第17話

カプセルの中で目覚めた俺は、服を着て、村上少年刑務所に向かった。


服を着て? そうだ。俺は裸で歩きたい気分だった。


村上少年刑務所に行くのなら、どんな無力な少年よりも無防備でいたい。そう思うのは自然なことではないだろうか。


だが、俺は、俺の服を脱がしにかかる少年の心を拒もうとして、勢いよく、手を振った。


常識のあるふりをしていなくちゃいけないな。


空を見上げた。


良く晴れた空。


白い雲。


振り返るとバカホテルのビルが突っ立っている。


たいしてきれいな建物じゃない。薄汚れた壁には、雑居ビルだった頃の看板の跡が残っている。


だが、まあ、バカホテルに見かけで泊まるやつはいない。


バカホテルのカプセルが生体コンピューターに接続されている、ってのは本当かもしれない。


カプセルホテルで夜を過ごして、俺はそう思った。


カプセルの中の、大洋感情に訴えるその眠りの、海の真ん中に放り出されたような孤独感。

同時に、誰かが側に眠っているような親近感。


そこには俺の友達が、あるいは、俺と同じかそれ以上に恐怖した人間が眠っている。それはどんな奴だったろうな。酒乱男か暴走女か。俺の知る人間は、誰もいない。なのにそいつらは皆、透明で、俺の外側ではなく皮膚の内側で、重なっている。


ネットワークに繋がると、視界が変わる。それだけでなく、あらゆる感覚が、別次元になる。


自分の感覚の変移が手にとるようにわかるのだ。


かつて――と言って、いつのことだろう? たかが数日前だと思うのだが、随分前のことのような気もする。俺がその機能に目覚めた時のその感覚は、まるで自分が別のものに変じたかのような錯覚を与えたのを覚えている。


村上少年刑務所は万博公園の駅そばにあって、太陽の塔も近い。世間のイメージではそうだ。ありきたりな、ガラス張りの現代建築。その写真が、いつだったか、全国更生週間のポスターになったこともある。


しかし、それは観光用の偽装で、実際の村上少年刑務所は火薬庫跡地にある。


駅からも遠い。旧世代の団地を壁で囲って、そのまま少年院にしたらしい。立ち退きを拒んだ住人は、周囲を囲み始めた高い壁に恐れをなして、たちまち逃げ出したそうだ。俺の話は、それを見物しにきた連中の受け売りだ。しかし、まあ、恐怖というものはそんなものなのだろう。


とにかく、俺は憂鬱じゃなかった。


憂鬱ではないものの、少しも気持ちが晴れないことは確かだ。そして俺はあの日から、憂鬱でない憂鬱を憂鬱と誤認している自分の行動履歴を知っている。


要するに珠希はいない。その事実は、もうすっかりと過去のことだ。マリヤのこともそうだ。俺は、彼女らを取り戻す未来が事実になることだけを、求めている。


村上少年刑務所は元々、どこにでもあるが、どこにもない、アモルファスな収容所だった。すべての囚人は、実質的に、その内部にいる。村上少年刑務所は全ての収容所の胚であり原型だ。


俺は、ここにはないものを探しに、そこへ行く。


珠希が「囚われている」なら、手がかりが見つかるかもしれない。


俺の足取りが軽いのは、これが目的だからなんじゃないかと、俺は思っている。


想像より遥かに広大な敷地だった。広大な庭は言うに及ばず、施設全体が、まるで別世界のような巨大な迷路である。もちろん、この場所に、犯罪者の過去と未来をすべて収容する気になれば、それだけ大きな空間が必要なのだろう。すべてと言っても、ここは少年刑務所だから、多岐にわたる犯罪の原型が、実際の犯罪に結合する以前の元素として、輝きを潜めたまま散りばめられ、浮遊しているのである。しかし、俺は迷わず、その迷路のど真ん中を突っ切る。


俺は一人だ。メインタワーに入ろうとすると、


「おや、君は本当に人造人間やね」


看守、じゃなかった警備員は、必ずそう声をかける。来訪者にカマをかけるのだ。


そして、同時に、俺たちがそれを認めて、自分を人造人間と呼んだ瞬間に、自分の着ている服が囚人服であることを確認する。そんなものさ。世間なんて、いつも。


俺の前にいた少年が、俺が声をかけられたことに驚き、俺をじっと見上げて何か言った。


「下郎か」と聞こえた気もする。


俺は無表情のまま、無言で、無遠慮に警備員を見つめたまま、彼に向かって、きっぱりと要件を切り出した。


―――――産業医の紹介状。


警備員は、見るからに渋々ゲートを開けて、俺を通すことにした。


彼は、見た目はもう少し若く見えるが、老人会の派遣バイトだろう。今どき制服に誇りを持てるなんて、とても若者とは思えない。


少年はもう、俺と話がしたくて仕方がないらしい。俺は無視して、別室に入る。少年は、俺の後をついて回った。彼は、やや、おどおどした風ではあったが、無表情のまま、俺のすぐ傍を歩いた。


俺は、少年の目に映るものが自分一人であることを知っているのだ。そして、俺はそれに気づくと同時に、彼の視線の先にあの英雄、ヘリに乗った脱走犯がいると、直感的に見抜くことができる。


部屋の隅で、もう一人の少年が、じっとこちらを見つめていた。


俺は仕方なく、自分の服を確かめる。白いワイシャツと紺色のズボン。これは、囚人服ではなく、ただの私服だ。少年も、そうだろうな。俺はそう思った。


彼は部屋の隅で、一人、壁に背をつけて立っていた。彼の視線の先にいるはずの、さっきの少年の姿はない。俺は、ふと、後ろを見た。鏡だ。鏡の対面にも鏡。俺を見つめる少年の姿が映っている。鏡の前には衣装棚。少年と同じデザインの靴が、靴箱の、一番上の棚に、整然と置いてあった。足跡が、指紋のようにそれぞれ異なる靴だ。誰かが逃げ出せば、すぐわかるように――――俺は少年の服を選ぶ。俺と同じ服だ。着替え終わると、少年は、俺の先に立って歩き出した。


少年と俺の間は、三メートルもない。しかし、その距離感も、少年が鏡に吸い込まれるように遠ざかると、たちまちおかしくなる。足を早めても、どうしても追いつけない。俺は少年に言った。


「おい、待てよ」


少年の背中は、廊下の向こうに、急上昇するヘリのように、遠ざかっているのが見えた。少年の姿が、鏡の中に消える。俺は思わず叫ぶ。


「待てよ、って、何してるんだよ」


タワーを抜けた中庭に、事務所がある。


主棟は、旧団地の建物をペデストリアンデッキで繋いだ、新品の廃墟と言った趣。その正面で、ガラス張りの見栄を張る小さなピラミッド。そこに事務所と、受付があった。


俺は、ガラスの壁に張り付いて、中を覗き込んだ。受付のデスクには、職員が数人。フロアには観葉植物とソファが並ぶ。最初に話しかけてきた少年がいる。少年の後ろには複数の扉。扉には犬の写真が掛かっている。歴代の番犬の遺影だろうか。


俺は小さくため息をついて――振り返った。


「あの子って、番犬だったのか」


今は、廃墟のようなビルの奥、屋上に面した部分が、昔は受刑者の運動場だった。


だから、もう何十年も前の、そんな昔の話と同じように――俺は思う。


廃墟になる前は、この団地も若かった。建物と同い年の人間が死ぬ頃には、耐用年数を過ぎてしまって、いくら補修したところで、衰えは隠せない。建てた人間も、もうこの世にはいない。


「それ、あんまりいい話じゃ、ないよな」


それは俺が生まれる前のことで――


「じゃあ、俺が、番犬だって、どうしてわかったんだよ」


テレパシー。


少年刑務所。


レインコートを着た裸の幽霊。


雨の街角に佇む露悪的な誘惑者――


それは果たして、現在の話だったのか。


俺は、少しためらって、もう一度、ガラス扉の前に立つ。


「……何の用?」


少年以外の人間は皆、こちらに向かって来る。俺もすばやく少年の隣に立って、


「待って」


俺はもう一度、言う。


「あんたたちのことは、知っている」


しかし、書類を出しそびれ、口淀んだ。すかさず、少年が口答えする。


「知ってるも何も、僕、人間じゃない」


俺は、少し、少年の方を見て、少しだけ、微笑んでみる。


「……じゃあ、何なんだ」


「何もしないよ、僕……」


俺の、番犬は、そんな風に言った。


「でも、皆、僕のことが嫌いだって、どうして?」


俺は、寒気がした。


少年は、俺を見上げて言った。


「あの! あなたは、……もしかしてその、……」


俺は刑務所の中を見渡した。少年ばかりじゃない。女性も、男性も、まだ、少年刑務所の中にいる皆は、俺とは、違う。


「やっぱり、下郎なの?」


少年は俺に、白い歯を見せて笑った。


この俺の憂鬱具合を揶揄する者が現れたとしたら、俺は笑おう。

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