第15話
日暮れは早い。空はまだ紫色だったが、雲の黄色が白くなっている頃だろうか。もうそろそろ帰ろう……。俺はまた歩き出す。
帰り道に『スシマサ』に寄った。
俺のいる店は、ネオンの無い、真黒な建物。一階には、何もなく、何の機械もない。
無人にも見えるステージで、珠希が歌っている。ソプラノからバスまで、六つの声が交差する美しいアリアだ。
――俺はこの声をもう一度聞きたかった……。今も昔も何も、耳の底で、俺が求めているのは、この音だ。俺は今、この空間を求めているんだ……。また音楽が鳴り渡る。
でも、珠希はそこにいない。
スシに塩焼きそば。うまい。俺がそういうと、目の前の女は嬉しそうに鼻を蠢かせて笑った。そして、俺の首に手を添えて。酒は好きだが、飲みすぎて、俺はもう酔ったらしい。大阪弁はどうした。
ここは本当にスシマサなのか?
あのクソ野郎どもは? 俺のスシマサに、どうして、あんな酷いことになって、そのまま居座ってやがったんだ……。珠希を、俺は彼女を責めることはできない。
今ここで演奏を続けている彼女の方が、よほど辛そうだったからだ。
瓦礫のようなフロアを埋める客の姿は数えるほど。俺には、ゲスな酔っぱらいと、凸を漁る凹と、あとは賭博で身を持ち崩した半グレにしか見えない。
だが、俺もゲス。こいつらこそ俺の望む所なのだ。今も昔も、変わらぬゲス野郎――、俺はここにいる。
確かに――。
珠希だ! と一瞬、俺は思った。
だが、それは珠希の生き人形。あの時作り上げたボーカロイドだった。
声は口だけでなく、薄い衣装の下の樹脂のボディのそこかしこから溢れてくる。その薄いボディに今、俺の生れた声が染みついて、生の、本物の珠希をまとわせようとしていた。
六つの声が絡み合って彼女の体から発散すると、珠希は、虹のように空中に浮かんで見える。
……珠希は、今どこにいるんだ? 俺はそれを聞くことはできなかった。俺は彼女のことを少し勘違いしていたが、あそこで、客と言葉を交わすことこそが、彼女の素だったんだ。
今、その生き人形に珠希は映らず、それはただの、珠希の生だ――、と、いう、ただの俺の、願望だ。
その表情も声も、全て、俺が作り出した幻、だった。そして俺はそれを知っていた。
だから俺が見ているもので、彼女を騙していた。
俺は馬鹿だ。こんな時にも、俺は何を考えていたのか。本当に馬鹿だ。
もう、何を考えればいいのかわからない。声は、今はもう聞こえない。俺は、彼女を見つけることはできなかった。でも、俺はここにいる。スシマサに――。
彼女は、そこにいる。俺には見えても、そこにはいないはずの……。
D.C.(振り出しに戻る。
今、俺は、この、俺の、生きる場所――。――スシマサ。――珠希の声。――そうだ。きっとここにいる。それは、俺が彼女を見つけるための影だったからだ。
スシマサのステージに移り変わる様々な生。その生に、俺は自分を重ねていた。
珠希のアリアの余韻が消えると同時に、照明が落ち、俺の、途切れ途切れの思考も消えた。
暗闇は、静寂だった。
俺は手探りで楽屋を探し当て、ドアを開けた。
珠希の生き人形を操作していたのは、マリヤだった。
彼女は俺の気配に気づき、そして、俺を無視した。
肌につけた電極のせいだろう、髪の毛が逆だっている。六声も使えばなおさらだ。負荷がかかり過ぎてパルスが逆流したら、痛いどころでは済まない。旧式のボーカロイドは、下手をすると脳にダメージを受けるから気を付けないと。
「なんやの。急に」
彼女は、以前と変わらないように、髪の毛につけた電極に触って言う。
「ああ、ごめん。やっぱり何でもない」
おれは、もしそうなら、髪の毛がなくなってからでも遅くないから、そう言えばいいと思った。
「ほな何なんよ」
「髪の毛ってさ、その、そうだな。いつのまにか、抜けていくんだ」
「え? 抜けて、いかんの?」
「多分、そう。いつのまにかどころか、いつのまにか抜けて、生え変わって、そのままの姿を保ったまま、別のものに入れ替わるんだ」
俺は、マリヤと目が合う。その笑顔も、いつもより何倍も帯電しているように見えた。手を伸ばせば、指先にビリっとくるほどの――いや、俺のそれは、珠希に対して感電するほど激しい衝撃ではないだろう。どこかマリヤを疑うような、俺自身の戸惑いのほうが強い。
「せやけど髪の毛は、抜けたほうが、ええもんないやん」
彼女は、少し考えるような仕草をして、もう一度聞き返す。
「でも、どないしてうちが『マリヤ』じゃないって分かるん?」
そう、その疑問はもっともだった。俺は、少しの逡巡の後、言った。
「……たぶん」
たぶん、としか言えないのは、それはそれ。あの『マリヤ』がいたのは、もう過去のことだ。彼女が、俺を見ていない。それが分かるから、とは言いたくもない。
それは確かだ、と俺は感じる。
「せやろなあ」
マリヤはうなずく。俺も、黙ってうなずいた。その時――がたん。と何かが倒れる音がした。
「あっ」
彼女は髪の毛引っ張られたみたいに振り向き、驚いたような表情を浮かべる。
背後に、さっきのボーカロイドが立っていた。
「珠希!」
マリヤは、驚きの表情で、俺を見た。それから、少し考えて、ニッコリと微笑む。
「あんた、今、何て呼んだ?」
見るからに珠希そっくりだった。珠希の生人形(ボーカロイド)が腕を伸ばすと、微かな、歌声のようなものが、薄いボディから漏れた。
声は、極薄の樹脂のボディに無数にあいた微細な穴を、皮膚呼吸をするように震わせて、溢れてくる。
このタイプのボーカロイドは歌うことはできても話すことはできない。でも、歌だとしても、それは囁くような、押し殺した、ほとんど聞き取れない歌声だった。
マリヤは、俺の手を取って、
「あんた、今、何て呼んだ?」
それが、まるで、珠希のよう。
「……珠希?」
俺は、少し、戸惑った。
「そうや、珠希、珠希。あんた、今、何て言ったん?」
マリヤはボーカロイドを見やって、そう問いかけた。
マリヤの口調は、少しだけ悪戯っぽい。
「今、何て呼ばれてた?」
ボーカロイドは無表情に、小さくうなずいた。「うん。珠希。……たぶん」とでも言うように。それってどういう意味だ? ため息のように、微かな音が漏れる。
マリヤ、お前が操っているんじゃないのか?
「だって、うち。ほんま、そないなことに興味ない言うたやんか」
珠希の生き人形が、俺を、じっと見ている。
俺は、少し、考えた。
「そうか。もう帯電してないな」
俺は、マリヤの髪の毛を、指でいじりながら言う。マリヤは首を傾げて、
「どして?」
珠希が彼女に触れた時、静電気は放電したみたいだ。俺は首を捻ったが、それを声に出したくなくて、言葉を探す。俺も、こんな風に生まれ変わって……
「あんた、うちとキスしたいん?」
マリヤ、お前、俺とキスするつもりか? 歯を当てて、噛んで、血を流すつもりか。あばずれ女に犯された時も――マリヤなら、俺を犯せる。豹のように俺を掴んで、自分の方に引き寄せると、
「やだ」
と、俺の耳元でささやいた。
マリヤは、俺を俺だとは認めない。そんな素振りで、唇を預ける。俺は、それに抵抗できない。キス。キス……。キス。キス。キス。キス。キス。キス。キス。
マリヤの体が、俺を拒否するように痙攣した。
突然、俺から体を引き剥がした。
俺は少し驚いた。マリヤの耳と頬が真っ赤に染まっていた。
それはキスのせいなのか、怒りからか。
「あんた、ほんまは誰やねん?」
と言って、くっ、と唇を噛み締めた。体の自由がきかないのだ。
「なんで連中があんたを狙ろうて、何をしたいんかが、さっぱり分からへん」
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