出 航


翌朝は雲が広がり風もあった。季節が少しずつ動いているらしい。久六が広場へ出ていくと、溢れんばかりに群れていた人々は、夜明けとともに帰村してしまい、祭りの後の侘しさを身に纏ったカンヂたちと、それを遠巻きにした子供たちがいるだけだった。近づくと村長のババが彼を見たが、何とその顔は涙でぐっしょりと濡れている。ぎょっとして久六が他に目を移すと、カンヂをはじめとして泣いていない者はなかった。一番若いシジなどは、オイオイと声を立てて泣いている。なぜお前は泣かないのか、とコモに訊かれても久六には答えられない。男のくせになぜそんなに泣けるのか、彼はそう訊き返したいくらいであった。

しばらく泣きあった後、彼らは二位の赤いドクロを納めるべく、村長を先頭に村はずれの岩壁へ向かって行進し、子供たちが離れてその後を追う。石灰岩の壁に穿たれた石室の前に立った時には、もう誰の顔からも涙の痕は消えていた。一同はドクロを安置し、神妙に一年の安寧を祈った。誰彼の顔には、新年を迎える晴れ晴れした表情があった。

久六は昼寝前に太市の様子を見に行き、ドクロを納めたことなどを話してやった。

「褒美が頭蓋骨とは訳が分からん。それも宝物みてゃーに。気味が悪りーがね」

事情を知らない久六には解せないことだが、男たちの泣きっぷりも意外だった。

「何だってあげに泣けるかね、ワシなら悔しーても涙なんぞ出ーせんがや。そーでなて、嬉しいときにこそ泣けせんかね」と久六は同意を求めた。

 太市は右足を投げ出して聞いていたが、

「そう思やーすで。あの野郎にやられた足がまだこんなで、いくら悔しーても涙なんぞ出やせんが」と腹立たしさを表情に表しながら答えた。

 傍で聞いていたサラが、ここでは誰でも泣くが、女は男ほどではない、女の方が泣きたいことが少ないからだと言った。そういえば弟のロタは良く泣くと太市が同意した。あなたたちは泣かないのか、とサラが質問したので、久六と太市は顔を見合わせてから、泣かないと言った。サラは訝し気に、なぜだ、泣きたくなることはないのかと訊いた。そんなことはないが、俺たちは大人になると泣かなくなるのだと太市が言うと、サラは不思議な人間を見るような顔で黙ってしまった。

次の日の朝には、仮小屋や飾りものはきれいに片づけられ、広場はすっかり掃き清められていた。サンゴの白い砂が新たに撒かれた闘技場が朝日に映え、稽古が始められていた。久六の顔を見ると皆が挨拶をする。コモがバナナの葉を巻いている肘を見せて、もう少しだと言った。

久六は四股と摺り足で体を目覚めさせ、稽古の仲間に入った。大会では幸いメンバーに大きな怪我はなかったが、カンヂとシジ以外の三人はしばらく稽古を休むだろう、と久六には思われた。だが頭から落ちたマラマと、足を犠牲にしたミトは見物に回っていたが、モイはパンチのダメージが残っていないので久六の相手になるという。

あんこ型力士のようなモイでも、久六の体当たりや突き押しには歯が立たない。だがアルタラは相撲ほど体力重視ではなく、素早い蹴りやパンチや頸締めなどが主たる技なのである。

久六はモイを闘技場の外へ突き出そうとしたが、回り込んだモイは蹴りを高低交互に繰り出し、パンチも軽快に打ちながら動き回った。その攻撃は淀みなかったが、久六は受けた衝撃にいつもの力強さを感じなかった。だが小手から投げると、毬のように転がるところは、いつもの防御なので久六を安心させた。次に相手になったシジは、スピード一辺倒で逃げ回っているばかりである。さすがに疲労が残っているらしく、稽古は短時間で終了した。

体を洗ってカンヂの家へ入り込んだが、まだ昼寝の時間には大分間があった。いつものように、女房のサキが泥水のようなテを持ってきて皆で回し飲んだが、いまひとつ盛り上りに欠けた。大声で話はするが、何だか空々しい感じなのだ。カンヂとの会話も弾まないので久六は寂しかった。

気まずい空気が自分を包み込むようだ、と久六が感じていると、睨みつけるような眼をしてサキがやってきた。元来がきつい顔立ちのようだが、久六には初対面から愛想が悪いという印象がある。

「あんた、もうここへは来ないでくれないか」とサキはずばりと言った。

 久六は真意を測りかね、男たちのほうを見たが、彼らは会話に加わりたくない様子である。

「あんたがいると、マナが逃げて行ってしまう。それでニアはサロファに負けたのさ」とサラは続けた。

「マナ?それは一体何かね」と久六が不思議に思って訊くと、

「マナはマナさ。とにかくあんたはいないほうがいいね」とそっけない答えである。

 久六が頷いて見せると、サラは外へ出て行った。納得が行かない久六が、シジから何とか聞き出したのは、マナとは偉大な力を持つ精霊で、その機嫌を損ねては、万事が上手く行かなくなるというのだ。

「ここじゃあワシは、貧乏神ということきゃあ」と久六は、寂しくそこを引き上げるしかなかった。

 男たちがサキの意向を無視できないのは、フラガの暮らしは女たちによって成り立っている、という考えがあるからだろう。自分たちが何もせずに、ただ格闘技に現を抜かしていられるのは、女たちが働いて支えてくれるからだ。それで彼らは、アルタラ以外の事には干渉しないのかもしれない。

久六は昼寝をやめて、勇魚丸を見に行った。太市とも時々は一緒だが、一人でも来るから三日も間が空くことはなかった。この遭難を生き延びるため、仲間はそれぞれに生活を工夫しているが、久六にはアルタラに関わることと、勇魚丸を見守るのがそれであった。

だがアルタラから拒絶され、友情を感じていたカンヂも遠くへ去ったと同然の現在、彼にはこの小さな和船しか残っていなかった。

船中にぼんやり佇む久六へ、風が何か言いたげに吹いて過ぎた。季節が変わり目で、少し前から西風が強くなりだしていた。

日が落ちてから、久六は太市を訪ねた。丁度夕食時で、三人はバナナの葉に盛られた料理を囲んでいるところだった。薄暗い灯りの中でも、サラと弟のロタの表情が固いのが分かった。

「兄さん飯まだだったら、一緒に食べせんかね?」

 太市がそう言うと、サラもロタもそれがいいと同調して笑顔を見せた。久六は礼を言って仲間に入った。蒸し焼きにした白身魚は、塩味が良い加減で旨かった。バナナの燻製も上々の出来だ。サラは料理上手らしい。食べながら久六が話し出した。

「ワシゃアルタラにゃあ縁起が悪りーらしい。そんだでもう来んでちょう、言われてまったが」

 太市の耳にも噂は届いていたらしい。

「聞いただけんど、カンヂのカミさんが言やーたげな」と言う太市の声には怒気が感じられた。

「マナとかいうのがワシを好かんもんで、サロファに負けてまったと・・・・」

 久六は元気なくそう言った。

「サラの話聞いとると、マナってのは、狐憑きとか守護霊みてゃあだがね。迷信じゃと思やーすが・・・・」

 サキは幼いころから、気象を予測するなど、特異な能力を認められていたが、マナの気配を感じることも出来るらしい。それが本当か分からないが、信じている人は大勢いるとサラが教えてくれた。

「とろくせゃー、言うたって仕方んにゃあ。サロファに負けたんは本当なんだで・・・・」

 淡々を装った久六の言葉に、太市は何も答えられなかった。ロタも珍しく大人しい。四人はしばらく食べることに専念し、その後はどうでもいい話で時を過ごした。

翌朝、久六が勇魚丸の傍の浜に座っていると太市が来た。

「やっぱ来てりゃーしたか。こいつも今じゃ兄さんとおれしか気にせーせんで・・・・」

 太市が船を見に来たのは、タタにウミヘビを投げられて以来だった。

「足は治ったみてゃーだが?」と久六は太市が座るのを見てそう言った。

「痛みはのうなっとりますが、体が重てゃあて、えらいがね。まあひゃー良うならなかんで」

 太市はそれだけ言うと黙った。久六もそうかと答えただけだった。二人とも言いたいことはあるが、今切り出すべき話題なのかが分からない、というような沈黙であった。

西風が二人を撫でて吹きすぎ、薄く小さな群雲の下を海鳥が舞っている。見上げる視界にフラガ島は存在しない。

「太市、おいらこの島出ようか、勘考しよるが。お前どう思やーす?」

 しばらくすると久六がそう訊いた。太市は前夜の様子から、或いはそんなことを考えているかもと予想していたが、どう答えるか結論を出せないでいた。

「正直、分からせんで。毛唐の船が本当に来りゃあ、ここで暮らすいうのもええがね。来んけりゃ、骨埋めにゃーならんが・・」

「ワシにも分かれせん。そんでもここが監獄みてゃーな気になってまって。まっと他の場所へ行きてゃーと考えとるだわ。お前にゃサラがおるで、船待つのがええかもしらん」

 久六は「そんでも、おいらと一緒に行こみゃあ」と言いたいのを飲み込んだ。

船出してどこかへ行き着く目処はあるか、と訊かれても答えられない。吹き始めた西風に乗れば、かなり遠方まで行ける筈だ。その間には、何処かの島にぶつかるだろう。そんな頼りない見通ししかなかったのだ。

久六は一人での出航も考えたが、孤独に耐えられるかが不安だった。何日、何十日かかるか、或いは失敗するかも知れない。その長い昼も夜も、たった一人で持ち堪えられるだろうか?

久六は外見に相違して、優しいところのある男で、仲間を必要とする性格だった。久六の本音を言えば「太市、おいらと心中しよみゃあ」ということなのである。

太市は久六の顔を見ないで、海の方へ視線を投げていた。その頭にあったのは、サラと暮らしながら船を待つことの当否だった。

二人の生活に雑音が入り始めたのは、タタが現れてからのことだ。それまでも話題にはなっていたのだが、ゴシップ交じりの大騒動になったのはあれ以来だった。太市の耳に直接入らなくても、サラを見ているとそれが良くない噂だと分かる。その中には、サラは男を駄目にする女だというのがあって、その発生元はカンヂの妻・サキではないかと思われた。

「まっと勘考せんといかんがね。行くとなりゃあ色々準備せなかん。船の手入れもやらなかん・・・・」

 それを聞いて久六は安堵した。太市が同行してくれる可能性もなくはないぞと思ったのだ。

翌日から二人は、勇魚丸の手入れに没頭し始めた。苔の乾燥したものを集め、漆に似た樹脂も入手した。船はそれほど老朽化していなかったが、暇に任せた趣味のような作業で、細かい穴やへこみまで楽しんで修復していった。

「こりゃあ尾張を出やーた時より、立派になりゃーすで兄さん」

「ほんでよ、外板を赤土で塗ってまったらどぎゃーだら?」

「日焼け除けに、カヌーにやっとるあれきゃ?」

 二人の会話は何気ないものばかりで、肝心の出航には言及することがなかった。そして一週間経つと、勇魚丸はすっかり生まれ変わった。その間に村では、二人がここを出ていくらしい、という噂が静かに流れていた。サラは変わらず優しかったが、悲しそうにしており、ロタはアルタラを止めた太市と話すことが少なくなった。

「兄さん、この風に乗りゃー相当遠くまで行けーせんかね?」

 とうとう太市がそう言った。彼はサラに不満はなかったが、彼女がすでに自分を諦めているのを知ると、俄かにどこか遠くへ行きたい気持ちになっていたのだ。

「一日に五十里くりゃーは行けるかしらん、休まず吹いてくれりゃー」

 久六は、太市の気持ちがまだ揺れていると思って慎重に答えたが、目算した距離を考えると、どこかへ漂着できる可能性は高いという気がした。そこで言葉を継いだ。

「十日くりゃーで五百里、そんだけ行って何にも無ゃあとは思えーせんが?」

 太市はまじめな表情で聞いていたが、

「そう順調に行きゃーせんで、三百里でも大けな距離だがね」と微笑しながら感想を述べた。方角は東寄りになるが、確かに三百里も行って水ばかりとは思えない。どこか人の住む土地に着けるのではないか。

「いっぺん新平さんに訊いてみやーすか。東の方がどげーなっとるか、知っとるかもしれんで」

 太市の提案に久六も同意した。太市の気持ちが出航に近づいたようで嬉しかった。

翌朝、太市は早速マカトの新平を訪ねるために舟に乗った。西風の季節が終わらないうちに船を出さねば、と久六が急がせたのだ。

太市はマカトに着くと、アタロにも会わずにノッチ村へ向かった。彼も次第に出航の気持ちが強くなってきていた。

太市は昼近くに新平の家に着いた。新平は招き入れた太市に妻のカエを紹介した。ちょうど昼飯を始めるところで、三人は焼いたバナナとオレンジを食べた。後で茶が出たが太市には薬臭い味だった。新平が来訪の訳を訊くと、ここにいても望みがないので、いっそ勇魚丸で新しい場所へと考えているが、新平の考えや知識を参考にしたい、と思って来たのだと太市は説明した。

「本当に船が来るか、私にも分かりませんが、ここを出て行っても、同じような島に漂着できれば幸運だ、くらいの賭けですよ。私は賛成できませんね」

 太市には新平の意見は想定内だった。今の状況は、元々新平の考えによってできたものだ。彼が知りたいのは、新平の頭の中にある世界地図なのである。

「おれらの知りてゃーのは、こっから東の方がどげーなっとるかだで。お前さんの知っとるとこを教えてまえんきゃ?」

 太市の目は鋭かった。必死さが分かって、新平も突っぱねることができなかった。

「私の見立てでは、どうも赤道の上あたり、ジャワよりは東にいると思われます。ここから東の方角は、一千里ほどは島々があるはずで、その先は亜米利加まで二千里、何もない海でしょうか」

「つまり、一千里まで行かんで、どっか見つけなかんいうことかね?」

 太市の口調は、何か考えようとしてか少し大人しくなった。

「あるいは、島と島の間を知らずに通過することもありえます。そうなったら亜米利加しかありませんよ」

 太市が考え直しはしないか、と新平はそう言ってみたのだが無駄だった。

「今吹いとるのは、最高の風なんだに。えー帆布を用意しとるで、北でも南でも自在に行けやーす」

 太市の顔はまるで諦めていないと言っていた。

「では尾張からは遠くなりますが、南へ向かって行くのが良いかもしれません。島も多いから見逃す危険は少ないでしょう。もちろん保証はできませんが」

 新平はそう言ってやるしかなかった。危険を冒して出航しても、精々ここと同じような島に着くか、運が悪ければ勇魚丸と共に藻屑と消えることになる。それでもこの人は出て行きたいのだろう。

太市は満足そうな表情で、細かい注意を新平から受けた。方角は真南でなくてもなるべく南へ向けるようにとか、太陽の位置や星座の形や方角についても教えられた。新平はそれらを、自作のごつごつした紙に描いてやった。

泊っていけという新平を振り切るように、太市は傾きかけた太陽の光を浴びながらフラガへ向かった。早く久六の喜ぶ顔が見たかった。忘れていた漁師の血が騒ぐ気もした。

帰り着くと久六が来て待っていた。太市が新平の「行くなら南方が良い」という意見に従いたいと言うと、その理由を聞いて久六も同意した。肝心なことは、ここを出て行くことなのだ。

翌日も朝から西風が吹いて、勇魚丸の上空を飛んでいく雲が眺められた。船上には久六と太市が座っていたが、前日までとは裏腹に元気がなかった。それもその筈で、出港に向けた準備を開始するつもりが、水や食料を調達する当てさえなかったのだ。二人には買い集める資金も、交換すべき財産もない。もっともここは貨幣がなく、物々交換の社会なのだが。

「ワシらが必死に働りゃーて溜めるとしても、まあ一年待たなかんいうことだわ」

 久六はそう言ったが、太市にも返す言葉はなかった。

昼飯に帰った太市と久六がしょげていると、どうしたのかとサラが訊いた。太市が事情を話すと、ババかカンヂに相談してみたらとサラが提案した。

他に当てのない二人は、まず村長のババを訪ねた。太市の計画を聞くと、ババは頷いて分かったと答えた。彼は出航を予想していたらしく驚かなかった。久六が言いにくそうに、実は水と食料を集めたいのだが、どうすればいいだろうかと切り出すと、ババは、それは心配ないから任せろ、と請け合ってくれた。

二人が勇魚丸の傍で話していると、カンヂを先頭に男たちがぞろぞろとやってきた。久六はそれを見ると胸が疼いた。

「クロ、お前たち行くのか?来た時もいつかいなくなると思ったよ」

 黙って頷く久六をカンヂは抱きしめたが、まるで子供が親父に抱きつくような格好だった。

ひと月の航海を目当てに準備したい、と太市はババに言ったが、品物の指定はしなかった。好意に甘える以上、とりあえず任せるしかない。

その日のうちに、ヤシの実が六十届いたが、それだけで飢え死にしないで済みそうだった。子供たちが遊びながら、それを船へ積み込んでくれる。これで出航が現実になった、と思うと二人は武者震いしそうだった。

翌日には布やバナナの繊維、屋根葺きの草なども運び込まれた。乾物類は量が足りず他村から取り寄せるので明日になる、とババが説明するので二人は恐縮の体であった。

夕刻、カンヂの家で歓送会が開かれ、ババや長老、アルタラの男たち、女性も何人か出席した。ババは、二人がここへ来てくれて嬉しかったが、やはり自分の国が恋しいようだ。どうか無事に故郷へ帰れるように祈っている、と挨拶した。人々もそうだそうだと同意して声を上げた。

久六は涙ぐみながら、二人が来てからの世話や親切に重々と礼を述べた。そして、今回の船出に対して、なぜあなた方はこんなに援助してくれるのかと訊いた。

それにはカンヂが、

「あなた方は、先祖の国から来た兄弟ではないか、手伝うのは当然のことだ。俺たちはまた戻ってきてくれるのを待っているぞ」と少し照れ臭いような表情でそう言った。人々はこれにもそうだそうだと同意した。

それから酒やテが皆の心身を揉みほぐし、座は無礼講のように乱れていったが、久六はカンヂとヤシ酒を酌み交わしながら、サキの視線を感じて寛げない気分だった。

翌日の午後には、二人の想像を超える品物が、子供たちの手伝いで船に納められた。それは、乾燥バナナ、ヤム芋の粉末、干しエビ、干し魚、オレンジ、水を詰めた竹筒などで、勇魚丸に乾物屋と八百屋が開店したようであった。

二人は翌朝に出港すると決めた。久六はカンヂの家で夕食を摂り、別れを控えた胸の内を隠して話し合った。カンヂはまたいつか逢えると思っている節があった。一度来たのだからまた来れば良いではないか、というように。同席したサキはあまり喋らず、表情にも敵意が見られなかったので、久六は拍子抜けしてしまった。

太市は盛大に用意された料理を前に、サラとロタに明日の旅立ちを告げた。久六と太市がここを出て行くらしい、と噂が流れたころからロタとサラは口数が減っていたが、この夜は涙を流しつつよく喋った。二人が交互に何か言うので、太市は意味が良く分からず困った。

夜更けて寝る時刻になったがロタが離れない。どうしたものかと思っていると、二人が口論を始めた。オイオイ泣きながら言い合うのだが、太市には二人が珍紛漢である。それでもやがてロタが出て行った。

幾日振りかに抱くサラは、熱く汗ばんでいた。太市の全身は昂ぶって、別れの切なさが腕に力をこめさせ、一気に突き進みたい欲望が漲ってくる。太市は自分の命の一滴を、サラの肉体の中心に届けたいと願う。

「ああサラ・・」「タイチ、タイチ」

二人はもつれ、喘ぎ、うねり、回転し、激しく動きあった末静まった。しとどに濡れた二人の身体は、闇の中にすえた体臭を発散しながら、かすかに鈍く光って動かなかった。


夜が明けると、人々は勇魚丸のところへ集まってきて、久六と太市が帆柱を立てるところを、お祭りさながら大騒ぎで見物した。それが済むと、羊羹にたかる蟻のように群がって、船を水際まで移動させた。

水際にはサラとロタ、カンヂらアルタラの仲間など、二人と親しい者が神妙な顔を揃えていたが、その背後の人々は皆笑っていた。太市はサラとロタを抱き寄せ、久六がカンヂを固く抱擁する。久六はカンヂの頭上で、涙の出かかった目を風に向けた。

二人が船に上り深々と一礼すると、群衆のざわめきが歓声に変わった。

「太市、用意はえか?」

「いつでもええがね、行こまい」

久六が合図すると、男ら何人かが船を水の上へと押し出してくれ、太市が帆を半分上げて風をはらませると、ゆっくりとだが確実に勇魚丸は動き出した。二人が手を振ると人々も大声でそれに答えた。

やがて浜からは、久六も太市も肉眼では捉えられなくなった。島の布で作った黄色味を帯びた帆が、ぽつんと勇魚丸の在りかを示していたが、それも景色に溶けるように消えてしまった。

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