語り部モサ、かく語りき


マカトでは、新平がカエと結婚することを決意し、ナミシの音頭取りで盛大な披露の祭りが行われた。広場では枯れヤシの松明が天を焦がし、夜を徹して人々が囃子に合わせて踊った。

新平は、フラガやオカンで今の環境に順応しつつある仲間を見て、気持ちの整理をつける時期かもしれないと思った。ナミシの話では、随分と昔、西風に乗って別世界へ行った人たちがあったが、帰った者はないと伝わるという。その人らの運命は知る由もないが、無謀な行為ではなかったのか。今はここで待ち続けるのが最良の方法なのだ、と改めて自分を納得させたのである。

新平はカエに触れたことがなかったが、初夜を迎えて自分の知らない一面が現れた気がした。それは、自分が意外に好色な男だということであった。尾張でもお夏という恋人があり、幾夜も床を共にしたことがあったが、カエの肉体に執着する気持ちは、そうした経験とはまるで違っていた。カエはひっそりと謎めいていて、初めて逢ったときと変わらないが、肌を合わせると、その奥にさらなる秘密があるような気がする。彼はそんなことを思う自分が新鮮な驚きだった。

新平は、この地域の伝承を文字にしてはどうかと考えていたが、いよいよその時が来たような気がした。そしてそれは、これからの生活の張り合いになるだろう。

必要なのは紙と筆と墨だ。新平は記憶の箱を探ってみたが、やはり紙の製造が難しそうだった。良いパルプを得るのも、漉きにも技術と時間が要る。だが原料は草木だし時間はいくらでもある。文句を言わなければそれなりに出来るだろう。

新平が森へ入って、木の皮探しを始めたのを知ると、早速プイが仲間を連れて合流してきた。少年たちは紙を知らないから、布を織るための樹皮を剥いてくれたが、それは上等な紙が漉けそうな原料だった。

樹皮は細かく切って煮ると少し柔らかくなる。それを丸木舟に入れ、その上に木灰を載せて水を注ぎ、一週間ほど日向に放置する。それを取り出し、叩いて柔らかくしてからまた灰汁に浸けて放置する。これを繰り返すと、日光と灰汁で漂白されて紙パルプとなる筈であった。

新平はプイたちの協力を得て、日の当たる所へ原料を入れた丸木舟を置いた。この奇妙な作業は村人の興味を引いたが、しばらくすると誰も気にしなくなった。

ここでは油を灯火に使っているから、その煤を集めて魚のゼラチンに溶かせば墨になる。筆は持っていたのがまだ使えるが、竹の先を叩いて繊維状にしても代用できる。新平はそんな思案を巡らせながら、カエとの暮らしを楽しくしようと心がけていた。

村には語り部が五人ほどおり、それぞれがあちこちで、人を集めては伝承を語っていた。聴衆は年配の男女と子供がほとんどで、年配者には娯楽だが、子供にとっては学校のようなものらしかった。

モサという老人が一番だとカエが教えてくれたので、ある日新平はその人が語る場へ、プイと愛犬のトトと一緒に出かけて行った。早朝の涼しい草の上には、すでに三十人ほどの子供と大人が腰を下ろしていた。人々の中心には、腰巻姿に肩から布を垂らした柔和な表情の老人が座っていたが、その頭を包む縮れた白髪と浅黒い顔には威厳があった。

老人の両手が上がって人々が静まり、語りが緩やかに始まった。その声は抑えられたチューバの、低いがよく響く音楽のように周囲に広がっていった。

「テスラという姉がおった。その弟が二人いて名をアロンとウスという。テスラは美しく賢く、アロンは穏やかだったが、ウスはとても乱暴者だった」

 これは、この地域の先祖が空からやってきた、という伝承の冒頭で、アロンがマカトに、ウスがフラガに、テスラがオカンにそれぞれ国を建てたというのが、多少の違いはあるが、三つの島で信じられているという。だがモサの語りは、そうした言葉の意味を超越し、旋律の如く新平の胸に響いた。そしてその音楽的な魅力が、口承を支えている大きな力なのを知った。

モサの語るところでは、三人は神ではないが高貴な身分にあり、船に同乗してきた人々を三つに分けて定住することになったが、島の割り当てを巡ってアロンとウスが争ったので、兄のアロンに一番大きなマカト、弟ウスにフラガ、姉の自分がオカンに行く、と兄弟をなだめたのであった。

そこまで来たところでモサの語りが止まり、柔和な表情で子供たちを見回すと、

「アロンに従ったのは、何人だったかな?」と問いかけたのである。

 暫くざわめきが続いたが、やがて一人の少年が立ち上がって叫んだ。

「九十人です」

「その通り。ではウスに従ったのは?」

 モサがそう問うと、再びざわめきが起きたが、今度も同じ少年が答えた。

「八十人です」

「よろしい。フラガでは九十人と言っているようですがね」

 モサは満足げに微笑んで見せた。少年が腰を下ろすと、語りが再開し一時間ほどで終了となった。

プイによれば、モサの質問に答えたのは同年の友達のエナだった。

「答えをお前は知っていたのか?」と新平が訊くと、プイは困った顔をして首を横に振った。

「駄目だなあプイは」とさらに言うと、泣きそうになりながら逃げていった。

後でその時のことを聞いたカエは、何か言いたげに新平を見たが黙ったままであった。

一週間ほどして、樹皮を舟から取り出すころには、墨のための煤も集まりつつあった。樹皮を取り出すと、予想より柔らかくなっていて、少年たちが石の上で叩いたものは、もうパルプとして使えそうだったが、慌てる必要がないのに気づいて舟に戻すことにした。

新平は村長のナミシを介して、モサと交友関係を結んだ。彼からは伝承の他にも興味深い話が聞けそうだった。

モサの家族は八人だが、妻はすでに亡くしており、息子夫婦やその子供たちとの同居だという。

ある朝訪ねていくと、彼は新平と同道したプイとエナを近くの大樹の下へ誘った。見上げると、鬱蒼とした葉の間に泰山木に似た白い花が見え、その金色の花芯から放たれる芳香が四人と一匹を包んだ。

「これはアロンの樹というのじゃ」と新平がうっとりしたのを見てモサが話し出した。

「アロンは競争を好まなかった。人は同じものを求めるから争う。皆がそれぞれ違うように、求めるものも違っているはずだと。この樹の下では、誰も口論する気にはならないじゃろ?」

 確かにそうかもしれない、と新平は同感した。そしてモサが意図しないでも、彼の言葉がおのずから子供たちを教育しているのだと思った。そうでなければ、狭いとはいえ自分たちの社会を分析できる、モサのような知性的な人間は現れないに違いない。知性を高めるには子供たちの競争も必要だろう。そこで新平は学校と学問について、モサに訊いてみることにしたが、その答えは意外なものであった。

「子供たちはすぐに大きくなる。そして二度と戻ることはできない。途中で死んでしまう者も多い。なぜ同じところに集めて、無理に同じことをさせるのかな?」

 モサによれば、語りを聞く子供の中には自然と記憶力の良い者が現れるから、特別の指導などは必要ない。子供は自由に遊ぶだけで良いのだという。

文字も貨幣も持たず、食料に不自由しない社会では、一切の競争が不要なのだろうか。そういえばプイが子犬を欲しがったとき、新平は子供を甘やかすのは良くない、とナミシを責めたがそれは見当はずれで、プイが伝承を知らないと指摘したのは、要らぬお節介ということになる。ここでは「子供は大人の親」らしい。

しかし子供の自由に任せて何の制約も加えず、時には不当な要求にまで応える、というのは理解不能だと新平は思う。尾張でも子供は可愛がられているが、決して無制限に甘やかしはしない。程度の差はあれ、必ず「シツケ」を経験する。我らは子供を「小さい大人」と見ている。大人になったとき、世間に適合できるようにと。そうか、ここには弁えねばならない世間などないのか、と新平はそんなことを考えていた。

「ウスは闘いを好んだ。フラガの首狩りの風習も、ウスが始めたとされておる。人が増え過ぎたからという者もあるが、違うじゃろう。病でも多くが死ぬのじゃから」

その風習に代わって始められたのが、格闘技のアルタラだという。村同士で首を獲りあっていては、共倒れになると分かったのだろう。それまでは、持っている頭蓋骨の数で男の価値が決まったのだとモサは言った。

「人の中には、そんな心も隠れておるのかな・・・」

 モサはゆっくりと、新平が理解しているかを確かめるように続けた。プイはトトの頭を撫でながらよそ見をしていたが、エナは音楽でも聴くように楽しげだ。

「男と女の違いは何でしょうか?」と新平が訊くと、モサは微笑みながら答える。

「女は子供を産む。違いはそれだけかな。仕事も同じようにできる。マカトでは男の力が少し勝るが、フラガやオカンでは女が暮らしを支えておる」

「元は同じ人たちなのに、なぜ島ごとに違っているのでしょう?」

 この問いは、新平が最も知りたいことだったかもしれない。

「姉テスラと弟たちの仲は良かったが、それぞれ好きなように国を作ろうと考えた。それが今も続いているのじゃな」

 モサの答えはあっけないものだった。新平はそれを聞くと、三つの島は交流しているのに、なぜ同じにならないのだろうとさらに問うた。

「ワシはマカトが好きじゃが、どこが一番良い暮らしかは分かん。みなが自分の島を気に入って、それぞれのご先祖を大事に考えているからじゃろう」

 モサはマカトの語り部だが、フラガとオカンについても通じていると思われた。伝承が同じ先祖を始原とする以上、各島ごとに多少の異同はあっても、大筋では同じ物語が伝えられている筈だ。そこで新平は、オカンに国を建てたテスラについて、

「テスラはなぜ、オカンをあのような国にしたのでしょう?」と訊いた。

 モサは頷いた後でまた話し出した。

「いつかオカンでも聞いてみるといい。私の話はこうじゃ。オカンにはサンゴ礁の間にとても深い水路があって、いくら潜っても底が見えないほど深いところでな、そこには魚が群れを成して泳いでおる。そこへは今でも年に何度か、虹色の魚が小魚を追ってやって来とる。

 テスラには優しい夫と男の子があった。テスラはたくましい女じゃったから、家族みんなでその魚を取ろうと舟を出した。それは美しい魚で、夢中になってカヌーの中へ釣り上げておったが、あまりに多くの魚でカヌーが沈んでしもうた。父親は子供を助けようと必死だったが、そこへ大きな灰色の魚が噛みつきおった。そいつは恐ろしい歯を持ったヤツで、とうとうテスラだけしか助からなかった。

テスラは嘆き悲しんで、それ以来男は海にも山にも出さないことにしたということじゃ」

 モサの語りは、小声のようでいて良く通り、新平の身体に沁み入るようだった。

モサが次は何を話そうかという顔をしていたが、新平は、今日はここまでにしておきますと言って礼を述べた。楽しみはこれからゆっくりと味わいたい気持ちだった。別れるときモサは、今度はあなたの国のことを聞きたいですな、と言った。

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