第9話 銀貨
足を挫いた若者と知り合ったアメルは、公園を出て辻馬車を拾うために、若者に肩を貸して歩き出した。
若者は確かに小柄で痩せていたが、12歳のアメルよりは当然背が高い。その分、アメルの右肩に体重がまともに圧し掛かる。
左肩で担いでいる若者の荷物も、何か丸いものがたくさん入っているようで、ずしりと重い。
よろけそうになる足に力を込めて、アメルは若者を支えて公園の出入り口をめざした。
「お嬢ちゃん・・・どうして僕を助けてくれるの?」
「困っている人の力を貸すのは、当たり前の事だってパパが言ってたの。そうじゃないと、自分が困っている時に誰も力になってくれないんだって」
「・・・そうなんだ。じゃあ、お嬢ちゃんは何か困っている事、あるかい?」
聞かれて、アメルはハッと目を見開いた。
困っている。・・・今、とても困っている。
もし、正直に言ったなら、若者は力を貸してくれるだろうか・・・?
でも・・・でも。
アメルの心の中で、いろいろな感情が渦巻いた。
「どうしたの?」
黙っているアメルの顔を、若者が心配そうにのぞき込んだ。
だから・・・
「わたしは大丈夫よ」
と、アメルは笑い返した。
そしてしっかりと前を向いて、よろけないように注意して足を運んだ。
こういうのを、やせ我慢って言うんだろうな・・・。
アメルはふと考える。
でも・・・でもきっと、パパは「偉かったね」って言ってくれる。
そう思うと、胸が張れるような気持ちになった。
よたよたとしながらも、どうにか公園の出入り口へとたどり着いた。
花壇の縁に若者を座らせて、アメルは道を行きかう辻馬車に手を挙げる。
程なく、一台の空車が停まった。
アメルが再び手を貸して、若者はどうにか馬車の座席に座る事ができた。
「御者さん、このお兄さんは足を痛めているの。降りる時は手伝ってあげて下さい」
そうアメルが頼むと、御者はチラリと車室の方に目を向けてから、
「はいよ」
と、平坦に言って返した。
「ありがとう、お嬢ちゃん。本当に助かったよ」
若者は被っていたキャスケット帽を上げて、礼を言った。
「名前を教えてくれるかい?」
「アメルよ」
「そうか。・・・僕はオスカーだ。忘れないよ、アメル」
笑顔で、オスカーと名乗った若者は、握手の手を差し出す。
アメルがその手を取った時、手のひらに冷たく固い物を感じた。
引いた手を開いてみると、銀貨を一枚握らされている。
「オスカー!これ・・・」
あわててアメルは顔を上げた。
「お礼の気持ちだよ」
オスカーが微笑む。
「でも・・・こんなに」
「受け取っておくれ。そうでないと僕が困るよ。困っている人の力になってくれるんだろう、アメルは」
笑顔でそう言って、オスカーは馬車の扉を閉めた。
御者が鞭をくれて、馬車が動き出す。
「ありがとうオスカー!わたしも忘れないわ!」
走り去る馬車に、アメルは大きく手を振った。
そして手の中の銀貨を改めて見る。
これだけあればきっと、家まで馬車を使えるはずだ。
アメルは一枚の銀貨を大切に握り締めると、空いている辻馬車を探した。
「その路地に入って止めてくれる?」
オスカーが御者に告げると、馬車は小さな路地を折れて止まった。
頼まれていた通り、御者は客が降りるのを手伝うために、御者台を降りた。
なのに、客は自分で扉を開けて、さっさと馬車を降りてしまう。
足の痛みなんて、素振りも見せない。
訝しい顔をする御者に、オスカーは笑顔を向けた。
「はい、これ代金。あと、あの袋の中身もあげるから」
渡された金を見て、御者は目を見張る。
金貨だった。大きすぎる金額に、御者は眉根を寄せる。
「・・・もっと
「ああ、いらないよ・・・これは口止め料込みの値段だから」
口止め?・・・御者は意味が分からないまま、帽子を目深に被った客を見た。
「永遠に口止めするのは簡単だけど、もし花嫁が知ったら悲しむだろうから・・・。命拾いしたね、あんた」
帽子のつばの奥で、朱色の瞳が光った。
「・・・ひっ!」
御者は声にならない悲鳴を上げる。
次の瞬間、オスカーはその場から高々と跳び上がって、建物の屋根の上へと消えた。
馬車の座席に残された袋からこぼれ出たオレンジが、開きっぱなしの扉から次から次から落ちてきて、路地裏の道に何個も転がっていた。
「・・・随分とまわりくどい」
「そうでしたか?・・・
オスカーはキャスケット帽を上げて、自分の盟主を見た。
黒いクロークを羽織ったテレンスは、返事をせずに公園の前の通りを見下ろしている。
路地裏の建物の屋根の上に、ふたりのヴァンパイアは立っていた。
「知らない者の馬車に簡単に乗る子では無いし、落ちている金を拾って自分の物にする子でも無い。ましてや、事情を聞いて金を出すと言っても、受け取る子では無い・・・って、おっしゃったので、僕としては最大限の知恵を絞ったつもりですよ」
言い募るオスカーを、テレンスは横目で見る。
「よく言う。・・・アメルを試したのだろう?」
「あれっ!分かっちゃいましたか」
オスカーは悪気なく笑って、舌を出した。
「盟主があの幼い子を花嫁に選ばれた理由は、マーサから聞きました。強力な結界を与えるためだとはいえ、僕ら盟約者にとっては、主君の花嫁に違いないですからね。・・・
「・・・僭越がすぎるな」
恭しく頭を下げるオスカーを一言で切り捨てて、テレンスは再び通りへと目を落とした。
そう言いながらも決して不機嫌ではない
通りでは、アメルが辻馬車に乗り込んでいた。
馬車は通りを南に向けて走って行く。その方向には、街を貫く街道が通っていた。
「本当に行かせてしまうんですか?・・・可哀想ですよ」
遠慮がちに言って、オスカーはテレンスの言葉を待った。
「・・・・・分かっている」
馬車を追うテレンスの瞳は、すでに深紅に変わっている。
「だが、これがアメルの望みだ・・・」
小さく呟くと、テレンスは屋根を蹴って馬車が向かった方向へと跳んだ。
オスカーは肩をすくめて、ため息をつく。
「残酷なんだか、優しいんだか・・・」
そして自分も、主の後を追った。
「止めて!止めて下さい!」
アメルの声に従って、辻馬車は車輪のきしむ音を立てて、停車する。
車窓から顔を出して、アメルは辺りを見回した。
「・・・おかしいわ・・・」
外はだいぶ暗くなっていたが、風に穂を揺らす麦畑の先に、白い壁の建物がはっきりと見える。
あれは、アメルが通っていた学校だった。
ならば、とっくに家に着いていなければならないはずだ。
なのに、家を見なかった。
街道ぞいで食堂を営んでいるアメルの家は、街道を行き来する人や馬車に目立つように、大きな看板をぶら下げていた。
それが見えないはずはない。
なのに・・・なのに・・・。
「ここで降ります」
そう告げて、オスカーからもらった銀貨で代金を支払うと、アメルは馬車が来た道を駆け戻った。
大きく広がる麦畑に、建物がぽつりぽつりと点在している。
アメルは目を凝らして、それらをひとつひとつ確認する。
あれは、農家をしている同級生の家、ちょっと遠くに見えるのは雑貨屋さん。
まちがいない。家の近所だ。
アメルは恐る恐る自分の立っている場所を振り返る。
くっきりと、ぽっかりと切り取られたような長い四角。
昼間だったらきっと、馬車からだってよく見えたかもしれない。
曇り空の夕闇のなか、通りすぎてしまった空き地。
ここ・・・が・・・?
湿った風がゴオッと音をたてて吹き付けて、パタパタと大粒の雨が落ちてきた。
ふっと、その雨が何かに遮られる。
上を見上げると、テレンスがクロークを広げていた。
「テリィ・・・」
テレンスは何も言わず、ただアメルを雨風から守るためにそこに立っていた。
「テリィ、お家が無くなっちゃった・・・」
アメルの瞳から涙がこぼれる。
「何にも・・・無くなっちゃった・・・無くなっちゃった・・・」
テレンスはやはり何も言わず、立っていた。
雨粒は瞬く間に筋となり、矢のようにふたりに降り注いでいた。
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