第22話
決着をつけなければ、と思ったが、どうしていいのかわからなかった。
やつを殴り倒して洗脳が解けるとは思えない。それに、俺の腕力では、そんなことは不可能だ。
『カヌレ』というのは、珠希とマリヤが、俺を連れて最初に来店した場所の名前だった。ショーン・ベネディクト・橋下はそのアンダーグラウンド・バーのマスターで、珠希の父親だった。父親? 確かに、そういう事になっていた。しかし、彼は珠希の本当の父親は、彼女を作った下郎作家だと言った。彼は、親切にも、その男が以前は、マリヤのパートナーだったと教えてくれた。男は捕われて、ヘリコプターでの脱獄に失敗して、死んだ。だが、関東王は、そんな男はいなかった、と言う。
詐欺師がピアニストとコンビを組んで一体何をしていたのか? 建築家のように、クライアントを誑かして資金を得、自分勝手に好きなものを作っていたのか。
男は、珠希に「とても口には出せない」ような実験をしていた、という。
下郎作家が人造人間でする「実験」とはいったい何だ?
男が捕まった理由はわからない。下郎としてか、作家としてか。それとも別の理由だろうか。
関東王の言うように、男が元から存在しなかったとしたら、マスターは何故そんな話を俺にしたのか。
そして俺は、これから自分がやるべきことを、ぼんやりと考えているのだ。
『カヌレ』があるは、繁華街のど真ん中だ。
商店街を通り抜け、裏路地へ入る。
俺は『ル・ブル・ルージュ』の派手な看板の前まで来たあたりで躊躇った。何もわからないまま、無理に決着をつければ、すべてを失うかもしれない。俺の覚悟は今、完全に壊れつつあった。
意を決して、裏口へまわる。
インターフォンを押した。
「いやあ、君か」
マスターの声がして、オートロックが開いた。
「すまんね。迷惑かけた」
マスターが言った。相変わらず髭が印象的な、大柄な男だ。
「いやいいよ。もう、ここに来たんだから」
俺は無表情のまま笑った。
「今日はどうしたんだい?」
カウンターに座ると、彼はいきなり俺に煙草を勧めた。
「ちょっと待ってくれ。何から何まで悪かったね」
彼は俺に煙草を手渡し、自分でも一口吸って火がついた煙草を差し出して、俺の顔に視線を投げた。
「いや、気にしないでくれ。それにしても、何から何までとはずいぶん失礼だな」
マスターは黙っている。
俺は煙草に火を移す。
「それで、俺に何の用だい?」
マスターは俺を見て言った。俺は煙草をくわえたまま、
「そうだなあ」
「あんたが、俺を殺そうとしても平気だよ」
彼は少し目を細めて言う。
「自信があるんだな」
「いやあ。そんなこともないよ、そんな」
少し笑いながらマスターは言った。
「そりゃあ、まあ。俺はこれでも結構有名なんだぜ……って、何笑ってるんだよ」
俺は笑っていない。だが、彼にはそう見えたのだろう。
「まあね。俺は強いよ、そこそこは。まあ、あんたがそんなに弱くてどうするって話かもしれないけどね」
「それで? 俺をどうする、君は。俺がもしあんたを殺すことになれば、あんたは、マリヤのみならず、珠希も見殺しにすることになるぞ」
「それは困る」
俺は言う。
「でも、殺すなんて怖ろしいことは、俺にはできやしないんだけどねえ」
「じゃあ。どうする」
煙草の火は燃え尽きて、灰すら残さない。
「彼女らを返してくれないか。あなたがその気になれば、簡単なことだ」
「本当にそう思うかい?」
「このままでは、あんたにとっても面白くないだろ」
「面白いさ」
表情は笑っている。が、目は笑っていない。
「たとえ面白くなくたって……」
マスターは俺の耳に顔を寄せる。そして、ゆっくりと呟く。
「『俺があんたを殺すことなんて、そんなこと、朝飯前さ』」
マスターは、新しい煙草に火をつけて、
「まあ、でも、俺にはそれくらいしかできないんだけどね」
と言い捨てた。
「お喋りは終わりかい」
どこからか、別の声がした。
「じゃあ、あんたには俺が殺しがどんなものか、ちょっと教えてやるよ」
男の声だ。マスターが、口の中で何かモゴモゴ言った。
「あんたが知ってる通りさ。いいか。あんたに死なない理由なんてないんだよ。死ぬのは簡単さ」
聞き覚えのある声だった。
次の瞬間。マスターは声もたてず、その場に崩折れた。
煙草が落ちて、煙を立てた。
しかし、彼の目は二度と見開かれない。
壁の中から浮かび上がるように、殺し屋のアルビノが顔を出す。
「やあ」
と声をかけると、アルビノは銃をしまって、真っ白な顔で会釈した。
全身が抜けるように真っ白だ。
「マスターはどうなった?」
「死んだ」
「何をした?」
「心臓発作だ」
「医者が診ても?」
「医者が診ても。自分でも」
男は口元を歪めて笑った。いや、笑っていないのだと思いたい。
「自分ではわからないだろ。死んだとしても、死ぬことはね」
弾丸が心臓に刺さった。
その弾は誰にも見えない。
見えない網が心臓を握りつぶした――医者が、そう診断することはない。
本人が知るはずもない。
「おまえは何者だ」
しばらくして、俺は言った。
「俺の本名は、アルビノ・カンデ。見てわからないか」
見ただけですぐわかる。
「聞いてくれてありがとう。聞いてもらうのは初めてではないが、聞いてくれる嬉しいものだ」
「あんたは、やはり……」
「いつでも姿を隠せるからって、お喋りな殺し屋なんて最悪だ。静かに死んでもいられない、って言われるよ。いつも。仕事の後はお喋りが止められないんだ。自分でも変だと思うがね。俺がしたこと? ああ、殺しだ。だが。あっちの方で、銃声が聞こえてきた。なんて、通報される心配もないしね。あんたに死の覚悟があるのなら、俺も死ぬ覚悟はあるさ。そして、あんたが望むならいつでも、あんたを殺してやる」
アルビノは、唇を歪める。
殺し屋は笑うのが苦手なのだ。
そして言った。
「『死なないことは、死ぬことよりも難しいことだ』」
だがやはり、殺し屋のポーカーフェイスの中で、その男は笑っていた。
「俺のことも殺すのか?」
彼は首を横に振った。
「ああ。今回、あんたは関係ない」
それから。
「賭金の取り立てだ」
とも。
「これでマリヤの洗脳が解けるのか?」
「俺の知ったことではないが、そいつは別の話だな」
彼は言う。
「戻れることは滅多にない。残念だが」
「残念だ」
俺は言った。
マリヤが、マリヤであることを忘れたカナリヤならば、俺はどんな歌を歌えばいいのだろう?
「まあいいか、あの子もあんたも」
アルビノは微笑した。
「あれは今でもいい女だ。あんたは、あいつの相棒なのか? 失くした相棒を、また会うことになるかもしれない、と思いながら、会うとは言わず、あんたは、帰るべき場所に帰っていくんだ」
アルビノは、マスターの死体をじっと見つめる。彼は無表情のままで目をそらさない。
「心臓麻痺の次は、ガス爆発か?」
と俺が言うと、
「いくら大阪府警が無能でも、証拠は徹底的に隠滅するに限る。賭けはまだ、続くんだ」
アルビノは真っ白い顔に、真っ白い歯を剥き出した。
「こいつは分を超えて賭けすぎた。で、負けたんよ。結局。あんたは生きて帰ったからな。運は賭けの重要な一部。だが、誰かになんとかできる部分もある。賭博のシステム的に、それは胴元も客も全員が認めなければならないことだ。あんたは帰っていいよ。もう用はないだろ。あそこでは、俺はあんたを殺す役目だったが今は違うし。感情で殺すわけじゃない。あんたは運良く生き延びた。ギガアントが、あんたを殺させなかったお陰でな」
「ぎぃーちゃんによろしく」
俺は言った。
「いや、ありがとうと言ってくれ」
アルビノは何も言わずに、白い息を吐き出す。
俺たちの他に誰もいない、こころなしか内装も寂れたような部屋を見回した。
それは、まるで、俺が死んでいると錯覚するような、奇妙な光景だ。ピアノがある。ステージも、今は明かりの灯ってない照明もある。カウンターの背には酒が並び、それが鏡に映って何倍にも見える。
(俺はもう、二度とあの店には戻れない)
そう思うのをやめようと、首を振った。
ピアノが燃えてしまったら、マリヤが悲しむだろう。
『カヌレ』に火が出ないことを願って、俺は地下にお
まだ明るい空の下。
俺は歩いた。
誰かの命を賭けなければならない、俺はそんな賭け方は嫌いだ。
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