第12話

その後のことは、ほとんど記憶がない。


危うく殺されそうになるところを、間一髪助かった俺は、ケンタウルスの少女に対して「存在」の礼儀を尽くし、だから俺は今、怪物として彼女の前で座り、俺を見下ろす少女に向けて、銃を構えている。


客に正体を告げないというのは暗黙の了解だったけど、それがなければ、俺とこの女の子はどう足掻いても、すぐにでも、どこかでぶち殺されて、ミンチにされて、腐りきって、汚泥にまぎれ、永遠に見失われてしまったことだろう。


俺はそう思った。


今日は明るい夜だった。満月だったのは昨日か? それは女の横顔を照らすように空に浮かび、俺はじっと見つめていた。女は、俺を見てニヤリと微笑み、俺から視線をそらして空を見つめた。


俺もまた女のように笑っている。


女の肩首がたくましすぎて、頭だけが飛び抜けて小さく見える。


ゴスロリのスカートの下の半身は馬ではなかった。上半身と同じくらい筋肉隆々としたふくらはぎの下には、人間の足が、可愛いハイヒールをはいている。


大きな肩幅から突き出た断崖のような胸には、一羽ずつ、鳥がとまっていた。俺はその鳴き声を数えていた。この鳥たちは彼女の、いや俺の喉元に存在する罠なのだ。


俺が身を潜められたのは、建物の壁にめくれ上がった窓の外だ。とても高い場所にある。足もとのスペースは狭く、壁を伝って見下ろせば、めまいがして地面に落ちてしまうかもしれない。


見つかっても同じ……。音を立てるのは禁物、ってわけだ。


夜空が見える他にいいことはない。


女は窓の縁に腰かけたまま俺を見ている。鳥たちもそれを望んでいるようだった。もしも、鳥に夜目がきくならば……。この塔を建てた者は、きっと天のいたずらとかそんなふうなものに考えている。あとは、この建物が崩れる時、屋根を道連れにするように、俺や、珠希や、マリヤや、下郎たち、人間たち、その他大勢をを巻き込んで、ピアノの鍵盤を端から叩き壊すように、同時多発的な破滅の連鎖が燃え広がって、大阪が灰燼に帰していくのとシンクロすればいいと。鳥たちは俺を誘えと言っているのだ。


一緒に跳び下りてしまえ! と。


スパイとしての鳥の歴史は知っている。その方法は、ただ、人に見つけてもらって、触れてもらうのが目的なのだという。そのうちに鳥は人の世界にすべり込む。いつもそこにいてほしい、そばに来てほしいと、それは人の思い込みであり、この塔の人間は、そんな思い込みをしていないと思う。そして、彼の脳が、鳥であるなら、鳥に触れてもらって人に歴史を見せてしまおうと思うのだ。もし、自分に鳥の魂があるというなら、鳥だったなら、人に触れてもらいたいと思う。鳥は人間の魂を奪って、空に解放したいのだ。


「お前、鳥の魂を捕られたのか」


「いや、捕られてはなかった」


彼女は俺のことを見下ろしながら、そう答えてきた。その顔は今の俺にはわからない。わからないが、彼女の手が俺に触れると、俺を見ていた鳥たちは俺の腕に吸い寄せられてしまった。


「なんでだよ。お前こそ、本当にスパイなのか!」


「ああ、だけど、魂までは捕らわれていないよ」


しかし、この子は私がスパイだ、と自分で思っている。誰に命令されているとも知らないまま、その自由意志を捻じ曲げてまで、そうさせられている、この子を追いつめるのは、本当に危ない。それに、この子は何かを持っているようだった。手に握られた紙に、何かを書いている。


「これで……」


俺が鳥たちに見られないように紙を広げると、その紙の文字を読んでいる俺の目を、鳥たちがじっと見て、何か読みとれるかと、じっと俺を見ている。彼女もそれをその目でじっと見ていた。


上腕二頭筋がひくひくと痙攣する。紙は肌色をしていた。


「何か書いて……、ある。文字……ではないな」


「地図なのか……なんだろう。この四人組のビルから、秘密の通路を渡って下郎作家それぞれに達する、解読不能の毛細血管のような……」


「……なんだろう。書いている紙に人の魂というか、何かが宿っている」


「……なんだろう」


そう考えていると、この子は俺に近づき、その紙を俺に押しつけながら、何かを言ってくる。何を言っているかわからなかったが、唇が震え、彼女の手が、俺の手を強く握ってきた。その手は冷たくて、目は涙にまみれていた。


「この、字が読めるんだな」


くるくると少女の巻毛が月の光に躍り、人形のように長いまつ毛が瞬いた。


「この紙はあなたの魂ではありません。あなたの体、です」


……やっぱり、この子はそう言った……。


そう思って、俺は彼女の目を見て、静かに頷く。少女の体は震えていた。どうしたの、と聞こうにも、目の前にはあの『鳥』たちがいて、彼女はそれには目もくれず、


「……これは、何かの間違いだ……」


と一言言った。


そして、彼女の手が、俺の手を離れ、紙に指を滑らせ始めた。それは、俺にさっき彼女が書いて渡した物だった。


「私の……、なまえ……」


彼女は何かを言おうとして息を切らした。


『私は……、私は、君を殺してはいけない』


この子……一体どういうことだ……。彼女の書く文章は、俺にとって、鳥たちにとって、何か大切なもののようだった。しかし、俺には、彼女が俺に言った言葉の意味がわからなかった。


「ああ、ごめんな」


鳥たちが囀るのをやめた。少女は目を閉じた。


「私……もう、……眠るね。今日は……ありがとう」


最後に、彼女は殺し屋の流儀に反して、「無」の礼を返した。そして死んだ。俺が殺したのではない。


遠隔操作でライフ・ストリームを遮断されたのだ。


賭博場は違法だが、彼女自身は違法な人造人間ではないから、エタることはないが、全うな人造人間には、もしもの時に活動を打ち切るための編集装置がついている。


違法な人造人間を作り出す下郎作家が、証拠を隠滅するために(かどうかは知らないが)、正規の人造人間を使って俺を狩るというのも不思議な話だ。


逆に、その人造人間が裏切って、俺を助けてくれたのだ。俺は少女を助け、少女は俺を助けてくれた。


動かなくなった彼女は眠る女の彫像のようだ。


月が位置を変えるのが分かるほど長い時間、俺はじっとこの光景を凝視し……見飽きてしまった。


鳥たちを掴もうとすると、もう、胸しかなかった。


ケンタウルスの少女の冷たくなった胸。


(鳥たちは残像を残して、本体の機能停止とともに、内部に収納されたのだろう。)


連れの男たちを軽々とぶちのめし、


「私の力ってすごいね、知らなかった」


と笑った、あどけない顔を思い出す。


(賭場の客を安心させるためのボディガードの衣装が彼らを油断させたのだとすれば、それは本当に皮肉な話だ。)


あのまま連れて行かれたら、俺はどうなっていたのだろう。


完全な白紙化タブラ・ラサ


たぶん、そうだろう。


俺は月の光を受けて薔薇色に染まったメモを握りしめた。


俺がここにいる理由……。


四人組のビルから脱出した後、俺はまず、珠希とマリヤの無事を確認しようと思った。


二人は行方不明だった。

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