第23話

マリヤが回復するのを待って、俺たちはひらかたパークへ遊びに行った。


「……俺が今日という日を待ちわびていた」


その理由は、巨蟻ギガアントのメモを頼りに行動すると決めて、ようやくそれを解読し終えたからだ。


「一緒に行こうか」


「……うん」


(マリヤは体力が落ちても俺の役に立ちたいらしい)


まだおめかしをする気力はなく、俺が髪を梳かさなければならなかったが、足取りは軽く、後ろから肩を支える必要もなかった。


「それ、何て書いてあるん?」


「読めないが、わかる」


そう言いながら、俺はメモを見た。


「……なしてわかるん?」


マリヤは鼻歌を歌うように、興味なさげに訊いた。


メモは、肌色の紙に彫られた入れ墨のようなもので、それが俺の皮膚を刺激して、地図が指し示す方向に、過たず俺をつれていくのである。


俺たちは地下鉄を降りた。


電車の中は珠希の匂いがする。このまま匂いをたどってゆけば珠希のもとに着けるのだろうか。そう思えるような。


地下を進む動く歩道には何の匂いもしない。


風景もない。


ただ、マリヤは時々、何かの残像を見ているようだった。


「……何か見えんの?」


マリヤがメモに視線を落とした。その視線を追う俺も、残像に引っ張られるようで、気が散って、行く先を見失いそうになって、また前を向き直す。


「なんや……て」


「ん……何でもない」


「あ……」


という間に、もう着いた。ここがそう……。


ひらかたパークは素朴を装ったハイテク遊園地だ。


入場口にはわざわざ案内係を配してチケットを確認する。


俺とマリヤは、人垣の最後尾に並んでいた。


そして、そこには今にも止みそうな雨が降り続いている。雲間から光が差し、しだいに細かくなる雨粒が、半ば湯気となって纏わりつく。


マリヤはスカートの裾をつかんで、水気を払った。


ありきたりな外観の遊園地。曇り空に観覧車とジェットコースターのシルエットが浮かぶ。機械じかけのブランコが飛び、ティーカップが跳ねる。


二階建て遊覧馬車から眺めるポップな庭。


今はなき豊島園から譲り受けた年代物のメリーゴーランド。


わざと道に迷わせる看板。


疑似湖に浮かぶ疑似が島。


林立する噴水。


物欲しげなキャラクターが空腹感をいや増す売店。


屋外レストランにひしめくパラソル。


びっくりハウスに続くウォーター・スプラッシュ・サバイバルでは、ガラスと水のきらめきが子供心をくすぐり、動物園とゴーカート場の遠い喧騒が、誰にでもある失われた過去を偲ばせる。


だが、その地下には、何だかわからないが巨大な機械が設置されている。そういう噂だ。


いや、実際には、そんなものはなかったのかもしれない。だが、それを前にすれば……?


遊園地……?


いや、きっと違うのだろう。それがわかる……はずだ。


マリヤは噂の機械にはまったく関心がない。


だからなのか、マリヤは園内を気にして、しきりにパンフレットをめくり、


「入場料は?」


と言ったり、


「チケットの取り方って、何や?」


などと、誰に聞かせるわけでもなく、行列を進みながら、独りで尋ねた。


「お名前は?」


半券を切り取って、案内係が言った。


「片端野獣だ」


思わず答えてしまったが、女は表情を変えず、また言った。


「あなたが片端野獣ですか?」


俺は苦笑した。


「じゃあ、改めて。そうだよ。俺の名前が、何だってんだ?」


「メッセージがあります」


「え?」


案内係が指す横の掲示板を見ると、見覚えのある写真が貼ってある。


「珠希だ!」


「ふうん」


と言って、マリヤもそれを見る。


「どうしてここに?」


濡れた写真は、珠希が残していったものと同じらしい。色鮮やかで、立体的で、今にも話しかけてきそうな珠希がこっちを見て、笑っている。


その写真の下に小さな文字が書かれていた。


『ありがとう』


ここで、なぜお礼のようなことを言われてしまったのか。


「ありがとう、って……何が?」


俺はマリヤと顔を見合わせた。


マリヤの青灰色の瞳の中で、小さな渦巻きがくるくる回っている。嵐の後の空を、雲が流れるように。マリヤが瞬きする度に、膨らんだり、縮んだり、光を放ち、間断なく形を変えながら。


マリヤは、先に歩きだす。


雨はやんでいる。


足音が濡れている。


雲が割れ、空が開けた。


後ろ姿のマリヤの上に光が落ちた。


「あんた、誰や」


マリヤが、俺を振り返って、言った。


「俺は、お前たちが名付けた通りのものだ」


俺がそう答えると、マリヤは、それこそ俺を「カタワノケモノ」を見るような目で眺めた。


こんな目をして俺を見るなんて、それはもう、名前をなくしたら、俺が別人になるとでも言うように。名前をなくしたら、人間が人間でなくなり、人造人間が人間と区別できなくなる。だからなのだ。


人間が蒸発する。名前を捨てて、他の誰かになる。存在が、消えてしまう。当たり前のように消え去って、他のものに紛れ、見つからなくなる。


名前だけ残っていても、他の人格がマリヤを演じているなら、同じことだ。


彼らはいない。


瞬く間に、いなくなる。


しかし俺がここにいて、マリヤが俺の前にいるのは、やはりおかしな感覚に襲われる。彼女がどんな目をして俺を見るか、なんて昨日まで、考えたこともなかった。


「……」


風船が低く飛んだ。


球面が光って見えるのは、実際、空を映しているだけなのか。あるいは空気の密度が変わることで、光の軌跡が見えているのか。


俺は言った。


「なんや、お前も、えらい、姿が変わってるんやな」


マリヤの髪が、湿気で広がり、うなじや肩、腰のあたりまで波打っている。


銀色の滝が落ちる音が聞こえた。


俺が見上げたのは、まるで、水の流れが、彼女の髪の形に変わって、落ちているのか。


と思わせる、巨大な水の塊。


空中に噴き出した巨大な水が落下して、マリヤの頭が、水面に叩きつけられるかと思ったのは、激流と共に水面を撲つジェルボールだった。


中には人が乗っている。


激流に乗った半透明なジェルボールの中で、お客さんは、充填されたジェルが十分なクッションになっているのだろう、上下左右にゆっくりと踊って、楽しそうに目を回している。


豪快な水流と、飛び散るしぶきと、きらめくジェルボールの対比が、息を呑むほどの美しさだった。


マリヤは笑って、


「そうやな。人間って、案外、変わりばえするもんやな」


と言って、頬を緩ませた。


「なあ、あの写真、ここで撮ったんやないの?」


俺は、掲示板から剥がしてきた写真を見て、確かめた。


目の前の貯水池に浮かんでいたジェルボールが、ゴボッと音を立て、水中の大きな穴に吸い込まれるのを見て、マリヤが叫んだ。


「これに乗ろ」


俺はマリヤに腕を引かれ、乗降口に向かった。


乗降口には、同じくらいの背丈の、制服姿のキャストが三人、立ったり屈んだりしゃがんだり、また走ったり、のけぞったり、飛沫を浴びながら忙しく仕事をしている。


俺とマリヤはそれに近づいて行った。


また行列に並ぶ。


「あ、な……なんや、なんや」


頭の上では何本も交差する極太のパイプが天井を作り、配管を圧して流れる水の唸りが、地響きとなって足元から返ってくる。すごい振動だ。


「え、あ、何や、これ。めっちゃしんどいやん」


マリヤは上機嫌で跳ねる飛沫を浴びながら、俺を振り返ると、


「こんなん、なんとも思わんか?」


と、俺の耳元でささやいた。


「思う。思うけど……」


「なんも聞こえへん」


振動圧が拒否反応を無効にするのか?


マリヤは俺の手をそっと握り返し、歩き出す。


「ほんま、ここいらはやべえ」


俺は息を吸い込んだ。


「あんらく」


俺は小さく呟いた。


「し……か」


「あかんねんやん……」


俺は行列の前方で働くキャストを、後ろから見た。


俺もマリヤも、キャストが乗客を見分けるのにいちいち手を繋いでいるか見ているわけではなく、口頭で確認しているのを知りながら、手を繋ぎっぱなしだ。


彼らは手際よくやっていた。


流れてくる空のボールをタラップに引き寄せ、人数ごとに大中小に振り分けて、客を乗せては水上に押し出す。そして、「はあ、はあ」と息をつく。


透明な樹脂の球体にジェルを充填するのは機械の仕事だ。


機械に隠れた反対側では、逆の手順が行われているのだろう。


最初、ジェルボールはゆっくり回転しながら水面を漂っているだけだ。しだいにそれは速度を増す。いったん凶暴な水流に捕まったら、CMを挟むことのない十分間――あとはもう、止まることはない。


ジェットストリームコースターのコースの全長は一キロとも三キロとも言われている。いや、もっと長い。あのスピードだ。五キロメートルは優にある、とも。地下でも、空中でも、コースの大半は閉塞したチューブだが、ところどころ開口部がある。高低差は百メートルに及び、最高速度は秒速二十メートルに達する。空中に射出されれば無重力が体験ができるし、たとえコースを外れて落下しても、ボールとジェルが十分なクッションになって、内部の客が傷つくことはない。絶対に安全で安心なアトラクション、というのが売りだった。


お子様のお客様には添乗員がつくこともある。マリヤはその潜水夫みたいな制服と紫色のサングラス、というかゴーグルだな、それを見て、ケラケラと笑った。


「お待たせしました」


乗車口と降車口は背中合わせになっている。


降りる時は、降車口から。降りる時は、だ。もちろん、乗る時はこっち、乗車口からで、分けてあるのは乗り終えた反応が見えないようにという配慮だが、その方が便利だというのならなおさら、といった話だ。


マリヤは偶然、降りてきたばかりのグループを見つけて、


「うわぁ」


と小さく叫んて、指さした。


衝立の隙間から向こうが覗ける。


若者が数人、魂が抜けたようにフラフラと帰っていく姿が見えた。


全員、顔と髪だけがずぶ濡れで、服がずり落ちかかっているが、身じまいを整える気もないようだ。


マリヤは、意外にのんびりとした口調で、


「これ、ほんまに、やばいやつやん」


と呟いて、タラップに足をかける。


二人用の球体に、まずマリヤが入る。


マリヤは、俺が乗り込むとすぐ、安全ベルトを外した。そのまま、重力に逆らわず、ふわっと身を投げ出す。


内部が一気にジェルで満たされる。窒息する暇もない。


ジェルの正体は緩衝性を持たせるように粘性と弾性を高めた生体培養液で、基本、カプセルホテルと同じものだ。生体には素早く浸透するが、衣服を濡らすことはない。


一瞬、眠りに落ちるような感覚がするのは、露出した肌の部分に、培養液が作用しているのだろう。


ノズルを引き抜くと、機械は俺たちを水面に弾き飛ばす。


俺たちは、二重に液体の中に浮かんでいることになる。我知らず、半睡状態で――眠ると、夢の速度は現実よりはるかに速いから、このアトラクションで過ごす時間もそれだけ長く、高速に感じられる、そういう理由わけだ。


水とジェル、屈折率の異なる二つの液体は、静と動に振り分けられ。


夢は現実を透かし、現実は夢をなぞる。


行為は運命を敷き写し――ジェルボールはコースに沿って周回をめぐる。


チューブの中、いくつもの球がぶつかりあい。


乱れ、跳ね。


飛ぶ。


空中では前を向くことも、後ろを振り返ることもない。


体は何にも触れない。


光と影の乱反射。


ただ、それだけ。


俺たちは、球体の中で、回転しながら。回転する。


球体の周りでは水流が轟音をたてるが、ジェルの中では声もない。


飛沫。水。映像は、球面を滑るように回る。やがて、弾けた。


その、刹那に、俺たちは――


(あれ? おかしな軌道……)と下で見ていたキャストが思ったかどうか。


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