第8話 逃走
ウィルトン家ではなく、自分の家に帰ろうと決めたアメルは、玄関ではなく校舎の方へと走って行った。
準備生のアメルは、まだひとりで校外へ出るのは許されていない。
玄関には職員が居て、迎えに来た保護者と生徒を確認しているので、まともに玄関を出ようとすれば、止められてしまうのは明らかだ。
アメルは、校内の中庭に下りて校舎の裏側へ向かった。
テレンスと会っていたあの大木がある場所から、学院の外回りを取り囲む柵が見えていたのを思い出したのだ。
あれを伝って行けば、正門に出られるはずだ。
大木のある校舎裏に着くと、柵に沿って歩き出す。
木の下をくぐったり、校舎と柵の隙間をどうにかすり抜けたりして、柵を辿って行った。
そして思った通り、正門が見えたのだ。
正門は大きく開かれて、週末を家で過ごす生徒を迎えに来た馬車が、出たり入ったりしている。
正門の脇に、人だけが通れる小さな門があって、そこは徒歩で生徒を迎えに来た親などが行き交っていた。
門の周りにはやはり学院の職員たちが居る。
女子校のエリザ学院の教職員は、当然女性が多いが、門を守る門番の職員は、中年の男性たちだ。
もし見つかって捕まったら、身体の小さいアメルなど、取り押さえられたら逃げ出せないたろう。
だが幸いな事に彼らは、正門を出入りする馬車や、門の外で待たされている辻馬車の整理に忙しいようだ。
アメルは校舎の方を見た。
ちょうど正門に徒歩で向かう、生徒と親たちを見つける。荷物を抱えている男は、従者だろうか。
門番の隙をついて、その一団へと走り寄る。
従者の陰にかくれるようにして、一緒に門を通り抜けた。
突然現れた少女に、従者の男は驚いた顔をする。アメルはにっこりと笑って見せた。
従者は
門を出た途端、アメルは全力で走り出す。
少しでもエリザ学院から遠ざかるために。
誰にも追いつかれないように、遠くへ、遠くへ。
走って、走って、走って。
気が付くと、大きな公園の前だった。
後ろを振り返っても、誰も追いかけて来る様子は無い。学院の校舎ももう見えない。
アメルは肩で息をしながら、公園の出入り口の脇に設えられた、花壇の縁に腰を下ろした。
だいぶ薄暗くなってきた。
どんよりとした曇り空が、尚いっそう
目の前の通りは広く、人も馬車もたくさん往来している。
この道は、街を貫く街道なのだろうか。
アメルの家は、街の中心から遠く離れた街道沿いに建っていた。その街道に出さえすれば、家に着けるはずなのだが・・・。
家の前から、テレンスと馬車に乗ってウィルトン家に来た時、けっこうな時間がかかった気がする。
それを歩いて行くのだから、もっともっと時間がかかるはずだ。
本当に夜に・・・いや、夜中になってしまうかもしれない。
こんな天気の悪い夜、明かりも持たずに歩けるだろうか・・・。
初めて来た街の中心地は、建物も多く道も入り組んでいて、がむしゃらに走ってきたアメルは、すでに学院に帰る道さえ
もちろん戻るつもりは無いが、行く道も帰る道も分からないというのは、やはり不安だ。
刻々と暮れてゆく時間と、今にも雨粒が落ちてきそうな
そんなアメルの目の前を、辻馬車が通って行く。
家の住所は分かっていたから、辻馬車を使えばすぐに帰れる。
でも・・・。
アメルは制服のポケットに手を入れた。
入っているのはハンカチ一枚だけ。銅貨の一枚すら持っていないのだ。
ふう、と息をつく。
考えている時間が惜しい。とにかく街道がどこか聞いて行ってみよう。
アメルは腰を上げて、通りを歩く人に道を聞こうとするが、誰もが早足で先を急いでいるようなので、なかなか声をかけづらい。
雨が降り出しそうな夕方、皆、早く家に帰り着こうとしているのだろう。
「あ!」
人通りの中に、アメルは制服の警察官を見つける。
そうだ、バートさんだ!
アメルは、父アーサーの友人、警察官のバートの事を思い出した。
バートは警察署に居る。馬車代を貸してもらえるかもしれない。もしかしたら、一緒に行ってくれるかもしれない。
警察署の場所を聞くために、アメルは警官の後を追った。
「あの!お巡りさん!」
声をかけると、警官は振り返ってくれた。
思ったより若い警官は、アメルに近づきながら、
「・・・君はエリザ学院の・・・準備生だね」
と、言った。
ハッとアメルの足が止まる。思わず胸の紐リボンを手で隠した。
「誰かと一緒なのかい?準備生はまだひとりで外出できないはずだろう?」
アメルはふるふると首を振る。
さっきまで頼もしいと思っていた警察官の姿が、一瞬で怖い人に見える。
「あ・・・あの、公園にいます・・・から・・・さよならっ!」
咄嗟にそんな嘘をついて、アメルは大急ぎで公園に入った。
警官が追いかけて来る気がして、大きな公園の奥へと向かう。
振り返って、誰も来ないのを確認してから、木の下にあったベンチに腰を下ろした。
胸のリボンを外してポケットにしまう。
制服姿で出て来た事を後悔したが、どうしようもない。
これでは街の人は当てにできない。うっかり警察署の場所などを聞いたりしたら、学院に連れ戻されてしまうだろう。
もしかしたら、さっきの警官が学院に知らせに行っているかもしれない・・・。
もう、バートを頼る事もできない。
それに、何だか肌寒くなってきた。
まだ春の初め、昼間は暖かくなってきたが、夜は冷え込む。これからもっと寒くなるだろう。
「困ったなぁ・・・」
口に出したところで、助けが来るはずも無い。
大きなため息をついて、肩を落とす。
すると・・・
「困ったなぁ・・・」
同じ言葉が聞こえてきた。
「え?」
となりのベンチに座った若い男が、やはりアメルと同じように大きなため息をついていた。
若者もアメルに気づいて、
「こんにちは、お嬢ちゃん」
そばかすのある顔は、素朴で気安い感じがする。
アメルはどことなく親しみを覚えて、
「お兄さん、何を困っているの?」
と、たずねた。
若者はちょっと驚いた様子だったが、すぐに笑って、
「・・・うん、家に帰るのに馬車を拾いたいんだけど・・・」
と、言った。
「辻馬車なら、あっちの大きな道にたくさん走っていたわ」
アメルは自分が来た方向を指さした。
若者は肩をすくめる。
「実は足を
「えっ!お兄さん、足を怪我しているの?」
立ち上がったアメルは、若者へと駆け寄る。
若者がズボンの裾をめくって、赤くなった足首を見せた。
「大変!・・・ちょっと待ってて」
アメルは公園を見渡した。
広場を挟んだ反対側の林に、水場らしきものを見つける。
それに向かって走って行った。
まずは吐水口から落ちる水を手で受けて、アメルは自分の喉を潤した。
そしてハンカチを取り出し、水に濡らして、また若者の元へと走った。
「お兄さん、お待たせ」
アメルは、若者の足元に膝を着いて、赤くなった足首に濡れたハンカチをあてた。
「お、お嬢ちゃん・・・!」
若者は驚いた顔をした後、なぜだか遠くの空を見るような仕草をする。
「
足首にあてがったハンカチを、制服のリボンで縛る。
「これでいいわ、さあ行きましょう。これはお兄さんの荷物?」
「そうだけど・・・どこへ行くんだい?」
「公園を出るのよ。辻馬車を拾ってお家に帰るんでしょう?さ、わたしにつかまって」
ベンチに置いてあった大きな袋を左肩に担いで、アメルは右手を若者に差し出した。
だが若者は、首を振る。
「僕はこのとおり痩せっぽちだけど、お嬢ちゃんが僕を支えるのは無理だよ」
「やってみなければ分からないわ。もしわたしにできなければ、大人の人を見つけて、頼んでくるわ」
そう笑うアメルを、若者は
「・・・ありがとう」
差し出された手を取って、アメルの肩に手を回した。
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