第21話

俺の遺体を引き取りに来たのはマリヤだった。


「あほか、こんなんなってもうて」


マリヤは涙を浮かべた。


「ほんま……、にな」


俺はマリヤの腕の中で、涙に濡れる。


マリヤが俺の腕をとって、胸の前で合わせ、死体袋のチャックを閉じる。「村上少年刑務所の受刑者は、生きてここから出られない」とはよく言った。


マリヤはもう、泣いていない。


ストレッチャーに乗せられて施設の外へ。


白塗りの軽ワゴンの後部に、折りたたんで押し込まれる。


エンジン音に揺られて、俺は眠っていたようだ。


マリヤは車を駐車場に止めて、念のため、エンジンを掛けたまま車を降りる。ハッチバックの後部ドアを開けて、死体袋から顔を出した俺を覗き込む。マリヤの目が鋭く細められた。白とピンクが印象的なドレスをふわりと翻し、俺の横に座ると、


「……何してたんや」


「マリヤ、おいマリヤ、おい、俺は死んだのか?」


「慌てなさんな。なあ、うちの前に顔ぅ出してみ。あの子に殴られて青タンができちょる」


マリヤが指差した先には、死んだはずの俺の顔がある。あの怪力の、彼女に殴られた青あざなんて、想像しただけで、ぞっとする。


「俺、何で殴られたんだ?」


マリヤは俺の顔に手を伸ばし、青灰色の瞳を近づける。


「ぎぃーちゃんが、殺したってことにしちょいてくれたんや」


俺はマリヤと目を合わせる。


「や、あの話、本当なのか?」


「本当も、何も」


マリヤはしらばっくれる。


「うちには、どんな話かもわからんよ」


マリヤは俺の横で眠る。そうするしかないからだ。


ギガアントが俺を殺さないのは、俺の「気持ちが通じた」のだろうが、マリヤが俺に触れないのは、連中に「心を閉ざされ」ていると思われる。だがまだ、体はこれだけ自由に動けるではないか。


「心なんかなくても、俺がマリヤのためにできることは、ある」


俺はマリヤの寝息を聞きながら、一人で言った。


心。


「あ」


マリヤは昨夜、俺の知らないところで……。「人を殺し」ているかもしれないのだ。下郎作家を味方につけたマスター・ショーンの『ファム・ファタル』ごっこで――


「おい、マリヤ」


最悪の殺人は心を殺す、と思ったところで、俺の胸はたまらなく痛んだ。


「マリヤ、マリヤ」


心細くなって悲鳴を上げた。聞こえないくらいの、小さな、かすれた声で。


マリヤが眠ったまま、目をパチリと開けた。


俺がマリヤの頬に触れると、マリヤは目を閉じて静かに俺の体温を感じる。俺の手は、マリヤの髪の毛に触れる。黒みがかった銀色の毛皮のような髪の毛が、閉じ込められた本来の生気を放って、パチパチと静電気を発する。


俺はマリヤの顔に顔を近づけ、唇を寄せてマリヤの唇の上に自分の唇を重ねた。眠っているから平気だろう。


俺はまだ生きている。これから先のことは、難しいかもしれないが、なんとかなるだろう。


マリヤが生きている限り。


この行為はマリヤにも意味があるはずだ。


「何してるん。お帰り」


マリヤが、目を覚まして言った。


「何って、俺の夢の中……珠希と、おまえのことを探して」


目はまだ覚めていない。


「何、ちょっとね、見に行きたかったのさ」


俺はちょっと悪戯心を出して言った。マリヤがはっと息をのむ。


「何やねん、今更」


マリヤは眠たくて、瞼の周りには隈ができ、涙の粒がついていた。


「ここ、どこなん?」


駐車場の向こうに、四人組のビルが見える。


「俺の夢の中、だろ」


「何や、聞いてへんかったん」


俺が、おどけてみせると、マリヤが不思議そうな顔で俺を見る。


「何で、そんな顔しとんねん」


俺は目の奥が熱くなり、思わず後ずさりする。


マリヤが「冗談やろ」と言う。


死んだかと思ったのに、あそこで、何があったか話してくれない。何があったか「見てみたかった」とマリヤは不満げに言うが、俺だって、よくわからないものは話せない。


混乱と恐怖。茶番と失態。全ては、混沌としている。


あそこの名前は忘れちまった。一応、俺の夢の中、ってことにしておくが。


存在が、消えてしまった。あの場所の存在自体が。


俺が死ぬ代わりに、俺の中で、あの場所の記憶が――少年時代から培ってきた自由の幻想が――、死んだのだ。


彼らは何がしたかったのだろう。


目的なんてないみたいだ。いや、本当に、明確な目的なんてないのかも知れないな。ただ自分らの楽しみのために、下郎を増殖させているだけで。


いや、四人組はそれで、しこたま稼いでいるんだろうが。


「四人組は、たしかに金持ちやけど、下郎作家を完全に支配してるわけやないんや。下郎作家を操って、その力を見せつけてやるつもりで、ちょっと看板を張り替えただけやねん。言うとったわ、あいつら。下郎作家どもは、自分たちの世界のルールを何もかも自分勝手に作っとる。下郎作家どもの管理には、俺たちは必要ないんやが、社会からこないな奴らを排除するのには、協力すべき連中がおるて。下郎作家の寄生虫――下郎を食い物にしとるんは作家やないで。こいつらや。裏社会の政治家みたいなもんや」


マリヤが言った。


「四人組を知ってるのか?」


マリヤが俺を見て首を傾げる。


「はっ、何を言いよんのか。と思うたら。うちが言っとることは、全部マスターがしゃべっとるみたいなもんや。洗脳がてら、知ってることを洗いざらい、うちの脳に詰め込んだんや。らがおなごに自分の人生背負わそうっちゅう、ありがちな魂胆やな」


俺は頷いて、改めてマリヤを見る。


「ほん、ま、……いらん知識は強姦や」


そう言ってマリヤは指をさした。


「ほら、あそこにも。ここにも。どこにだって下郎作家がおんねん」


俺は黙って頷き、そしてマリヤが指さす先を見る。


微生物のように細かく細部を蠕動させる大阪の場末の町並みが広がっている。


「そいで、違法な、誰にも、制御コントロールでけへん人造人間を生み続けるんや。自由になんか、なれやせんのに!」


と言葉を切った。


「マスターは、そうやって、命を投げ出してまで――作家が生み出した人造人間を……」


マリヤが指した先には、俺の目の前にいるマリヤと、その後ろに、眠るように立っている珠希の姿。


「殺して……」


呟くような、ささやく声が聞こえた。


「殺したいんやわ――」


俺が、マリヤの言った言葉を、頭の中で繰り返すのか。


「マスターは『自分が死んでも、他人が死んでも、そんなん知ったこっちゃあらへん』言う変態サムライ・ストーカーなんや。『マリヤ、お前が……お前さえいなければ、俺がこんなに苦しむこともなかった』と何度も言うたよ」


マリヤは語気を強めた。


「『俺は、俺の望むことをするんや。それが人間ってもんや』言うて、そないなこと、他の人がようせんのは、そないな卑劣な詭弁に殉じる覚悟が『……まあな。ただ、その覚悟ってのがないだけだよ』と彼は言うんや」


マリヤは泣きそうな声を出す。


「でも、することは四人組と一緒。遊んどるだけや。四人組は乱交パティーが死ぬほど好きなインチキセレブや。下郎作家の秘密を守って稼いだ金で、遊ぶことしか考えへん。どいつもこいつも自分勝手に遊びたいだけや。彼が、そう言うとるから、そうなんじゃろ。もし、うちを連れてったら……」


――つまり、俺はマリヤに売春を強要されている、ということか。


「もう、殺して欲しいわ……」


俺が……殺すと? 殺した方がお得だと? そんな……わけわかんねえ……。


「マリヤ、お前が……お前さえいなければ……!」


彼女は、激しく頭を振る。マリヤの涙は流れる場所を失って、銀髪を濡らした。


「……なんや、あの、お、お……」


それは、悲しい涙だった。


「や……やめて……や」


何の感情も満たさない、うつろな涙。


危険な兆候だ、と俺は思った。


マリヤの口調は、今までにないほど弱っていた。


マリヤがしゃべるのをやめさせるには、胸に触ればいい。大きくて柔らかい彼女の胸に。拒否反応が発動して、マリヤはびっくりして、正気に戻る。マリヤは少し悲しそうな表情で、俺に、身を預けようとするのを我慢する。


マリヤはいつまでも俺の腕の中で身をこわばらせていた。


彼女の体温が、うねるように上下して、肌に触れる度に、まるで、まるで、マリヤが、断末魔の吐息を漏らす気がして、俺の神経が竦み上がった。


それから十分後。


俺はマリヤを彼女の部屋に寝かせつけて、『カヌレ』に向かった。

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