第11話 春の満月



「さあアメル、出かけよう」


 差し出されたテレンスの手に、アメルは弱々しく首を振る。

「・・・だめ・・・です。テ・・・テレンス先生とふたりきりで会っては・・・だめなんです」

 消えそうな声でそう言った。


 けれどテレンスは、更にアメルに近づく。

「おいでアメル。今、俺は先生などでは無く、お前だけのテリィだ」

 アメルは顔を上げて、テレンスを見た。


「だから・・・おいで」

 やわらかくテレンスが微笑む。


 アメルはベッドから降りて、その手を取った。

 テレンスがアメルの身体を抱き寄せる。


「テリィ・・・」

 一度声にしたら、涙があふれ出した。

「テリィ・・・テリィ、テリィ・・・テリィ!」

 テレンスは何も言わずに、ただアメルを抱きしめていた。



 ひとしきり泣いて、気持ちが落ち着いてくると、アメルはテレンスから身体を離して、開いている窓を見た。

「わたし、窓に鍵をかけたはずなのに・・・テリィ、どうやって入って来たの?」

 それに、部屋は3階にあるのだ。窓の下は人が立てるような場所も無い。

 アメルが不思議そうにしているのを、テレンスは軽く笑った。


「呪いひとつ掛かっていない鍵など、俺には無意味だ」

 そう言って、羽織っているクロークを片手で広げる。

「行こうか、アメル」

 アメルが「どこへ?」と聞く前に、テレンスはアメルを抱き上げた。


「春の初めの良い満月だ。こんな夜は面白いものが見られる」

 テレンスの左腕に座るような抱き方は、まるで赤ちゃんみたいで、もう12歳にもなるのに恥ずかしい。

 ・・・でも・・・

 アメルはもっと幼い頃にそうしていたように、テレンスの首の後ろに手を回した。

 だって、これは夢だもの。夢だから・・・。


「それで良い。しっかり掴まっていろ」

 クロークの裾でアメルを包むようにすると、テレンスは軽く屈んだ。

 タンッ!と軽快な音を立てて床を蹴り、開いている窓から外へと飛び出した。


 小さく悲鳴を上げて、アメルはテレンスにしがみつく。

 地面に落ちると思った身体は、中庭を軽々と飛び越えて、向かいの校舎の屋根を足場に、更にテレンスは高く跳んだ。


 寄宿舎の屋根が、学院が、みるみる遠く小さくなって行く。

「これ飛んでいるの?テリィ、羽根が付いているの?」

「かもしれないな」

 クスリと笑って、テレンスは夜の空を駆ける。


 ゴオと風を切る音が、アメルの耳元をかすめて行く。

 頬に当たるまだ浅い春の夜風は、ピリピリと冷たい。

 けれど、テレンスのクロークに包まれた身体はとても温かくて、そのすべての感覚がまるで現実のようだ。


「時計塔だわ」

 街のシンボルであり、一番高い建物である時計塔。

 その大きな文字盤の前を横切って行く。

 手を伸ばせば触れそうな所に、長針の先があった。

 その質感や重々しさまではっきりとしていたので、アメルは思わずテレンスにたずねる。


「ねぇテリィ、これは夢よね?わたし、夢を見ているのよね?」

「お前の夢に登場する者たちは、お前に『これは夢だから』と断ったりするのか?」

 逆に問われて、アメルは少し考える。

「・・・しないわ」

「では、そういう事だ」


 答えになっているような、無いような返事に、アメルはますます困惑する。

 けれど、このたぐいまれな景色を見ているうちに、そんな事はどうでも良くなって来た。


 真正面に見えるのは、白く輝く大きな満月。

 上を見れば、白双糖しろざらとうを振り散らしたような星空。

 それを切り裂くように、テレンスは駆けて行く。

 アメルはわくわくし始めていた。こんな気持ちは久しぶりだ。

 

 街灯りは小さく遠のき、ざわざわと揺れ動く闇が眼下に現れる。

 深い森だ。テレンスは木々の枝を足場に、先へと跳んで行く。


 やがてぽっかりと視界が開けた。

 テレンスはそこを目指して着地した。


 森を丸くくり抜いたような平地の真上に、満月があった。

 月光が燦々さんさんと降り注いで、夜中だというのに青白い明るさに満ちている。


 地面のほとんどは、まだ枯れた草が覆っていたが、丸い平地のあちらこちらに、ひょろりと伸びた緑の草が、月に向かって生えていた。


 きっとあとひと月もすれば、きれいな花畑になるだろう。

 けれど・・・これが何だというのか?

 アメルはテレンスを振り返った。


「アメル、その草をよく見てみろ」

 言われて、アメルはしゃがんで草に目を近づけた。

 すると、茎の先に何か緑色のものが付いているの見つける。


さなぎだわ」

 蝶の蛹だった。でも・・・

「花が咲いていないのに、蝶の蛹があるなんて・・・」

 蝶も蛹も、アメルには珍しいものでは無いが、それらを見るのは花が咲きそろう時季の事で、まだ少し早い気がする。


「この春最初の蝶だ」

 テレンスがそう言って、アメルの手を握った。

 蛹はかすかに震えだすと、背中に細い裂け目を走らせて、そこから柔らかくしぼんだ蝶の羽根が押し出される。孵化を始めたのだ。

 けれど・・・


「えっ!」

 アメルは驚きの声を上げる。

 蛹から出てきたのは蝶の羽根だが、その先にあったのは小さな小さな人の身体だった。小さい人の背に蝶の羽根が付いていたのだ。

「どうして?」

 もっと近くで見ようと、テレンスの手を離す。

 すると、人の身体だったはずが、普通の、昆虫の蝶になっていた。

 見間違い?アメルは自分の目をこすった。後ろでテレンスが笑う。


「アメル、俺の手を握って、もう一度見てみろ」

 言われた通りにしてみると、

「あ、人に見える。小さな人」

 再び蝶は、その羽根を背に付けた小さい人に変わっていた。


「妖精だ」

 テレンスの言葉に、アメルは目を丸くした。

「妖精?・・・すごいわ、妖精って本当に居たのね!」

 物語の中でしか存在しないと思っていた妖精を、初めて自分の目で見て、アメルの気持ちはたかぶる。


 見ればところどころに伸びている草にも、それぞれ蛹が付いていて、妖精が生まれていた。

 妖精たちはすっかり蛹から出ると、たたんでいた羽根を広げて、羽ばたきをしはじめた。そのたびに羽根から小さな光の粒がこぼれる。


「こんな満月の夜は、妖精が生まれやすい」

 そう言ってテレンスは、森の方を指さした。

 アメルが顔を向けると、光の粒を放ちながら、たくさんの妖精がこちらへ飛んで来るのが見えた。

 さわさわと木の葉が風に揺れるような音が聞こえる。よくよく耳を澄ませてみると、

盟主めいしゅだよ」

「盟主が居るよ」

「あの子供は盟主の花嫁のようだね」

 そんな会話をしているのが分かる。妖精たちの声のようだ。

 アメルはもっとよく聞こうとして前に出た。

 だが、テレンスと手が離れてしまうと光も話し声も消えてしまった。


「テリィと手をつないでいないとダメなのね」

 テレンスがうなずく。

「そうだ。俺の目が見ているものをお前に見せている」

「盟主ってテリィの事なの?」

「そうだ。・・・妖精は気が小さいから、静かに見ていよう」

 その場に腰を下ろしたテレンスの、投げ出した脚の間にアメルが座る。


 森から来た妖精たちは、遠巻きにアメルとテレンスを見ていたが、何もしないと分かったのか、おそるおそるというように、平地の方へと飛んで来た。

 光に包まれた妖精たちは、平地のあちこちへ散って、生まれたばかりの妖精の周りをぐるぐると回り始める。

 それはまるで、新しい仲間の誕生を喜んでいるようだ。


 やがてひとつの光が、夜空へと飛び出すと、それが合図であったように、次々とそれに続いた。

 妖精たちはそれぞれに異なった色の光を放ちながら、空へと連なって行く。向かう先に大きな月が輝いていた。

 満月に向かって、七色の細い光の筋が高く高く伸びて行く。


「きれいね・・・」

 テレンスの胸に寄りかかって、アメルはその美しい光景に見入っていた。

 そして、ふと思いついた事を口にした。


「・・・ねえテリィ、妖精が居るのなら幽霊も居るの?」

「ああ、居る」

 あまりにあっさりとテレンスに返答されて、アメルは驚いて振り向いた。

「じゃあお願い、パパとママに会わせて!幽霊でいいから会いたい!」


 声が大きくなるアメルに、テレンスは唇に人差し指を当ててみせる。

 あっ、と、アメルは自分の口を押さえて、平地の方を見た。


 妖精たちは少し驚いたようで、月へと続いていたきれいな一筋の道が、途中で途切れてかき回したように乱れてしまった。

 アメルが口を閉じて静まると、妖精たちも落ち着いたのか、また順々に空へと向かい始める。

 今夜生まれたばかりの妖精も、他の妖精の助けを借りて飛び上がり、月への道に加わって行く。


 テレンスは静かな声でアメルに言った。

「・・・もし、アーサーとジェーンがこの場に居るのなら、お前に見せてやる事はできる。だが、それだけだ。死んでしまった者をび出す力は、俺には無い」

 ハッと、アメルは顔を強張らせる。

「・・・パパにもママにも、もう会えないの?」

 震える言葉に、テレンスはただ短く

「おそらく」

 と、答えた。


 アメルの黄緑色の瞳がみるみると潤んで、大粒に涙がこぼれ落ちた。

「みんな・・・みんないなくなっちゃう。パパも、ママも、バートさんも、ジェフも、ルイズも・・・みんな会えなくなっちゃう。アメル、ひとりになっちゃう」


 泣きながら、自分の事をアメルと呼んだのは久しぶりだと思った。

 そんな風に言っていたのはずいぶん小さかった頃だ。

 もう大きくなったから、恥ずかしいからやめたのに・・・。

 でも、言い出したら止まらなくなった。


「テリィも、きっといなくなっちゃうんだ。アメル、ひとりぼっちになっちゃうんだ」

 ひっくひっくとしゃくり上げる。

 テレンスの長い腕が、アメルを抱き寄せた。

「俺はここに居る」

 優しい声で言われても、アメルは首を振る。

 そうしながら、小さい子が駄々をこねているようだと、自分で思った。

 それでも今夜は、自分の中の小さなアメルを抑え切れない。


 テレンスの手のひらが、なだめるようにアメルの髪を撫でた。

 そうされているうちに、涙もしゃくり上げるのも収まって行く。

 髪を撫でてくれるテレンスの手のひらは、ずっと変わらない。少し冷たくて細長い指。

 パパもよくこうしてくれた。パパの手は大きくて固くて、そしてあったかかった。


「・・・どうして変わってしまうの?・・・あのままで良かったのに。・・・絹のリボンも服もいらない。木綿の服を着た小さいアメルのままで、そのまま止まってしまえば良かったのに・・・」


 月に向かう最後の妖精が飛び上がった。

 それは、細い光のリボンが風になびきながら、まるで満月に吸い取られてゆくような軌跡を描いている。


「俺はずっと・・・こうしてお前を抱いている」

 アメルはテレンスの胸に、頭を預ける。

 妖精が飛び立ってしまった平地には、何事も無かったように青白い月の光だけが満ちていた。


「お前が本当に永遠を望むのなら・・・いつかお前にそれを贈ろう。けれど・・・お前がもし・・・・・・」

 テレンスの声が遠のいて行く。

 夢の中に居るのに、眠くなるなんて不思議だ・・・。

 でも・・・こんなに心地よく眠りに入れるのは・・・いつ以来だろう・・・


 そして・・・。

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