アルタラの島、フラガ

アモの用意してくれたカヌーで、清吉がマカトへ渡ったのは夕刻だった。懐かしいアタロと抱き合うと、故郷へ帰ったような気がして複雑な気分になる。新平はもういなかったが、一晩をそこで過ごさないではアタロが承知しないし、清吉も同じ気持ちだった。その夜は前にいた家で、懐かしい人々の歓迎を受けたが、夜更けて寝る段になると部屋の大きさが寂しかった。

翌朝、清吉はアタロら数人に、藁草履の履き方を教えて反応を見た。いつもは裸足のためか、足の裏がくすぐったいという者はいたが、多くはそこらを歩き回っているうちに気に入ったようだった。

「村の人々がこれを使ってくれれば、オカンが助かるので、みんなに広めたい」

 清吉がそう口説くと、アタロは笑いながら丸い腹を叩いて頷いた。マカトでも草履は受け入れられそうだ。清吉は安堵して三十足を渡すと、彼が付けてくれた若者と共に新平のいるノッチ村へ向かった。

着いたのは昼前で、耐え難い暑さを避けて人影がなかった。それでも昼寝より遊びだという子供から、新平の家を聞き出すことができた。

家は村はずれの、ヤシの木越しに海が臨める丘の上にあった。

「新平さん、いりゃあすきゃ?」

 清吉が簾越しに声をかけると、人の動く気配がして、ややあって新平が出てきた。

「よく来ましたね。さあ入って、入って」

 そう言いながら、腰巻姿の新平が簾を上げると奥に少女の姿があった。

「これはカエといって、色々と世話をしてもらっています」と新平は清吉の視線に応えてそう説明した。

 カエはマカトの少女にしては細身で小柄だった。目を除けば鼻も口も小さく幼く見えるのだが、どことなく外見にそぐわぬ謎めいた雰囲気をまとっている。

清吉がオカンでの暮らしや、吉太郎が来なかった訳を話すと、新平は感心して「親方は良いことを考えましたね」と褒めた。そして一人でここにいるのは、やっぱり寂しいものですと打ち明けた。

「無性にきしめんが食いたくなって、ここの澱粉でやってみたんですが、どうしてもコシが出ないんですよ」

 新平はそんなことを言った。清吉は船の賄(まかない)だったが答えに困った。

「おいらも小麦粉のしか知りゃあせんが、芋やヤシじゃあコシが出にゃーかね?」

 思い出すとたまらなく食べたくなるが、どうしようもない。お互いに笑いあうだけだった。

その夜、新平と清吉は遅くまで話し込んだが、その間もカエは隅でじっと置物のように座っていた。新平によれば、カエは十四から三年間巫女として過ごしたばかりで、その三年は神聖な存在として、村人から崇められながら窮屈な生活を強いられ、終わると有力者の嫡男と結婚するのが通例らしいが、村長のナミシから嫁にと押し付けられたというのであった。

「何しろ私たちは、ご先祖の国から来たと思われているからね」と新平はまんざらでもない顔で笑った。

清吉はこの時まで、自分たちがそういう存在だと知らなかった。だからどこへ行っても歓迎されるのか合点がいった。

夜明けとともに、ナミシの息子プイがやってきた。初対面の清吉ともすぐ打ち解けて片言の会話を始め、新平たちがフラガへ行くと知ると自分も連れて行けと言う。駄目だと断ると駄々をこねる。例によって子供の特権を持ち出したのだが、新平にそれは通じない。さすがにプイも諦めざるを得なかった。

藁草履はナミシたちの好奇心も刺激したようであった。ここでも使ってくれるなら、オカンの人たちは喜んで作るだろう。そして島と島の交流もより盛んになるに違いない、と新平はナミシたちに訴えた。ナミシが頷いていたから、どうやら意思は伝わったらしいと清吉は思った。

出発の時が来て、新平がカエに耳打ちをするのを見ると、清吉は少しうらやましさを覚えた。それで素直な気持ちでこう言った。

「可愛い娘だがね。あんばようしてりゃーすで、寂しいことありゃーせんが」

 新平はそれを聞くと、照れと困惑の混じった複雑な顔を見せた。この先どうしたらいいか、彼にもまだ分からなかったのだ。

二人は従者を連れてノッチ村を後にし、アタロの村へは昼前に着いた。そこからカヌーでフラガへ向かったのは夕刻であった。涼しい風が吹く海上を、漁帰りのカヌーが滑って行く。新平たちのカヌーを見つけると、フラガの逞しい女たちの声が、お祭り騒ぎのように飛ぶ。オカンの女たちも元気だが、フラガでは男と競うような強さが持ち味なのだ。


ニア村で迎えてくれたのは久六だった。今は太市とは別に住んでいるという。久六が親しいカンヂから聞いたところでは、太市の恋人サラには恋人があったが、今は行方知れずになっている。ある娘に夜這いを掛けたのがばれて、村を逃げ出したのだ。カンヂは良くあることだと笑っていたらしいが、久六は太市にはまだ話してないと言った。

「娘を捕まえたか捕まったか、鼻の下伸ばして、たあけらしいが」

 それを聞くと清吉はにやりとしたが、新平は何も言わない。二人は久六の家に泊まることになった。誰かが知らせたのか、太市はすぐにやってきた。

「やっとかめだぎゃあ。親方元気にしてりゃーすきゃ?」

 太市は先手を取って喋りだし、次から次と新平たちを質問攻めにした。清吉はオカンでの生活を話し、新平はノッチ村のナミシから仕入れた伝承を交え、暮らしのあれこれを語ったが、カエのことには触れなかった。

 伝承を聞いた久六と太市は、そう言われればそうかも知れんな、と半信半疑な顔だった。

「兄さんにゃとろくせゃあ言われとるが、サラいう娘と住んどる。ここは開けとるで、何も心配しんでええがね。あんばようやっとるで、親方にゃ、うみゃーこと言ってまえんきゃ?のう清吉」

 太市はどこまでも陽気だった。日焼けした艶のある体に、腰巻姿で髪も結わないでは、村人との違いはもう言葉だけかもしれない。誰もが時とともに、この土地に馴染みつつあるようだった。

「太市兄さんも、新平さんも、ご発展で結構だけど、尾張へ帰るときゃ、どうしやーすきゃ?おいら知らんで」

 清吉は何気なくそう言ったが、聞いていた三人は不意打ちを食らって、うっと詰まった。彼らがマカトへ上陸してから、すでに二ヶ月以上経つが、その間帰りたいという思いは誰もが忘れていない。だが手段が掴めない中で考え続けていては、頭がおかしくなりそうで、現状と折り合いをつけながら暮らしてきた彼らの胸を、清吉の言葉が突いたのである。

翌日、久六は夜が明けるとすぐ新平と清吉を広場に連れ出した。すでに格闘技・アルタラの稽古が始まって、あちこちに男たちの組み合っているのが眺められた。

「やあ、久六兄さんもやりゃーすきゃ?」

 久六がヤシ油を胸に塗り始めると清吉が叫んだ。尾張で久六が大関級だったのを清吉は知っているが、日焼けして艶のある体はそれを思い出させた。

そのうちに太市も少年を連れて現れ、弟分のロタだと新平たちに紹介した。ロタは二人には話しかけても通じないと思ったのか、太市の腕を取ってじゃれあいながら行ってしまった。

久六は四股を踏んだり、すり足を繰り返したり準備に余念がなかったが、大将格のカンヂが姿を見せると、自分は動きを止めじっとそちらを凝視しはじめた。久六の顔は喜びに満ち、胸の鼓動も高まっていくように見える。

カンヂも入念に準備運動を続け、やがて全身が汗と油で光ってくると、

「クロ、一丁やるか」というように手招きし久六を誘った。

 闘技場の真ん中で組み合っていた男たちが気づいて場所を空けると、カンヂは真ん中で両手を広げ「いつでもいいぞ」というようにポーズを決めた。そこへクロ、クロの大合唱が起こって新平たちは驚いたが、すでに二人の対決は人々の楽しみになっていたのである。

久六は五メートルほど離れ、ぶちかましのタイミングを計る。カンヂにはそれが効果的なのだ。だがまだ距離がありすぎる。久六がすり足で迫ると、カンヂは後退し回り込んで逃げる。やがて久六が突っ込んでいったが、カンヂは闘牛士のように回り込んで避けると、素早く相手の腕を捉え、足を首に絡みつけて、久六の動きを完全に封じてしまった。それは野牛の首に噛みつく黒豹を思わせた。

久六の顔が赤くなり、息ができるかと思われたが、何故かうっとりとした表情である。カンヂは、久六が参ったと合図をするものと思っていたが、そのうち相手が失神しているのに気づいた。

「クロ、どうした。クロ、大丈夫か」というようなことを言っていたのだろう、カンヂは拳で久六の胸と背中を叩いたり押したりしていたが、やがて久六が意識を取り戻すと安心したように笑った。久六はカンヂの腕の中にいるのに気づくと慌てて起き上がったが、自分の顔が恥ずかしさと嬉しさで上気しているのを感じていた。

 静まり返っていた広場に、話し声と笑い声が戻り、久六の健闘を称えるように、男たちが背中をピタピタと叩く。彼らはカンヂの強さを誇らしく思いながら、安堵もしていたに違いない。彼らに比べれば、久六は破格の肉体の持ち主なのだ。

その時ふいに冷たい風が吹いて、汗まみれの体をぞっとさせたとみるや、シャワーが視界を遮るほどの強さで襲ってきた。広場は歓声と雨音が交じり合って、唸るような響きに満ちる。子供たちも犬も走り回り、小屋の中で働いていた女たちも、皆外へ出て雨に打たれながら笑う。新平と清吉も雨の中で大声を出していたが、まるで話は通じなかった。それでも声を出したい気持ちになるのだ。

「雨はでらええがね。オカンじゃ雨が大事な飲み水だで、みんな集めるに大騒動だぎゃあ」と小降りになってから清吉が言った。

 雨は十分ほどで上がり日が差し始めると、蒸し暑さが広場に満ちてきた。すると人々はたちまち木陰や屋根の下へと引っ込んでしまう。女たちは仕事に戻るが、男たちは昼寝に早いと思えば各々雑談の輪を作る。

久六がカンヂの家へ行くというので新平と清吉も同道した。カンヂの住居はアルタラの第一人者らしく、母屋に三つの小屋が付属した立派なもので、小屋の一つではカンヂの妻が近所の女房らとマットを織っていたが、車座になった男たちのためにテ(茶)を運んできた。妻はこの島でよく見られる、目が大きくて浅黒い豊満な女でサキといった。

テはある種の木の根を煮出したもので、軽い幻覚を伴う興奮作用があり、疲労回復にも効く村人の嗜好品である。一見泥水のようなこの茶は、催眠の効果もあるという。勿論大人だけの飲み物で、十八になるまでは禁止だった。

雑談しながら、ヤシの実の椀でテが回し飲みされ、飲んだ清吉は気分が悪くなるのを感じた。

「新平さん、おいら何だか吐き気がしてきやーた」

「テってやつは、人によって効き目が違うようですよ。私にはまるで苦いだけです」

 テにする木根を産しないオカンでは、テは常用されず、儀式用として薄められたものしか、清吉は飲んだことがなかった。二人は部屋の隅へ這っていった。久六は上機嫌で、喋りながら盛んにおだを上げている。

「久六さんは、ここの大将と気が合うようですね」と新平が言った。

 久六が倒れこんでカンヂに抱きつき、二人はごろりと横になって笑い合っている。その周りにいる男たちも、概ねハイになっているように見えた。新平と清吉を除けば、激しく運動した者ばかりで、やがて静かになったと思うと皆寝てしまった。

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