第10話

俺は珠希とマリヤを連れて、『まぐろ亭』を出て、少し歩いて町外れのアウトレット・ストリートに向かった。


「……にしても、たまげたやろ」


ニュースを聞いた。港で殺された男は手配中の下郎作家だったらしい。


珠希は、笑っている。


「ほんまに……、たまげた」


珠希は平然を装って、そう言った。


「たまきん、あんた」


マリヤが訊いた。


「殺ったんか?」


珠希は、怯えて首を振った。


「まさか、うちの撃ったんが……」


「そんなことあるもんか」


俺は急いで否定した。


「海に向けて撃っただけだし、あそこから、現場からはだいぶ遠い……」


「ほなら、大丈夫やろ。なんや、たまきんが、えろう心配しとるから、びっくりしたわ」


マリヤがそう言って笑った。


「マリヤだって、そんなん信じんとは思うけどな……、うち、ピストルは海に向けとったんやけど、考えてたんは、……違うことや」


「たまきん、……ほんまに撃ったんか?」


「撃ったんよ……」


珠希は、朦朧とした表情で、首を傾げた。


「海面に弾かれて、ずっと遠くまで跳んだのかも……」


俺はあの、海の見える場所に立ってから、ずっと、疑問に感じていることがある。


海が見る者の願望を映すというのは、本当だろうか。


大体あんなに広大で、底知れない水の塊が、ちっぽけな存在の願望を、呑み込みもせず、いつまでも、おとなしく映しているはずがない、と俺は思った。


昼間ならともかく、夜の海は真っ暗で、何も見えはしなかった。

それでも、脱走者がヘリを飛ばして逃げようと思うほどに、人間にとっても、人造人間にとっても、海は魅力的なのだろう。


でも、それは自分の願望が水に呑まれてしまうまでの、ほんの束の間だ。陽の光を反射して、輝く大阪湾の波間に吸い込まれるように、ヘリが墜落したように――


海から、たまらない、死の匂いがする。誰も、海からは逃れられない……。


「あ……、ほんまに、そう……思えるから恐ろしいねん」


独り言のように、マリヤが囁いた。


その瞳は揺れている。


「なんや、マリヤは心配性やな。別に、……心配はしぃへんってえの」


珠希が元気よく言った。


俺はその一言を、どう捉えて良いのか分からない。何か悪いことでも起こるのか? 少なくとも、いま俺のすぐ前の、白い壁にもたれ掛かった彼女は、どこか、悪い方向へ悪い方向へと考えを巡らせるようなところがある。


「拳銃は?」


俺は思い出して、訊いた。


「まだ、……持ってる」


俺が目を合わせると、


「荷物の底に、押し込んどいた……」


「捨てなかったのか」


俺が訊くと、彼女はまた、顔を伏せる。


「捨てとうても出来んかったから……あの状況で。持っといても無駄かもしれへん、……って思いたかった……、わ、けど、そやかてまだ要るかと思うたんよ」


そう言うと彼女は、自分のバッグに手をかけた。


「あかんっ!」


彼女は小さな声で言った……。


「え、何で?」


「スシマサに置いてきてもうた……」


それなら安心だ、と俺は思った。何がだ? いや、それが、何となく分かった。……って、俺がさっき、海の底にいる気分で、スシマサではじまる銃撃を、倒れている人影を、その他にも色々……思い描いていた一瞬のことだ、壁に囲まれて逃げ場もないのを、その上マリヤも珠希も下着一枚ってとこだから……。俺は自分の足元を見た。白い床に、白い紙。何だ? あぁ、紙切れのことか。

紙切れが風に飛ぶ。銃撃の風に……。

白い紙には、未来のことは何も書かれていない。

俺は笑った。

いいんだ。大丈夫。

珠希に笑いかけた。

なるようになるさ。心配することはない。


それから、俺たちはショップを巡って、ボーカロイドの外装を漁った。


店員は、目とか耳とか鼻とか口のあたり、そんなところに取り付け、ボーカロイドをより人間らしく見せる外装を、俺たちに見せてくれた。部品の中には本当に人間そっくりのものもある。しかしそれは、あくまでも人間の模倣品で、本物より美しく、精巧にできているために、偽物臭く見える、というキャラクター・ポーホの法則に従っていた。


「どないしよ」


目移りしすぎて、珠希が迷う。


「こら、ええ出来や。うちも、仮面マスクかぶって弾こかな」


マリヤが言う。


「あかんねんっ! マリヤ、あんたはもう十分……! 貫禄ありすぎや」


「そやかて後ろ頭にもう一個、顔があったら、睨みが効いておもろいやんか。そしたら、もう誰もピアニストを撃てへんで」


「あんたのことまで、誰か分からんようになったら、うちは、……どないしたらええんや」


「なに言うてん! 顔なんか、ただの飾りやないの」


マリヤは灰色の瞳を見開いて、驚きの表情を見せる。


「あ、いま『あかんべぇ』っていうたやんか、こいつ。しょーもな!」


とマリヤは怒ったふりをして、言い捨てる。


「ボトルだけボルドーのウソ『わいん』や」


俺は何も考えていない。


「あぁっ!」


見繕った外装を継ぎ合わせると、それは珠希そっくりだった。


俺はそのまま作業を続けた。無意識に、珠希の身代わりを作っておこう、と思ったのかもしれない。


「これはこれで、おもろいやん」


マリヤは言った。


珠希は模造された自分の顔を、不思議そうに眺めている。


俺は、珠希の、そしてマリヤの顔と、模造品の顔に、交互に視線を投げている。マリヤの銀髪。灰色の瞳と柔らかな笑顔。珠希の頬の血色の良い肌。くるくるとよく動く瞳。その二つが重なり合う。

俺たちが出会ってまだ何日も経っていない。しかし、珠希も、マリヤも、今までも同じ顔をしているはずなのに、どうしてか、別の人間に見える。


しばらくして、マリヤが、


「あ、そやった。この顔、お揃いなん?」


俺にとってこの顔はあの珠希のものだったのだ、と俺は改めて思い知った。それが俺には何だかとても辛かった。俺は俺のためにマリヤの顔を作ってもらいたかったのだ……そう思った。マリヤと珠希は、似ているようで違う。


マリヤの口調は、まるで俺自身が俺だと思っているものを疑うみたいだった。俺は自分の存在に自信がない。まして人を騙せるようなことが可能だとは思わない。


だって、あいつは違うんだ。『それ』は違うんだ。同じ顔だろうと。そんな簡単な理由ではないような気もしたが、俺にはその「簡単な理由」さえつかめない。あの頃と何ら変わらない、ごく普通の瞬間だ。だが、今、この場所でいきなり出会う俺たちは、それどころか、ここでようやく、自分の存在を、世界の在り方を、思い出す。下郎作家がどういうものか、本当のところ、俺はまだ分かっていなかったのだ。


「いいや、もっと悪ぃやん」


珠希が頬を膨らました。


「ほいたらもう、こっちの方がよう似合うわ」


「あかんべぇ」なマリヤの微笑みは美しかった。それはきっと、俺たちに対する気遣いだ。しかし、俺にはマリヤを真似ることはできなかった。マリヤが自然に、何の心配もいらないと振る舞うようにはできなかった。


それがもどかしい。


買った部品を袋に詰めて、俺たちはショップをあとにする。


「後で、『スシマサ』に届けといてな。頼むわ」


俺は、薄暮のネオンを遠くに眺めながら、破れたアーケードを見上げる。

かつて、夕焼け小焼けのその町が、俺の街だった。あれは確か、路地を抜けてすぐの大通りだ。人力車の列が、ネオン看板の下を通って、路面電車の線路の上ですれ違ってゆく……。俺は、誰かに追われて逃げたのだった。それから……。思い出す間に、まるで砂嵐のような黒一色に塗りつぶされていく記憶、そう、俺はたしかに知っていた。

そして、俺が中学を卒業後、就職するのを待って、その町に引っ越し、そこで働いている間、ずっとだ。

それが今は俺の町だ、ということだ。

俺にはそれが正しいことと、そう信じられるほどの現実感を持っていた。


「……なんや」


珠希の声の優しい響きが遠ざかる。


俺は振り返らなかった、振り返ることができなかったのだ。『記憶の中の町、思い出の中の行為』、それが、俺だった。俺は、かつてこの街に生きていた。それが思い出せない。


かつてこの町にいた自分は、その街の記憶の中にはいない、ということだ。それは俺が失ったはずの記憶の持ち主だからではない。俺はきっと、俺自身と入れ替わって、この世界にやってきたのだろう。


それを確かめるために、今一度、街を見に行く。

俺は町に戻る。今日はまだ、俺にとって大阪は新しい町だが、俺の記憶の中の町と同じ形と大きさを持ってはいないはずだ。街の外は荒野のはずだ。


あるいは……。俺が女たちの中で女になってしまったことと、つまり思考が同質化しちまったということだが、あと何が俺の町を塗りつぶしているんだ。


「ごめん……、ちょっと、ぼうっとしてた……」


珠希の声が聞こえてきた。俺は何も考えまいと心決めていたから、その声には答えなかったが、それでも声からは元気を取り戻してくれる雰囲気が伝わってくるようだった。


「しゃんとしいな……ほんまに、もう、なんにも言わへんで」


マリヤに怒られたのか。俺は俺に対して何もしていないはずだが……。それは俺が俺であることを忘れたしまった俺に責任がある。だから、俺は……、俺は何もわかっていない。それでもよかった。行く手には、未知が控えている、だけだ。


「あれれ」


いきなりマリヤの声だった。


俺たちが歩く前方を、白い犬が走っていく。犬は日陰に入ると青くなり、トンネルに入ると真っ黒になって見えなくなった。トンネルを抜けると、川辺りの細い道だった。あたりがどんどん寂しくなっていく。


俺たちは行くあてもない、まるで夢遊病者だ。


珠希のつぶやき声が俺の耳にも聞こえ、俺は振り返ってみる。空の様子が少し違って見える。


「どうした。……もう、戻ろうか」


俺は珠希が指さして言ったものに気付いて立ち止まった。俺の身長の三倍以上はあるコンクリートの壁が川と、かろうじて石灰の肌の隙間から見える街を、完全に隔てていた。


こんな人通りの少ない場所に劇場の宣伝ポスターが張ってある。そして、俺の頭にあの『なにわオペラ座』という単語が飛び込んでくる。梅若炎上歌舞伎の新作のタイトルは『新藤娘』。郭の火事で、嵌め殺しの窓に阻まれて燃えて死ぬ遊女がヒロインの舞踊劇だ、ということがわかる。


「なんか……」


珠希が小さく言った。


俺は炎上先生の言葉を思い出した。


それは、なんたって凄い見もので、場末のライブハウスの演目とは比べ物にならないそうだ。炎の中へ手を入れて何かを取り出したり、逆に高い所から飛び込んで火の中へ身を投じたりといったアクションが大受けするという。


ポスターには『あたし、この劇場、まだ行けません……』と小さな子が、劇場を見上げる絵が載っている。


パフォーマーは燃えても、衣装や小道具は炎に包まれても、自身は必ず戻ってくるんや。ラストシーン以外ではな。

絢爛と燃える衣装が煙を出して消えていくと、その下から、吹き上がる炎! 

炎と共に舞う不燃布の羽衣でヒロインが踊るクライマックスは、藤娘ちゅうより道成寺や。

ほんで、そらぁ炎の中でヒロインが煙を吸うて、窓の外の満開の桜に息を吹きかけるシーンで、終りよる。

舞い落ちる桜を焦がす炎が美しい!


炎上先生はため息をついて、感嘆の声を漏らした。


「ほんまに、……ぎょうさん綺麗なもんや」


「この舞台は凄いね。うち、舞台には全然興味なかったんやけど、場面場面がほんまに綺麗や。舞台の上で演じるおんもがええ子でぇ」


スタッフの女の子もそう言っていた。


炎は万物に公平で、自由だ、と彼らは言うが、彼らが望んでいるのはただ炎による支配でしかない。


その言葉を聞いて、俺はそう思った。


珠希が何か言いたそうな顔をしていた。俺は珠希の手を引っ張り、歩き出す。


突然、珠希は俺の手を振りほどくと、ガリガリと壁に爪を立て、ポスターを剥がしにかかった。


俺は横を見た。ちょうど俺の右手前に珠希はいた。ついさっきと、顔と声の形が全く違った。日没の光のせいで顔が赤い。それで、俺は夕焼けが街を炎で包み、珠希を閉じ込めたまま燃やし尽くすのではないかと思ったのである。


「たまきん、剥げたんか?」


マリヤが訊くと、


「も、少し」


珠希が答えた。


珠希はポスターを一気にひっぱがすと、ビリビリに引き裂いて、マリヤに投げつけた。


「何べん散ったか知らんやが、散んどくれーぞ。散んどくれーぞ!」


歌舞伎のモノマネをして、腕を振った。珠希が振りまいた紙切れが風に舞い、そして、マリヤが声をあげ、珠希の体は宙に踊り、宙を舞う桜の花びらを、俺は両手で受け止めた。


『スシマサ』には戻らなかった。


珠希がこれ以上、炎上パフォーマンスを見たくないだろうと思って。

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