第9話
「スシマサ」は居抜きのライブハウスで、つぶれた寿司屋の屋号をそのまま引き継いでいる。外国人向けの店で、元からカウンターと客席、ステージが設置してあった。
今までも、そこで、時々マリヤがピアノを弾いてみたりしている。
ステージは毎晩あった。飛び入りの公演もある。スシがセット販売でお得だし、安いから人気で、しかも美味い。今は、そんな風にしている。
俺たちが、そんなこんなで、スシマサに行ったことは言うまでもない。
客はまだいない。天井では巨大なファンが音もなく回っている。
楽屋にはショーに使う道具が所狭しと積んである。
「あれ……」
不意に珠希が声を上げた。
マグロの解体ショーに使う巨大な包丁がある。バグパイプと付属のスカート、靴下、帽子などの衣装一式。その向こうの椅子に、外装が取れてむき出しの関節人形になってしまった神経伝達式の旧式のボーカロイドが凭せかけてある。
演奏者が電極を装着して、考えたことを歌わせる。珠希が、試しにやってみる。音が出ない。俺が、人形の頬を、両手で挟んでやる。口が動いて、ブシュー……と息を吐く。よく見ると、髪の毛は、使い古した鏡獅子のかつらだった。
「使えるかな?」
俺は、同じように珠希の頬を、両手で挟んでやる。
ペレレッ
ッペララッ
人形が小さな声で歌った。
珠希が、手を口に当てて、息を吸い込んだ。そして、声を出さずに、歌を歌う。……ブ……ポー……と。人形の首も、歌にあわせるように、首が上下に揺れた。
珠希が笑う。俺はうなづいて、顔の前に手をかざす。ワンテンポ遅れて、ボーカロイドの歌が再生された。
肺はまだ生きてる。
いくつもの声が重なった。
ヨルニナラナイ
カクテルに寄せる五声のマドリガーレだ。ヨルニナラナイは、体が透明になる、っていうカクテル。スシマサでは、客は誰も彼も、こいつを乱暴に扱ったと見える。人間対人造人間ではない。ブーメランのように、客層は、俺とこいつで分けられる。
透明な体に虹色が揺れ、虹が消えたら記憶も消える――
ボーカロイドの歌が終わった。
「いやあ、お疲れさん」
オーナーが言った。
「えらい旧式なもんで、最近の奴らには、うまいこと扱われへんねん」
マリヤが人形に服を着せた。
人形は人形なりに、首をかしげながら手の甲をかざし、口もとに笑みを浮かべているようだ。
「せやけどさあ、これ、どう見ても人間やで。こんなボロっちぃくせに、なあ」
とオーナーは言うと、珠希を振り返った。
珠希は人形の股間をそっと見つめた。
俺は、店を手伝いながら、いろいろなことを勉強しようと思った。
店に飾ってある馬の剥製だって、トウカイテイオーだか、イミテーションだか、俺にはわからない。
俺は、だから、俺が男で、そして人間の顔をしていることも、片端野獣という名前も、マリヤがピアニストで、もしかして人造人間であることも、珠希が無性で見かけだけ女であることも何も気に止めなかった。そして、珠希もそんな俺が気に止めないことを気に止めることなんて一切なかった。
客も従業員も、かならず、俺も女たちも知らないことを知っている。
たとえば、このビルは何階建てで、何階にヤクザの事務所があって、歯医者と弁護士事務所がお隣で、向かいの『まぐろ亭』は定食屋で解体ショーはやっていないこと。俺はどのくらい働けば、給料を貰えるのか。俺はどんな給料をもらって、どんな仕事をしているのか。――もちろん俺の給料は、働き終えるまでは、ただの借金なのだが。
「スシマサは、いつの時代からか、幽霊が出るから、と言って、お客さんはみんな逃げていっちまったんや。今でも、そいつらは時々来る」
オーナーは不思議な男だった。昔の店のバーテンダーだという。
「寿司を召し上がるのに幽霊はじゃまやけど、ライブにはそんなん、関係あらへん。静かな客も必要や。受けへんショーの賑やかしになるよってな。熱狂しすぎるお客さんにはちょうどええ。真夏に空調の効きが悪いときなんか、最高にひんやりしよる」
客の中には、オーナーが幽霊と取引したのだ、と言うものもいる。
俺は、そうかも知れないと思った。
店の冷蔵庫には、俺の知らないビールと、酒の代わりに、煙草が入っている。店内は禁煙だ。冷やし煙草は、幽霊にお引取り願う際に与えるという。どうせ幽霊のくわえた煙草に火はつかない。
俺は、俺のためだけに存在しているのだと思っている。
マリヤや、珠希が、彼女自身のためだけに存在しているように。
幽霊たちはどうなんだ?
何のために、どうしているんだ? 何かをするために、彼らはここにいる。何か他の目的? それってなんだ? 俺はいま、どこにいる? 俺が俺だけのために存在しているならば。幽霊たちも、その何かのためだけに存在するとしたら。
ションベン・マスターがマリヤに執着したように、妄執が存在を
「幽霊なんか、ときどきさえ来いへんかも、と思うこともある」
とオーナーは言う。
幽霊とは、永遠に生きている人間ではない。
永遠に生者を苦しめるものだ。
「たとえ姿を見せへんでも、それはおんなじや」
彼が言ったのは、その事だ。
「俺にも、いつ来るか判らん。だからやねん。備えあれば憂いなし。魚心あれば水心、ちゅうこっちゃな」
オーナーのカタコトの日本語を聞いて、俺は苦笑いを浮かべるしかなかった。こんな古臭い言葉を聞くことももうなかなかないことだったからだ。
俺は、幽霊みたいに何かをするために、ここに現れたのか?
そんなことはない。
俺は、何をするつもりもない。
幽霊を気取っているわけでもなければ、傷跡を残したいのでもない。
少なくとも俺は……。俺は、ただ、そうする。それがなんのためなのかなど……、それは、わからない。俺を、俺のすべてをここに残したいわけではないはずだ。俺は俺、それだけでいいはずだろうに。だが、それが俺だ。俺なのだ。
俺は……それが、わかっているのだ……。
ここに存在しているということは、そういうこと。俺は俺を、そこに置いていく。置き去りにして、通り過ぎる。何が何だかわからないが……、俺は、そうするだけなんだな。
ステージでリハーサルが始まっていた。
全身の毛穴から火を吹いて火の玉となって燃える人はパフォーマンスで炎を操る『Edger&Y』の炎奏者だった。
大道具係の若い衆が、テキパキと大道具を運んでゆく。防火障壁だ。白い不燃布でできている。クライマックスで炎の文字が渦を巻いて崩れ落ちた瞬間に、背景に燃え移るのを防ぐためだ。客は焦げても構わない。
縮れ毛で帰るのはライブのスパイスだ。忌避するのはダサい。
俺はまだ来ていない客のために、席に戻る。
念のため、俺は客席の最後尾から眺めていた。それでも熱い。いや、正確に言えば、それはもう炎というより熱そのものといった様子で。空気を震わせ、切り裂いて、様々な温度の風が飛んでくる。炎が飛び散り、渦を巻いて落ちるのに合わせて。
「あいよー。また
炎上先生はそう言って、汗を拭いた。
これじゃあ、やっぱり、幽霊が必要だと俺は思った。
サーカスに芸術的洗練を加えた『Cirque du Soleil』の一亜種、あるいは手品の火を使って劇を繰り広げるパフォーマンス『CORO』または、俺の知っている言葉で言うと『VASTARS』の三要素は、
人造人間にはできない繊細なアナログ芸だとか。なんでも、人間でないと毛穴に炎を通せないという話だ。そんなものかな。
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