第10話 小夜嵐



 アメルが気が付いた時、暗い部屋でベッドに寝かされていた。

 雨の音が聞こえるだけで、あとは物音ひとつしない。


 エリザ学院の自分の部屋だと分かったが、なぜここで寝ているのかは分からない。


 家に帰ったはずだった。

 ウィルトン家の屋敷ではなく、ブライス亭の看板を掲げた自分の家に。


 けれど家は無かった。

 そこだけ切り取って、どこかへ持って行ってしまったように、何も無かった。


 雨がすごく降ってきて・・・。

 テレンスが居たようにも思えるのだが、記憶はおぼろげで定かでは無い。

 思い出そうとすると、頭がズキンと痛む。

 身体がとても重くて、起き上がる気にもなれない。


 夢・・・なのかな?

 ああ、そうか・・・きっとそうだ、夢なんだ。

 だって、あの日も雨が降っていた。

 パパとママが出かけて行って、帰ってこなかった日。

 だからきっと、全部悪い夢だ。


「・・・ああ、良かった。夢だったんだ・・・」


 だったら・・・目が覚めればきっともとどおりだ。

 朝になったら・・・目が覚めたら・・・


「パパとパンケーキを焼かなくちゃ・・・」


 ずるずると沼に引き込まれるような重い眠りに、アメルは落ちて行った。



「・・・全く、おふたりしてずぶ濡れになるなんて・・・」

 ぶつぶつと文句を言いながら、マーサはオスカーのシャツにアイロンをあてる。


「悪いねマーサ、着替えを持ってないんでね」

 火の入った暖炉の前で身体を乾かしながら、オスカーは明るく言った。

 その少し後ろで、マホガニーの椅子にテレンスが座っている。

 素肌に毛布だけをまとい、肘掛に頬杖をついて、じっと暖炉の炎を見つめていた。

 濡れた漆黒の髪が、首筋に張り付いて雫が伝っているが、それを気にする様子も無い。


 自分の家が無いという事実を目の当たりにしたアメルは、テレンスのクロークの下で倒れてしまった。

 エリザ学院の門番にアメルを託したのはオスカーで、「学院の制服を着ていたから」とだけ言って、その場をすぐに去っていた。

 そして、ふたりとも林の中のテレンスの家へと戻って来たのだ。


「・・・学院に連れて帰っちゃって良かったんですか?」

 肩越しにテレンスを見ながら、オスカーが静かに言った。

「学院の寄宿舎は、限られた者しか出入りできない。ウィルトン家は人が多すぎる。弱っているアメルを置いておくのは良策では無い。・・・ジャックも承知している」

 頬杖をついたまま、テレンスはつぶやくように答える。

「そうですか・・・」

 オスカーは暖炉の方へ顔を戻すと、絨毯の床に置いてあるカップを取って、温かいお茶をすすった。

 ランプも蝋燭も無い暗い部屋は、暖炉の炎がやけに明るく感じられる。


「・・・いえ。ここにお連れすれば良かったかと・・・思いまして・・・」

 炎に顔を照らしたまま、独り言のように、それでもはっきりとオスカーが言った。

 アイロンがけの手を止めて、マーサが顔を上げる。

 濡れた林の木々が、風に揺らされて雨粒を叩き落とす音が響く。遠くでかすかに雷も鳴っているようだ。


「アメルを花嫁に定めた事情を聞いたと言ったな、オスカー」

 言いながらテレンスは、目だけをマーサへ向ける。マーサは丸い身体を縮めるようにして頭を下げた。

「はい」

 返事をして、オスカーは身体ごとテレンスに振り返る。

「盟主の座を狙うヴァンパイアから護るため、僕ら盟約者以外のヴァンパイアが容易に触れないよう、強力な結界が必要だったから・・・と、聞きました」

 テレンスは姿勢を変えないまま、オスカーの言葉に頷いた。そして、

「相違ない。・・・ゆえに、それ以上でもそれ以下でも無い」

 そう言ったきり、また黙ってしまった。



 オスカーはふう、と息をつくと、だいぶ乾いてきたズボンの裾をめくる。

 足首には、リボンで縛られたハンカチがあった。

 嘘と疑わずに、一生懸命手当てをしてくれたアメルの姿を思い出して、オスカーはチクリと胸が痛んだ。


 テレンスがどれほど、あの小さな花嫁を大切にしているかは、身に染みてよく分かった。

 今日も学院の前までアメルを抱いていたのは、他ならぬテレンスだ。

 倒れたアメルをクロークで包み胸に抱き込んで、自分は遮るものなく土砂降りの雨に打たれながら駆けて行った。


 もちろんヴァンパイアは、雨に打たれたくらいで身体を損ねる事など無いが、それでもずぶ濡れの服の重さは感じるし、身体が冷えれば体力を奪われる。

 それに・・・オスカーは自分の盟主の持つ真名しんめい、ミセリコルディアの功罪を知っているが故、それだけでも並ならぬ事だと思うのだ。

 だから・・・


 テレンスはやはり肘掛に頬杖をついたまま、何も言わずに暖炉を見つめていた。

 夜の闇のような黒髪にも、夜明け前の空のような藍色の瞳にも、煌々と燃える炎の光が、金色に映えている。


 改めて、綺麗な男だとオスカーは思う。


 ヴァンパイアはそうとなった時に、肉体の時間が止まる。

 自分のあるじが、何歳で時が止まっているのか、確かな事は知らない。

 でもきっと、彼の一番美しい時代のままを留めているのだろう。

 千年というながきの間、何ひとつ劣化する事無く。


 アメルだってあと数年で、妙齢になる。きっと美しい娘となるだろう。

 それこそ、似合いではないかと思うのだ。


 いや、数年なんてあっという間だ。

 だったら・・・だったら・・・


「ここへ連れて来て人の世と切り離してしまえば、アメルはもう泣かなくて済む。それは幸せと言わないんですかね・・・」


 言ってしまって、ハッと口を押さえたがもう遅い。

 ガタンッ!と、強い音を立ててテレンスが椅子から立ち上がった。

 オスカーは青ざめて、主を見上げる事すらできない。


「疲れた。休む」

 と、短く言って、テレンスは毛布を纏ったまま、部屋を出て行った。

 オスカーは「はーっ」と大きく息を吐いて、力を抜いた。


「・・・ちょっと調子に乗りすぎたかな」

 苦笑いを浮かべて、カップに残っていたお茶を飲み干す。

 そんなオスカーに、マーサはアイロンの済んだシャツを差し出した。

「ありがと」

 礼を言って、オスカーは温もりの残るシャツに袖を通す。


「何て言うかさ、うちの盟主って割と貧乏クジだからさ・・・ついお節介したくなるんだよね・・・」

「貧乏クジ・・・ですか」

 マーサはチラリとテレンスの部屋がある方に目を向けた。

 聞こえたらさすがにまずいだろうと思うが、古くからの盟約者であるからか、オスカーは気にする様子も無い。


僭越せんえつが過ぎるって、また叱られないうちに帰ろうかな。仕事も済んだし」

 カラリと笑いながら、オスカーは煉瓦れんが色の髪をかいた。


 ・・・叱られたんですね。と、マーサは心の中でため息をつく。

 けれどやはり、この屈託くったくない若者は憎めない。自分の主もきっと同じ心持ちなのかもしれない・・・と、思ったところで、それこそ僭越が過ぎる事だと、マーサは自分を笑った。


「何?」

 マーサは「いいえ」とオスカーに首を振って、

「まだ雨が降っていますよ、今出て行ったら、せっかく乾かしたシャツが、また濡れてしまうじゃありませんか」

 そう口をとがらせて見せた。

「ミートパイが焼いてありますから召し上がりませんか?お茶もお代わりをお持ちしましょう」

 マーサが言うと、オスカーは嬉しげに笑って、

「うん、いいねぇ」

 と、上げかけた腰を下ろした。



 翌朝、雨がすっかり上がって、春らしい陽射しが照り始めた頃、エリザ学院の寄宿舎では、ちょっとした騒ぎが起きていた。

 アメルが、部屋に誰も入れようとしないのだ。


 昨日、学院に運び込まれたアメルは熱を出していて、すぐに寄宿舎の部屋に戻された。

 突然、姿を消したアメルを探していた学院とウィルトン家では、とりあえず無事の帰還に安堵した。

 熱を出しているので、このまま寄宿舎で安静に過ごすという事が、昨夜のうちに決められていた。


 そして今朝、寄宿舎の舎監が医者を連れて、アメルの部屋を訪れたところ、扉が開かないのだ。

 生徒の部屋の扉は、鍵が付いていない。だから無論、施錠するなどできるはずが無い。

 しかし、外側に開く扉を引いても、何かが引っかかって、開ける事ができない。

 なだめてもすかしても、アメルはひとことも話さず、扉を開けようとはしなかった。


 窓にはぴっちりとカーテンが閉められて、中の様子は分からない。

 窓は鍵がかかるので、おそらくそうされているだろう。


 空腹になれば部屋を出てくるだろうと、舎監も職員たちも様子を見る事にした。

 だが結局、その日一日、アメルは部屋を出なかったのだ。


 夕食にも姿を現さず、相変わらず部屋の扉も窓も閉ざされて、誰の呼びかけにもアメルは声ひとつ返さない。

 舎監はウィルトン家へ状況の説明をせざるをえなかった。



 部屋の中にアメルは、ずっとベッドに横になっていた。

 具合が悪いという訳では無い。

 昨夜はさすがに身体が重苦しかったが、今朝、目が覚めた時にはそれも無くなっていた。


 しかし心は晴れない。

 目が覚めたというのに、寄宿舎のベッドに居たからだ。

 目が覚めたのなら、悪い夢が終わったのなら、両親の居る家、自分のベッドに寝ているはずなのに・・・。


 だから・・・

「ちゃんと目を覚ますまで、夢が終わるまで、眠ってないとダメなんだわ、きっと」

 そう考えて、誰にも邪魔をされないように、扉も窓もカーテンも閉め切った。

 母親が作ってくれた人形を抱きしめて、ただひたすらに、目覚めたら自分の家である事だけを祈って。



 その日の夜更けの事。

 バタンと窓が開く音で、アメルは目を覚ます。

 鍵をかけていたはずの窓が開かれて、カーテンが夜風に舞い上がっている。

 まぶしいほどの月明かりが部屋に差し込み、その光の中に、何かが飛び込んで来た。


「は・・・。あんな可愛らしい結界は見た事が無い」

 飛び込んだ黒い影は、色とりどりのリボンで椅子がくくり付けられいる扉を見て、笑いを含んだ声で言った。

 その声は、忘れようも無い者の声だった。


「まったく、お前と居ると退屈する間も無いな・・・アメル」

 青白い月光に浮かび上がった、背の高い細身の姿。漆黒の髪、藍色の瞳。

 テレンスは、アメルへと手を差し出した。


「さあアメル、出かけよう」

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