ここは、どこ?

 最初に目を覚ましたのは、一番若い清吉だった。寝転がった目に青空が眩しく、日の光が灼けるように肌に痛い。ぶらりぶらり揺れる船の中で起き上がってみると、海の色が見たことのない緑色に輝いている。まだ夢の中にいるのかと思った。周りには倒れたままの四人がいる。清吉が起こそうとする前に吉太郎が意識を取り戻した。

「何がどうしたんでゃー?みんな大事にゃーか?」

 吉太郎は言いながら、近くにいた太市を揺り起こした。久六と新平も続いて目を覚ました。五人はお互いの顔をしばらく馬鹿のように見合っていた。

なぜか船は破損を免れ、小山のような岩陰で穏やかな波に揺られていた。頭上にはヤシが三本緑濃い葉を広げている。

「でら暑いが・・・・」と久六がやっと声を出したが、その後が続かず周りを見回している。

「風で八丈辺りまで流されてまった話はありゃーすが・・・」と吉太郎は言ってみたが、脳みそが働いている気はしなかった。

 吉太郎の言うのを待っていたように、皆がてんでに話し出したが、言葉をぶつけ合うばかりでまるで意味のない会話だった。焼けて赤くなった顔に、じっとり汗をかいた男たちのやり取りは、しばらく続いてやがて落ち着いてきた。すると新平がこんなことを言い出した。

「土佐から鳥島という孤島まで流された人があった、と聞いたことがありますが、ここは或いはもっと南のような・・」

 それを聞くと、

「何を言ってりゃーす、そんなたーけたことがあらすか」と太市が憤然とした。

 新平は気圧されたが、

「訳は分かりませんが、そんな気が・・」と小声で呟いた。

 ちょっとの間皆黙った。

「うーん。どえりゃー遠くまで来ちまったゆうこときゃあ」と吉太郎が言った。

 訳の分からぬ久六は、裸になると海へ飛び込み、それから岩を登って行った。

 四人はそれを見るとすぐに後を追った。岩の上は椰子が日陰を作り、涼しい風も吹いている。見渡すと近くには同じような岩がいくつかあるだけだった。しかしその広い海原の彼方に、黒ずんだ陸地が五人の目に捉えられた。

「一体どぎゃーなったと思やーす?教えてまえんきゃ、親方・・」清吉は涙声である。

「泣くな清吉、無事で良かったがや。まずは、あれに見えとる陸めざして行こみゃあ。ひょっとすりゃあ人がおるかもしれんで」

 吉太郎がそういうと皆が頷いた。他にどうすることが出来るだろう。

「腹が減ってたまらんがね、清吉よ何か食わせてちょう」と久六が空元気な声を上げると、場の雰囲気が少しは和むようであった。

 船に戻って調べると、さすがに帆布は失われたが、道具類はあらかた残されていた。炊事道具も残っている。大事な櫓も一本あった。

清吉は大急ぎで飯を炊き味噌汁を作った。それをバカ貝の煮シメで黙々と食べる。米の飯がこの先いつまで食べられるのか、という考えが誰の頭にも浮かんでいた。

「でら旨かったがね。清吉おおきに」

 食べ終わって太市が言うと、皆が同意の声を上げた。日が傾いて時刻は午後に入っているらしい。

「そろそろ行こみゃあ」

 吉太郎の声に一同が動き出す。櫓はまず久六が手にした。帆を欠いていたが波が穏やかで潮流も弱く、ゆっくりだが船は着実に進んだ。陸地は次第に大きくなりつつ、青から緑へと色を変え、やがて樹木が個別に認められてきた。ヤシだけでなく、豊かな枝を持つ木々が間隙を緑の闇に塗りこめている。その上方は薄い雲が掛かって山頂らしきものは見えなかった。陸に近づくにつれ、サンゴ礁が現れて海は浅くなる。船が寄せやすい所を探して行くうち、小さな入り江があった。

「よしここが良さそうだが。わしと交代しやあ」

 そういうと久六が清吉に代わって櫓を握った。わずかに緑がかった澄んだ水の中には、赤や青や黄色の魚が乱舞している。砂浜は砥の粉のような薄茶色で、その向こうには草地が広がっている。その草の中に、横たわっている人影らしきものが見えた。

「あれは人じゃないんけ?」

「どれどれ、おおそうだがや」

 久六は漕ぐのをやめて吉太郎の顔を見た。

「人がおるってこたあ良かったがね。さあ上がるまい」

 船を浜につけると、五人は静かに上陸した。乾いた砂の上は焼けつくような熱さだ。裸足のままで下りた太市が「あっちん、足の裏焼けずってまうわ」と声を上げると、

「たあけが、静かにしやあ」と久六が小声で叱った。十米ほど離れたところに寝ているのは男の子のようであった。

「久六、あんばよう起こしたって」吉太郎が小声でいうと、

「いやいや、こりゃあ新平の出番だがや。なあたのむわ」と久六は声を落として新平の顔を見る。新平はしょうがないなという顔でそっと近づいて行った。

 少年は鼠色の猿股のようなものを穿いて、もじゃもじゃの頭髪とすべっこい褐色の肌をむき出しにし、膝を少し曲げた横向きの姿勢で草の中に眠っていた。新平はしゃがみ込むと男の子の肩に手を掛け、

「もしもし」と耳元に声をかけた。

 少年は横になったまま、目を開けて新平の顔を見た。金目鯛のような眼玉が飛び出しそうになっている。そして身を起こして五人の男らを見た。口は開けたが声が出てこないらしい。それはどのくらいだったか、何秒かのことかもしれない。

「アウアウアウアー」

 彼はそんな叫び声を上げると、猛スピードで森の中へ走りこんでいった。

五人の男たちは、唖然として少年を見送っていたが、この地が人の住む所であることはこれで分かった。とすれば次の問題は、住民がどのような人々か、友好的か否かということだ。

「この辺りで待つことにしよみゃあ。あの子が大人に知らせりゃあ誰か来るだら。その結果でどうするか決めたらえーがね」

 吉太郎はそう皆に語り掛けたが、誰も何とも言わない。訳の分からぬ状況に突然放り込まれて、何とか陸に上がったもののまだ茫然自失の体なのだ。

日が傾いても、陽光の熱さはかなりなものだ。そして木陰の快適なこと、少年が昼寝をしていたのも頷けた。五人は同じように草むらに寝転んで青空を眺めた。想像したこともない景色の中にいる自分たちを怪しみながら。

一時間ほど経つと、森の奥がざわめき出した。五人が慌てて立ち上がると、人々が群れを成してこちらへ進んでくるのが見えた。やがて草地は、五人を取り巻く人でいっぱいになった。群衆は上半身裸の男たちと、子供や女性の姿も混じっている。人々は物珍しさに興奮しているのか、大きな目玉をキンキラ光らせていたが、危害を加える様子は見られなかった。人々の中に、やや年配らしい丸い体の男がおり、貫禄ある身振りからリーダーだろうと思われた。肌は茶色く張りがあり、顔は艶々と輝いている。

「マナマトマタマトマナマタ」

 というようなことを喋ると、彼は微笑を浮かべながら進み出て、両手で久六の手を包むように握った。久六はどぎまぎしながら、盛んに目玉をきょろきょろさせた。一番大きな男がリーダーだと思ったらしい。彼はそれから残りの四人とも握手をし、よく響くテノールで盛んに話しかけたが、残念ながら五人には理解不能だった。ただ彼らが自分たちを歓迎してくれ、村へ連れて行こうとしているらしいと希望的に解釈したのであった。

森を抜けると海辺に出たが、そこもサンゴ礁の細かく美しい砂に覆われ、丸木舟二つを丸太で繋いだのや、腕木を片一方に張り出した小舟などが置いてあった。住民はその素朴な乗り物で、どこまで航海しているのであろうかと吉太郎は考えた。穏やかな海とはいえそれほど遠くへは行けないだろう。

村は森を切り開いた平地で、ヤシの間に草葺きの家が雑然と並び、周囲は踏みならされた地面か短い草地になっていた。家は百戸以上ありそうで、壁も柱も竹製で屋根は草の葉で葺いてある。その周りを豚と犬と鶏がうろついているのであった。

五人は村の中でもかなり大きい家に案内された。仕切りはなく、ごろ寝をするなら三十人は入りそうな広さで、竹製の床に筵のようなものが敷いてある。中からは、人々が家の周りを囲んでいるのが壁を透かして分かった。隙間には目玉が並んでいるらしい。五人は隅に固まり、顔を見合わせて黙っているばかりだった。

しばらくして家の中が暗くなってきた頃、ヤシ油らしき灯りが点され、料理、ヤシ酒、バナナやオレンジなどの果物が運び込まれた。それを見ると、

「狐に化かされとるみてぇあだぎゃあ、ねえ親方」

 不安な顔をしながら、太市が吉太郎にそう言った。

「そうだなも。焼いて食われはせんだろが、ちっと気味がわりいが」と久六が口を挟んだ。

「だな、話が通じんだで、成り行きに任せることにしようみゃあ」と吉太郎。

「新平よ、お前さん毛唐の言葉知っちょるだで、何とかならんきゃあ?」と久六はそんなことを言う。

「蘭語は欧羅巴の言葉ですよ、どう見たってここは南洋だ。通じるわけはありません」

 新平はそう答えたが、自分でも残念だった。

家の周りは子供たちや住民が詰めかけて、にぎやかな声が続いている。美しい夕焼けが褪めると、ヤシ油の明かりが光を増して歓迎の宴が始められた。

「マトマナマタマタマナマト」

 呪文のような言葉があって、男女八人ずつの住民が座に着いた。丸い体のリーダーと思しき男が、自分を指して、アタロと盛んに言うのでそれが名前だろうと五人は判断した。そこで吉太郎を先頭に、各自が名を言うと、出席の男女も同じように名乗ったようだった。

それぞれの夫人らしき女性たちは、よく肥えた腰に白い布を巻き、隆起した胸は短い上着で覆って、髪には色々な花を飾っている。誰も背は高くないが、堂々たる体躯の持ち主だった。

料理は竹籠にバナナの葉を敷いてその上に載せてある。蒸し焼きにしたらしい芋や魚や肉だ。茹でた香草のようなものもある。

「クロ、キチ」などと名前を覚えたアタロが、椰子酒を椰子の実の器で飲んで見せる。久六がそれに答えて、米のとぎ汁のような液体を飲むと、

「やあ、ちっとにすいが、こりゃあ確かに酒だがね」と嬉しそうに声を上げた。

 それを機に、男も女も器を持ち上げて飲み始めたので、吉太郎も新平も太市も清吉までが器を手にした。肉など滅多に食べない五人だが、清吉が手を出して食べてみると、

「存外旨いもんだなも。魚とはやっぱ違うだに」と笑った。

 魚も見たことのない種類で、何となく手を出しかねて芋ばかり食べていたのだが「そんならワシも、おれも」ということになった。

住民たちは男女ともに、よく飲み食べる習慣らしい。それで立派な体格をしているのだろう。酔いが回ったらしく、笑いながら話に盛り上がっている。

「キチクロシンペセキチタイチ、マナマトマタ」

 だが大声を上げるでもなく、皆大人しい落ち着いた態度だ。五人に意外だったのは、女性たちの堂々としていることであった。

その夜はよく食べ、弱い酒ながら多く飲んだせいか、五人は気持ちよく眠りについた。椰子の葉で編んだ簾だけで、寒くも暑くもなく快適な夜が過ぎていった。

朝はここも鶏の鳴き声で明けた。まだ薄暗いうちから子供たちの声がしはじめ、赤ん坊の泣き声がそれに交じって響き渡る。母親のあやすのと、大人たちの喋るのとが明るくなるにつれて賑やかになる。

 この騒ぎで五人はもちろん起きたけれど、昨日からのあれこれで、まだ頭の中はぼおぅとしている。座ったまま、焦点の定まらない目でお互いを見つめていたが、そのうちに、

「親方、一体おれらは、どがあなっとるとです?」と清吉が不安なそうな顔で訊いた。そう言われても、吉太郎に答えられるわけがない。

「ワシが知るわけあらすか。まあ、おそがいことはにゃあようだで、成り行きにまかせることにしよみゃあ」

 吉太郎の後を引き取って新平が言った。

「鳥島というところへ漂着した土佐の漁師は、メリケンの鯨船に助けられたそうで。自分たちもそういう船を待つしかないかもしれません」

「ワシらの船を直せば、何とか帰れるだら、ねえ親方?」

 九六がそう言うと、太市と清吉が急に元気づいたように「それがええ、それがええがね」と同調した。そこへ村人が食事を運んできた。

「まずは朝飯にしようまい。話は後でいくらでもすりゃあええがや」

 食物は昨夜の残り物のようで、それに湯が添えられていた。

朝飯後五人が浜辺へ出ると、子供たちがぞろぞろとついてくる。浅いサンゴ礁の先は海の色が黒ずんでいる。そのさらに先に陸地が青黒く霞んでいるのが眺められた。

「あそこにも陸が見えますね。島でしょうか?」と新平が吉太郎に言う。

「そうかしらん。あれくれえなら、すぐにも行ける距離だが・・」

「ほんだら行かな。親方、ちゃっと舟直して行こまい」

 能天気な久六には、彼方の陸地が尾張へ帰る一里塚に見えるらしい。

「ちっと待っとれや。まっと勘考するがええだ。慌てる乞食は何とかって言うがや」

 吉太郎は久六のせっかちが少々心配だった。それでなんか言ってやれ、というように新平を見た。今はこの男の知恵が必要な状況だろう。

「あそこなら、ここの人たちも行き来があるでしょう。少し時間は掛かるでしょうが、私が何とか話の通じるように頑張ってみますから、少し事情が分かるまで待ってくれませんか、ねえ久六兄さん」

 新平がそう言うと、

「お前さんがかね。ほんでもって、どのくりゃあでそうなると思やーす?」と久六は半信半疑のようで、仁王のような顔で新平を見下ろす。

「そりゃー助かるで。どのぐりゃー掛かるもんか、教えてまえんきゃ?」と吉太郎も興味を示したが、太市も清吉もそれは同じだった。

「・・・ひと月ほどあれば、かなり色んなことが訊き出せると思いますが」

 しばらく考えていた新平がそう答えると、

「ほうか、分かったがや。ほんだらワシらは行く算段しよみゃあ。親方それでええだら」と久六が言った。

 吉太郎はしようがないなという顔をした。

「久六、そうせっつくなやめやあ。ワシらがどうなっとるかも分かりゃあせんで、へた動かんほうがええ。しばらくじっとしとることにしようまい」

 そう言われても、久六は納得がいかないのか、

「ほんでもよ、何もせんじゃ、とろくせやぁでいかんがね」と独り言のように呟いた。

日差しが次第に強くなってきたが、まだ朝のなごりかそれほどの暑さではない。一応話の区切りがついたところで、吉太郎と新平は寝ていた家へ戻り、久六は太市と清吉を連れて勇魚丸を調べに行った。子供たちはあらかた久六たちに従った。


その日から、新平はさっそくアタロに密着して言葉の勉強を始めたが、驚いたことに彼らは文字を持たなかった。そういう民族があると新平も聞いてはいたが、現実に遭遇するとは予想もしないことだった。尾張にも書物などに縁のない人間はいるのだから、文字が無くても困るということはないのだろう。

新平の熱意は相手にはしつこさであるが、アタロは困惑しつつも、辛抱強く付き合ってくれた。闖入者が珍しいらしく、女房も親族連中も皆が協力的だった。

新平が次に驚かされたのは、村人がお金を知らないことだった。物事をお金に換算して評価したり、お金を稼ぐのが生きる目的の者も大勢いる自分たちの社会を思うと、とても信じられない。文字もお金もないとは、まるで太古の時代に逆戻りしたようではないか。

新平は半信半疑で、村の生活を観察しながら、どこかに貨幣に類似したものがないか注意していた。だがそのようなものは発見できなかった。

村内を見回すと、家の大小があり、鶏や豚の数も多寡があるから、貧富の差がないわけではなさそうだった。おそらく富者は布や保存食料や家畜を多く持つ者だ。だが家畜以外は、漁も農耕も布を織るのも共同作業で行われ、成果は平等に分配されるようだった。それらを差配するアタロを見ていると、村人の信頼が厚いことが分かった。想像を超えるこの原始共産制のような、物々交換社会の存在を、やがて新平も認めないわけにはいかなかった。

吉太郎と清吉は、芋畑へ農作業を見物に行ったり、サンゴ礁で魚を獲るのを手伝ったりするようになり、久六と太市は、舟の手入れをしたり、住民の織る布を帆にできないかと考えたりしていた。

男らは誰もが布を腰に巻いただけで暮らしている。アタロがそれを五人に巻けと盛んに勧めるので、試しに久六が褌の上に巻いてみたところ、

「ちっとスースーするけんど、気持ちええがね」と気に入った。気候には適するし、着物も傷んだのが一枚きりだし、皆がすぐに腰巻一枚で過ごすようになった。

村は実に平和だった。賑やかに会話を交わしているが、大人同士が口論することがなかった。泣いたり叫んだりは子供ばかりで、それを大人たちはまったく叱らない。こどもは駄々のこね放題で、他人の子でも我が子でも、仕方ないなあという顔で何も言わない。尾張でも子供は大事にされているが、ここほど甘やかしはしない。

新平は矢立を携帯していたので、手元に残った紙に聞き出した言葉を書いていった。物の名前などは簡単だが、絵に描くことのできない事柄は誤解も曲解も失敗も繰り返し、それでもまだ分からない。そのうちに紙が尽き墨汁も残り少なくなり、仕方がないので平たい石を拾って、別の石で擦ってみると何とか使えそうだった。

吉太郎と清吉は、子供たちと連れ立って、次第に遠くまで探検に出かけるようになった。それで別の村がいくつもあることが知れた。そして彼らが半日かけて登った山の上には湖があり、そこからの眺めでここが島であるらしいことが分かった。

「池いうても、でら大きいがや。澄んだ水が満々としとって、周りは木がようけ茂っとる。涼しゅうて、そりゃーええとこだがね」と吉太郎は説明した。

 新平は話の様子から、ここは石灰岩層が隆起した火山島ではないかと思った。

久六と太市は、住民からカヌーの操り方を習い覚え、行きたかったあの陸地へはすでに二度ほど往復していた。住民に連れて行ってもらったのだが、かなり違った性格の人々が住んでいるらしい。

「見かけはあんまし違わにゃあが、でら威勢のいい連中ばかりおるでよ。相撲取りみてゃーな鍛えた足腰をしとる」

 二人の見解では、そこもやはり島のようだった。それに北西方向に別の陸地が見えるので、今度はそこへ行ってみると久六は言った。

三日ほど後、久六が新しい陸地の情報をもたらした。それによると、そこも島のようだった。そこからは、もう別の陸地は見えない、と久六は残念そうに報告した。

新平は次の日、三つの島を描いた図をアタロに見せて反応を待った。アタロはしばらく眺めていたが、意味が分かったのか「タオラマトゥ」と叫んだ。そして島をひとつずつ指し「マカト、フラガ、オカン」と言った。それは島の名だと考えられた。それでここが三つの島から成る地域らしいと分かった。


やがて新平を除く四人は、カヌーで三つの島を行き来するようになった。そして三つの名前が島のものでもあり、そこに住む人々を指しても使われていると推測された。アタロによれば、自分の島マカトが一番大きく次がフラガでオカンが最も小さいらしい。

「オカンは山が低いで、飲み水はあるにはあるが雨水が一番だげな。変わっとるのはよ、漁師も畑仕事も全部女子がやっとる。男子は家の中におって、ヤシの葉かなんかで簾やら籠を拵えとる。まあ男と女が逆さまになっとるがね」と太市が笑いながら教えてくれた。

 新平がアタロから得た情報では、マカトには村が八つあり人口は四千人ほど、フラガは村が六つで三千人に少し足りない位が住み、オカンは四つの村に千五百人ほどが暮らしているという。

「この辺りのことは大体分かったのですが、もっと遠いところのことは、アタロはまるで知らないようです。ですから、メリケンの船が通りそうな方角の見当がつきません」

 新平は吉太郎にそう説明した。

「久六が勇魚丸で行こみゃあたって、どけえ向かえばええか、分からんいうこときゃー?」と吉太郎が言った。

「いや、あの船では、どこかの陸地へ生きて辿り着けるかどうか。ここは船が通るのを待つしかないと思いますよ。・・どうしてか分かりませんが、我々は赤道近くにいるようです・・・・」

 天測儀も時計もないのに、新平は凡その太陽の南中高度と夜の星座から、自分たちの位置を推定したのであろうか。

「ほうか、そがい遠くまで来ちまったかや」

 息子と女房には、梅雨前には帰ると言ってきたっけ、と吉太郎は心の中で呟いた。それが帰れるかどうかさえ分からないのである。

「それで親方、船を見張るのに、それぞれの島に分かれて住んじゃあどうです?例えばフラガには久六さんと太市さん、オカンには親方と清吉さんというように」と吉太郎の思いに気づくはずもない新平はそう提案した。

「そりゃあええ考えかもしらん。ほんでもお前さん一人になってまうで、それでええがか?」

「お互いにそう遠いわけでもないし、行き来は容易でしょう。逢いたければいつでも逢えますよ」

 夜、吉太郎は皆を前に話し始めた。

「お前さんらの知っとる通り、この辺りは三つの島しか無いげな。あとはどこまでも海ばっか続いとると。そんだで勇魚丸じゃあ、生きてどけーも辿り着けゃあせんいうことだわ。だでメリケンかどっかの船がよう、ここらを通るのを待つしかにゃーいうことだわ」

「ほんでも親方、一体いつまで待てばええ言やーすか?」と久六は不満顔である。

「そんなこと、誰に分かりゃあすか?知っとりゃ苦労せんがや。たあけたこと言っとったらだちかん」

 さすがの吉太郎も大きな声を出した。

「誰か考えがありゃー、言やーす」と吉太郎が訊く。

 久六も太市も清吉も黙ったままである。

「なら、聞いてまえんきゃ。つまりよ、船がどこ通ったって見つけられるよう、島それぞれに分かれて住んじゃどうか、いうことだわ」

 吉太郎の説明に久六と顔を見合わせていた太市が、

「鯨の代わりに、船を見つける山見をしよう言やーすか?」と言った。

「そういうことだ。お前と久六がフラガに行ってくれりゃあ、ワシと清吉がオカンへ行こみゃあ」と吉太郎が清吉を見ると、

「おいらはそれでええがね、親方と一緒なら」と清吉が答えた。

「ワシらはフラガか、じゃあここは新平が山見をするきゃあ、お前ひとりで?」

 久六も一応納得したらしい。

「一番大きな村がすぐ北にあるらしいので、私はそこへ行って手伝いを捜そうと思います。アタロが村長に頼んでくれるそうです」

 そういう次第で、久六は太市と早速フラガへ移ったが、勇魚丸は自分が面倒を見ると主張して乗って行った。吉太郎と清吉は新平とアタロとの別れを惜しんで、三日後にオカンへ発った。

 新平はアタロに、ノッチ村の村長ナミシを紹介してもらった。ナミシはアタロに顔も体型もよく似ているが、一回り年配のように見える。親戚筋に当たるのかも知れない。ノッチはマカトで最大の村で、戸数は百と少しある。その外れの海の見えるところに、ナミシが新しい家を新平のために用意してくれていた。

「シンペ、ゲンキデナ、マタアオウ」

 アタロはナミシに新平の要望を依頼し、別れを惜しんで彼を抱きしめる。新平は感謝と再会の意をアタロに伝えた。アタロの村までは徒歩で三時間足らずだった。

新平は絵を描いて、カヌー以外の船を見たことがあるか、とナミシに聞いてみたが知らないという。そんな時に、文字を持たない彼らが語ってくれるのは、船に乗ったご先祖たちが、あの山頂の湖に空から降りてきた、という伝承である。アタロは、五人が先祖と同じ国から来た人々だ、と考えているように新平には思われた。それなら、最初からのあの歓迎ぶりも腑に落ちる。

ノッチ村での生活が始まったが、新平へのもてなしは丁重なものだった。ナミシもアタロから何か示唆を与えられたのだろう。早速新平はナミシの助けで、フラガとオカンとは反対側の二村に、船を目撃した場合の通報を依頼に出かけた。それにはいつもナミシとその息子が同道してすぐ親しくなった。

息子はプイという十二歳のやんちゃ坊主で、この村でも子供は甘やかし放題だが、プイはそういう境遇を卒業する時期に来ていた。ここでは十三歳になると大人の部類に入るらしい。そして家族を持つことができる年齢になったと見なされる。実際に結婚するのは早くても十五歳を超えてかららしいが、生殖能力が機能し始めるともう子供ではないということなのだろうか。

新平がプイと隣村に行った時である。気に入った子犬を見つけて、プイがそれを欲しがったが、持ち主は承知しなかった。全身が白で鼻先が黒く目が金色の犬は、素晴らしく縁起がいいので、手放す気はないというのだ。だがプイは、ここぞとばかり駄々をこね、上等な布や木の根の茶やら芋などを、ナミシから持ち主に贈らせ、その子犬を手に入れてしまったのである。

新平が、そういう甘やかしはプイのためによくない、とナミシに言ってみたが、困ったような顔で何も答えなかった。自分の忠告が分からなかったと思い、新平が同じことを繰り返していると、堂々たる体躯のナミシが涙ぐんだのである。唖然として、新平はそれ以上言葉が出てこなかった。

何とか言葉が通じはじめ、村での行動範囲も広がってくると、新平は人々の暮らしと考え方に興味を感じてきた。それはナミシとプイの関係に、ちょっとした違和感を覚えたせいもあった。

ある夕方、プイが散歩に行こうと新平を誘った。ついていくと村はずれの林へ入って行き、近くの藪の中を覗けという。新平が何気なく覗いてみると、恋人たちが愛の行為の真最中である。新平の驚くのを見てプイが笑ったが、からかったわけでなく、やがて自分がするべきことの予行演習にも思われた。しかし新平には刺激が強かった。薄闇の中にはそういう組が他にもあり、彼らが見られるのをそれほど嫌がっていないらしいのが新平を大いに驚かせた。

「一体何という連中なのだ」と新平は彼らを軽蔑した。そして尾張にいたとき好きあっていたお夏を思い出し、自分たちの密かな情事を上等なものと考えた。

「ああ、お夏を抱きたいなあ。だがとてもそれは叶うまい」と新平は心に呟いた。

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