉を迎えてくれたが、言葉数は少なかった。新平から事情を聞いていたので、久六たちのことは何も質問しなかった。広場へ出ると男たちがアルタラの稽古をしていたが、清吉を認めたらしくカンヂが走ってきた。
「よく来たな、えーと名前は?」
「オカンのセイキチです」
カンヂは久六と太市が国へ帰ったと思っているらしく、クロはまた来るだろうかと真顔で訊いた。
清吉は、太市にサラという恋人がいたのを思い出し、カンヂに訊くと、弟のロタを呼んで案内しろと言ってくれた。サラは清吉の顔を見ると、私が悪い女だからタイチが行ってしまったと言って泣いた。清吉はもう少し詳しく聞きたかったが、傷に塩は塗れないと思って止めた。
清吉は藁草履との交換品を、カヌー二艘に満載してオカンへ戻ってきた。久六たちの出航は既に知られていたが、ここではボニという魚の寄って来る日はいつか、というのが人々の一番の関心事だった。年に二度、雨季と乾季の境に群で現れるボニを、女たちが総出で釣れるだけ釣り上げるのだ、とアモは力を込めて言う。それへの興味ももちろんあるが、吉太郎は久六と太市のことが知りたかった。
吉太郎は久六たちの出航を知るまで、勇魚丸の存在を忘れていたことに気が付いた。自力で脱出するのを断念して、勇魚丸への関心を失っていたのだが、無くしてから惜しいと思う自分に苦笑せざるを得なかった。
「兄さんら、何か嫌な事があったらしいて新平さんが言やーた。そんでフラガ出よう思やーたげな。詳しーは訊けなんだが」
清吉は新平の話やフラガで聞いたことを報告したが、すでに久六たちに特別な感情を持ってはいなかった。若い清吉が自分より冷静に受け止めている、と吉太郎は意外だった。恨みや悔しさを口にしても良さそうなのに、と思ったが黙っていた。清吉はラナとここで生きるのを選んだのだろうか。それは分からないが、他に選択肢がなくなったのも確かだった。
「二人ともたーけつだがや。フラガが嫌ならここへ逃げて来やええんだに。挨拶せんで出て行きゃーたのはけしからんが、どっか無事にたどり着けやーええけんど・・・・」
吉太郎は自分を納得させるようにそう言った。
風に乗って上空を移動する雲の量が増え、雨季の近いことが感じられてきた。女たちはカヌーの手入れをしたり、生け簀にエビや小魚を確保する作業にかかり、男たちは竿と釣り針、魚網の準備を始めた。
普段は糸を紡いだり、籠やマットや藁草履を編んでいる作業小屋だが、この時期は漁具に占領されてしまう。作り置いた物が足りなければ、材料を集めて急いで作ることになる。竿は良い竹がなく木製だが良く撓る。針は鉄のように固い木か魚の骨、貝殻などから作り、釣り糸はバナナの繊維を撚ったもので十分な強度があるらしい。
アモが話すのを聞くと、ボニはカツオのことだろうと思われた。
「こんな暑いとこまで、カツオが来やーすきゃ?」と清吉は半信半疑だった。
「ほんでも泳ぎの達者な奴らだに、案外世界中を泳ぎ回っとるか知らん。まあワシらも楽しみゃえーがや」
人々の熱気が吉太郎と太市に感染しないわけはなかった。オカンの男は漁に出ないが、二人は本来漁師であり、ボニ漁に参加するのは当然のことと思っていた。だがアモは二人の漁への関与を認めなかった。ご先祖からの言い伝えで、オカンでは男の漁師は許されないというのだ。
吉太郎は夜となく昼となく、アモを説得しようと努め、自分たちは鯨という巨魚を獲る漁師なのだと何遍も説明した。アモは自分も鯨は知っているが、あんな大きなものが獲れるはずがないと信じなかった。
「親方、一丁腕前を見せたりゃーすか?いつも食うとる、カサゴや鯛に似とるのを釣ったるわ」
清吉の提案は、自分たちが漁師だと村人に知られれば、アモも認めるだろうというのだ。吉太郎が同意して、二人は早速行動を開始した。竿と針と糸は作業所で調達し、餌の小魚とエビは、ヤシの葉を使った網で何とか捕らえて生け簀へ入れた。カヌーは島を行き来する際に同行する男から借りた。これらはみなアモに内緒だった。
アモが舟を出す場所から離れて、二人は目立たぬように出漁した。カヌーからは、サンゴと原色の小魚の群が、夢のように美しく眺められ、リーフの端は急斜面に落ち込んで、そこからは底の見えぬ暗い世界が広がっている。その斜面が大物の出没する場所らしかった。
「えーのがようけおるがや。そんでも見える魚は釣れへん言やーすで」と吉太郎が舟を操りながら言うと、
「ここらの魚はたーけつだで、何にでも喰いつけーせんかね」と清吉は気楽なものだ。
ところが喰いつくのは小魚だけで、大物は餌を無視して通り過ぎて行く。午後には風も強まり、吉太郎がカヌーの操縦に苦労させられただけで、結局その日は坊主だった。夕刻カヌーを借りた男と話すと、ここでも釣りは潮や時刻が大事らしく、女たちは突いて獲ることもあると教えてくれた。
翌日はモリで突いてみようということになった。自分は子供の頃から潜りが得意なのでやってみたい、と清吉が言い出したのだ。
確かに清吉の潜水は見事な腕前だった。斜面を動き回る魚は意外にのんびりしたもので、突こうとすると、サンゴの陰や穴の中へ逃げ込むが、それで助かったと思うのか、動かないので簡単に突けると清吉が報告した。獲物は、ヒレがやけに大きく鋭い棘のある鯛もどきや、イサキとカサゴのミックスなど、大きくても三十センチを超えない。
清吉が突いた魚は吉太郎が外し、海中に吊るした籠に放り込むのだが、それも二時間ほどで満杯になった。さすがに清吉も疲れたのか、カヌーへ上がるのに手間取った。
二人は作業小屋へ獲物を持ち込み、そこにいた男たちへ全て分配した。誰もが驚いたようで、中には奇声を発する者もいた。
「俺たちは漁師なんだから当り前さ」と清吉が勝ち誇ったように言うので、吉太郎は苦笑した。
二人は帰っても漁のことを話さなかった。しばらくアモには内緒にと思っていたからだが、それは無意味だった。すでにアモは知っていて、悪いことが起きるから止めて、と悲しそうな顔で訴えたのである。
「それは物忌みといって、おまじないか迷信に過ぎないのだから心配ないよ」と吉太郎は懸命に説明したが、アモにはどうしても理解できないようだった。料理を囲んだ五人が沈黙して、食べる音だけになった。
しばらくして、それまでは聞くだけだったラナが、意を決したようにアモを見つめると口を開いた。
「姉さん、この人たちの好きにさせてあげてはどうかしら。もしご先祖の国から来たのだったら、テスラさまもきっと許したと思うの」
伝承を知らない吉太郎と清吉は、何の話かと聞いていたが、ラナの口添えは嬉しかった。アモはそれを聞くと、何か言いたそうにラナを見たが、思い直したように料理に目を落とすと黙り込んでしまった。
翌日も吉太郎たちは海へ出た。鯨はもう無理でも、自分たちはやはり漁師なのだ、と二人は思った。リーフの端で清吉がモリを手にして潜って行く。海中は黄色のヒレを長く引いたのや、全身真っ青な小魚が群れているが獲物にはならない。少し深みに赤いのが五、六匹見え、その中で大きいのを仕留めて上がると「キントキだなこいつは」と吉太郎が声を上げた。
その日も作業場で獲物を配ったが、キントキとギンガメアジの二匹は持ち帰った。
「銀紙みてゃーでギンガメ言やーすげな。少し細身だけど間違いにゃーで」と清吉の言うギンガメもキントキも、五十センチ近い大物だった。
毎日の食事には、獲りやすい三十センチ以下の魚が普通だから、この日の大物はシンを大いに喜ばせたが、アモやラナは何気ない顔をしていた。それでも調理されたキントキとギンガメの見事さを前にしては、彼女らも黙っていることはできないらしい。
「これはなかなか良い魚だ。どこで獲ったのか教えてくれ。セイキチは潜水が得意なのだな」などと笑いながら喋りだしていた。
前日と違って、夕食はみんなが和やかな満足の表情で終えた。残りは朝食に取って置くが、食べ散らしたものは、犬とニワトリの餌になる。食後はラナとシンが笑いながら会話するのを、三人は半ば放心した体で眺めていた。屋外の闇からは、笛と竹琴の音が聞こえてくる。ボニ漁の後に催される祭りの踊りのために、男たちが練習しているのである。そういえばシンも、時々隠れて笛を吹いているようだった。
「秋祭りを思い出してまうでかん」と清吉がぼそりと言ったが「ほうけ・・」と吉太郎の返事は気のないものだ。
清吉とラナが自分たちの家へ帰ろうとすると、アモが急に話し出した。
「私は考えたよ。あんたたちがフラガの二人と違って、どこへも行かないって言うなら、漁師をやったって良い。危ないことをしないで、ずっと一緒にここにいてくれるなら・・許しても良い」
言いながらアモは、吉太郎と清吉を睨みつけていたが、その目はうっすらと濡れていた。
吉太郎は胸を打たれたが、清吉もそれは同じだった。二人とも返事ができない。国へ帰りたいのは山山だが、それは虚しい夢のようでもある。いずれにしても、今の境遇が恵まれたものであるのは、吉太郎にも清吉にも良く分かっていた。
二人は無言で顔を見合わせていたが、やがて吉太郎がアモの方を向いて言った。
「多分、俺たちは国には帰れないだろう。だからここで暮らしていくつもりだ。俺はお前とずっと一緒にいたい。未来のことは誰にも分からないが、俺はどこへも行かない」
聞いているうちに、アモの表情が喜びに変わり涙が浮かんできた。清吉は納得したように頷いていたが、ラナに吉太郎と同じようなことを言ったらしく、抱きつかれて嬉しそうに笑った。シンだけが、何だか分らんという表情である。
風はずっと吹いているし、雲も次第に増えてきて、雨季がすぐそこまで来ているのは間違いなかった。見張りはリーフの先端から、海鳥の群れは空から、ボニの来るのを待っていた。浅瀬の砂に小物用の柵を立てている女たちは、頭の中ではボニのことを考えていた。
そうしてついにその日が来た。見張りが夕暮れ近くに、イワシの群れから跳び上がるボニを目撃したのだ。知らせを受けると、アモは翌早朝から漁を始めると決め、人をやって隣村にも知らせてやった。
翌朝は、未明から殆どの村人が海岸近くへ詰めかけていた。女たちと男たち、はしゃぎ回る子供たちと犬どもだ。
リーフの先端にはカヌーが二十艘浮かべられていた。舟は全てが二つを連結してあり、それぞれ操船一人、餌撒き一人、釣り担当が二人の乗員四名である。
爽やかな風と波とで揺れ続けるカヌーの上で、清吉はラナと二人の女と開始の合図を待っていた。アモが岸から指揮を執るので、吉太郎は仕方なく見物に回っていた。海面は波のほかに何も見えない。海鳥も頭上でゆったりと舞っているだけだ。やがてアモの手が上がり鋭く笛が吹かれた。
各舟から一斉に、イワシが杓で投げ込まれ、全員がその行方を追って海面を見つめる。ボニが上がってくるのを待つのである。一分、二分、三分ほどして、やっと波間に浮いてくるのが分かった。一番近い舟から二杯目のイワシが投げ込まれ、掬った海水がその上に撒かれた。全カヌーがそれに倣うと、海面はボニの群れで泡立ってきた。そこへ釣り役が錘のついた疑似針を投げる。針にはイワシを擬した羽毛が縛ってあり、食いついた奴を引っかけるのである。竿が撓るとボニが宙を舞って次々に舟の中に落ち、腹を虹のように光らせて跳ね回る。中には勢い余って舟を超え、また海に戻るのもいる。てんやわんやの大騒動である。
それも二十分ほどのことで、魚群の去った後のカヌーの上では、人々が虚脱状態で波に揺られている。五十センチもあるボニと同乗しているのを忘れたように。
アモの笛が響いて、我に返った舟が動き出すと見物の人々が笑いどよめいた。カヌーがリーフに穿たれた水路から、浅瀬に次々と寄せてくると、男たちが素早くボニを運び出し始めた。見事なカツオである。籠に十尾も入れると二人で運ぶのも大変だ。釣果は大小取り混ぜて、一舟当たり三十から四十尾、計七百尾ほどあった。
二回目の漁は中々始まらなかった。ボニが餌に反応しなくなったのだ。イワシの群れも今は近くにいないらしい。太陽が高くなって、この日の漁は終了となった。
浜では男たちが魚を処理するのに大活躍だ。カツオは足が速いので、ハラワタを取ったら海水で茹でるか焼いておく。内臓は犬と鶏にやるが、ぎゃあぎゃあとうるさい海鳥にも投げられる。
吉太郎はハラワタを塩辛に、清吉は片身を炙ってタタキにした。そんな生焼けのボニを食べるのか、と驚く村人にアモは何も言わずに笑っている。
村中に行き渡るボニが取れたからか、漁が一回だけなのは誰も気にしていない。それはボニ漁が実益を兼ねた娯楽であり、スポーツであり、宗教的儀式だからかもしれない。
翌日も同じように漁が始められ、吉太郎は釣り役としてラナのカヌーに乗った。半ば強引に頼み込んだのである。この日は二回目もすぐボニが浮いてきて、その後少し長く待ったが三回の漁ができた。
吉太郎は濡れた顔を拭いながら、清吉に近づいてくると、
「一本釣りはよ、ええ気分のもんだがや」と笑った。
「オレも今度は釣り役やったる。船頭はとろくせゃーでいかんわ」
水揚げはそれほど良くないが、九百尾はありそうだった。それを処理するのは男たちで、二枚に下ろす者、焼く者、茹でる者、煙で燻す者、日に干す者など誰もがいかにも楽しそうで、女たちはそれをただ笑って眺めているだけだ。
外にいる時はほとんど忘れているが、夜間屋内にいると、蚊やハエが増えたことに気付く。そんなことはお構いなしに、村中の男女が愛の交歓に夢中なのは、ボニが人々を興奮させているせいかもしれない。
吉太郎とアモも、シンを追い出して抱き合い、汗まみれの体を洗いに海へ入った。空は曇っていて暗いが、水浴する同類が何組もいるのが分かる。中には小声ではしゃぎ合っているカップルもある。アモが背中に水を掛けて撫でるのがこそばゆくて、吉太郎は思わず鳥肌が立つのを覚えたが、そんな自分が少しも不自然でなくなっているのに驚かされた。そして忘れるはずもない尾張の妻子が、ますます遠く手の届かない存在に感じられた。
清吉は闇の中で、ラナの腹部が自分の下腹に吸い付くのを感じていた。汗ばんではいるが、浅黒い体全体はひんやりして、その人形じみた触感が彼をどきりとさせる。
「ああラナ、ラナ」
清吉はそれ以上何も言えないで、姉のようなラナの体を抱きしめるばかりだ。
「セーキチ」とラナはそれだけ言うと、清吉の唇を強く吸う。指で広げられた褐色の襞の中に、清吉がボニのように勢いよく入っていく。
小屋の闇にはハエも蚊も舞っていたが、それらを無視するように、二人の喘ぎ声が肉のぶつかる湿った音と混じりあって続いた。二人にはその歓喜の瞬間だけが実存だった。
ボニ漁は一週間ほど続けられた。雨が降ると休みなので、実質五日といったところだ。人々は暑さには強いが、少し肌寒いと途端に元気をなくし、雨の日には外へ出たがらない。雨季を控えてどうするのか、と吉太郎たちは心配するが、一日中降り続くことはあまりないから大丈夫だ、とアモは言う。
漁が終わると、男たちの演奏する笛や木琴が祭りの雰囲気を盛り上げ、雲の多い空の下では踊りに興じる集団ができている。吉太郎はアモとシンと連れだって、清吉はラナと嬉しそうに、テンポの良い踊りを見真似で楽しんだ。旋律は単調だが、笛の音には素朴な哀愁が感じられた。そして祭りが終わると、また新しい年が始まったというように、人々は雨季を受け入れるらしかった。
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