第8話

マリヤは、左目に青あざをつくっていた。


「あの後、客の一人が暴れだしたん。カクテルがな、あんたのが旨いって言い出しよって、ほんで、それがマスターに因縁つけるきっかけになってもた……。とんだ、とばっちりや」


あの屈強なマスターがいて、そんな事が起きるだろうか。俺は思った。


「ピアニストに触れないでください」という貼り紙もあるのに。


「たいしたこと、あらへん」


マリヤには、そう言ってごまかす癖があった。俺は思った。やはりマスターのキーは、カクテルだ。カクテルとは、つまり、状況の変化だ。カクテルが、この男に因縁をつけさせたに違いないのだ。


「ほんでも、あんたらが、無事でよかった」


妙にマリヤの口数が多い。


俺は思った。やはりマスターは――。


そう思うと、俺はマリヤが俺をマスターのところに案内しようとしたのが、なんとなく理解できた。マスターは男の事をよく知っていたのだ。それだけではない。女の事、人造人間の事、ポン引きのことも知っていた。何の事でもよく知っていたのだ。だが、持っている知識は、他人を束縛する。ある時、自分だけが知っている事が人を拘束する道具になる。


マリヤは、自由になりたかったのだろう。


「……ええ気持ちや」


その気持、と俺はマリヤに言っただろうか。


マスターの部屋の扉には……赤いバツ印で『JOYOGE』とあった。俺は部屋の入り口で立ち止まったまま、扉を見つめてしまった。マリヤが扉を開けた。


すべては、もう終わったことだ。


俺は思った。


世界の欲望は、このカクテルで、再び眠りに就いた事だろう。そう思うしかなかった。


俺はマリヤと店を出てから、しばらくそこで、壁にもたれかかって座っていた。珠希は店の中で、静かに男を待つようだった。しかしすぐに店を出てくるだろう。


珠希の話し声が聞こえた。


女の声には女の抑揚と、男の抑揚がある。どちらも綺麗な抑揚のある声、つまり女の声であった。女は女で男の声なのだろう。その女の抑揚と男には、別の人格がある。


珠希の声には二つの性があった。


「なあ……」


俺は、またマリヤに尋ねた。俺の声はマリヤにどう響くのだろう――だがその問いかけは、俺自身に遮られた。


「だから、そのツケは払わなあかん」


また俺に遮られる前に……俺は女と男の声で言った。


「……お前、も、またなんかの……俺はなんかの、代わりなんだろ?」


「そら、ちゃう。そないな訳はあらへん」


マリヤが答えたのだ……それはマリヤにとって、聞き捨てならない問いであったから。


「信じんでも、ええけどな」


マリヤの細い指は、ピアノもないのに、空気を奏で、その音は、俺にもマリヤにも聞こえた。そしてマリヤは微笑んで、指の一本も弾いてはいやしないと、宣言したわけだ。


「あんた……ほんまは、うちなん?」


マリヤは珠希の方を振り向き、そして人差し指で指差した。珠希は、ちょうど戸口から、姿を現したところだった。俺は視線を、珠希の方へと動かした。


俺の声のトーンが、マリヤの抑揚に溶け込んで薄れ、珠希のかすかな吐息さえ、俺の鼓動と一緒に聞こえた。


「なんでもいいわ。うちは……」


マリヤは微笑みながら、俺に言ってくれた。


「うちなんよ」


路地の壁に、朝日が差している。消えたネオンにも。濡れて黒く染みになった壁から頭をもたげ、俺は思わず耳を掻いた。


背後から、声がした。


「ええか、兄ちゃん。そのマリヤちゃんとかいうのには……手ぇ出すなよ……絶対……」


若い貧相な小男が、体を屈め、へりくだるような上目遣いで、俺に言った。


珠希が、一歩前へでる。


「こら、まだ帰るんじゃねえぞ。お前ら、ここに居らんとならんのや」


「ええこと、ひとつ教えといたろか」


珠希が、そう言った。


「うちら、ここにはもう居らん。あいつが、何、言うとっても関係あらへん」


男の手が、珠希の手首を掴んだ。


「あほ、なよなよなめ」


珠希は、男の腕を思いっきりぶん殴った。


「あほやな。うちら舐め腐ってん?」


珠希は、男を押しのけて俺を睨み上げる。


「ほな、行こか」


彼女は自分たちの少ない荷物を詰めたバッグを引きずっていた。


「あ、待っ。おまえ、何で……」


呼び止める俺の言葉を、彼女は遮る。


「え、なんや?」


「持つよ」


「ああ、ありがと」


背後で男がニヤつくように笑った。


俺は急いで彼女の後を追って歩き出した。マリヤがふわりと寄り添った。


「ちょろちょろ歩くのん、よかないやろ!」


珠希が言った。するとマリヤは、ふふっと笑った。


「大丈夫、大丈夫やから」


彼女は珠希の耳元にささやくように言った。珠希は驚いてマリヤを見る。


「ちょ……耳、触んなや」


俺は慌ててまりやの手をぐいと引っ張った。俺たちは小汚い路上で、手を繋いで立ち止まっていた。


あれからは、早足で、三人で、だいぶ歩いた。ここまで来て、どっちへ行くかで揉めて、


「ちょーめんどくせえ!」


珠希は頭を抱えてみせた。


おい、そのギャグはもう古いぞ。誰も知らん。


「ああ、もう、何で、こんなところに来てしもうたんやろ。もう、……最悪」


俺たちが駄々をこねていると、


「あーあーあー」


何処かでターザンの声がする。


珠希は目を凝らして何かを探っているようだ。おれは彼女の真似をして、辺りをうかがったが、何もない。すると店の奥から、


「なあ、もっかい行きまっか!」


「えっ?」


見ると、それはもう巨大なオウムだった。いや、あれはもう、何と表現したら良いのかわからない。俺は鳥の姿をしげしげ見ながら思った。あれは、もう完全に先祖返りして、精悍な獣になったけど、道化師の衣装をつけたカラフルな巨鳥。現代に迷い込んだ生きた化石だ。巨体を支える、二本脚の太さ。広げると、とんでもなく大きな両翼。嘴、目玉、冠毛、そのどれもが異様に大きく、異様なのに身軽そうな体型。俺は思わず笑ってしまった。


「あっ、笑ったっ!」


そりゃそうだろう。俺は腹を抱えて、笑い声を抑えるのに必死だった。


オウムに代わって、珠希はちょっとだけ膨れっ面をして見せた。


はは、面白いぞ。ちょっと、な。


「もう、あんなところにいてええんちゃうー? 何なら、もう行っちゃった方がええんちゃうー、て」


俺たちはまた、歩き出した。あても無く。歩き出したはいいけど、今度はどっちに行けばいいのか。またまた逆戻り……ってわけでもなさそうだ。見覚えのある景色……で、あるような、ないような。

やっぱり俺は、俺が、どこに向かっているのか、見出すことができなかった。


あー、それにしても、と。


珠希は手を組んで、俺の顔をじっと見ている。


「もーっ! あんたさあ、なにをそんなビビっとるん?」


「は、ははん、それよりさ、『これまでの人生を後悔させてやる』っていう約束を守ったお前に、なに言っていいのかわからなくなってきたぞ」


「そんな約束、してへんもん! ただ、こういうときって、『後悔するくらい大事にしたろう』って思ただけやん」


俺は、何の躊躇もなく、珠希が今までの人生を否定しようとしていることを悟った。


まあ、あれもだな。俺は、あんなのにのっかるとかあり得ない、と思ったけど、確かにおかしい気もする。俺は、俺の存在しない今までの人生と引き換えに、自分が珠希にしていることが分かっているのか、なんだな。俺は彼女に言われて気が付いた。


俺が首を傾げていると、珠希は、はぁぁっ、て大きなため息をついた。


「その反応」


俺を睨みつけて言ってくる。


「あんた、わかってんねんな」


俺は呆れたように口元を緩めた。


「まあまあ、そんな怒るな。ちゃんとちゃんと約束は守ってくれたぞ」


と、そこで、目の前に開けたのが水上公園だった。そこには水の上を歩ける水面廻廊があって、マリヤに言わせれば、水の上じゃなくて、水面で遊ぶ。ってところらしい。というか、この光景はマリヤが好きそうな水の街やないか。彼女は幼い頃見た、洪水で水浸しの街並が忘れられへん、と言っていた。


「腰まで水に浸かってな、最初は、行き場も分からんで、好きやとか、嫌やとか、あんときはね、そない思わんかったわ。水が冷たくて。足下がおぼつかんくて、そりゃ、心細いわ、しんどいやら。雨はもう止んどった。そのうち、日が差してきよった。それで、顔をあげたら、水面に空が映っとるのが見えたんや」


空と顔とが直に向き合う。水に映る花壇が鮮やかな、上下が逆転した迷宮の景色。水面廻廊……! ほんとこれ、何なんでしょう? 東インド会社の帆船かな。すっごく大きい船の幻影まで、水の底に透かしている。ちょうど昼時、沈まないベンチに尻を据えて、お弁当を食べる下郎たち! おーっほっほっほっ! と笑い騒ぎながら、そこで遊ぶ人たちが、実際、下郎か、人間かは、はっきり分からない。人造人間の子供が、人間の親といることだってある。下郎なら、不妊治療よりずっと安上がりだ。だが、母親と楽しく遊んだ記憶が本物とは限らない。


マリヤは語った。


その頃にはもう、彼女は自身自分の生い立ちを知って、心の底から『何もかもが終わった、もう立ち上がることもなければ立ち上がれない』と思ったようだ。この街の小学生が一人で出て行くのは珍しいことではなかったから、そのうちには、マリヤも自分が出て行くことはわかっていた。それでもしばらくは、彼女も俺と同じ小学生時代を送るだろうと思っていた。


しかし――今となっては彼女は一人だった。


大水で、マリヤが今まで過ごしてきたすべての環境が、全部真っ白に吹き飛んだ。


うちはいつもとは違う、まるで本当に今ここに私(うち)がいないような世界を見ていたんや。


うちにとってここは――この街は、うちらにとっては大切な思い出の場所やった。

もしもうちがまだこの街にいなければ、きっと別の道を選ぶんやろう。

そう思うと、何もかもがどうでもよく思えた。何もかもがどうでもいい。もう、住人じゃないし、街は水の下や。何もかもがいらない――そう思うと、うちは本当に何もかも――。何もかもほっぽりだして、駆け出したんや。空が映った水の上を――。


そして――マリヤの手は不意に、小さなものに触れた。胸で脈打つ自分の心臓だった。


苦虫を噛み潰す生活が、いつまでも続くものでもない。幸せになるか、死んでしまうか。今は昼飯を食べている下郎のように、いつか道端で動けなくなるか。どちらにしても、人生は決して満足できるものではない。幸せになろうなんて言うだけ無駄で、不幸のどん底に沈んでいく奴でも、沈みながら思いっきりジタバタする。

俺に言わせりゃ、俺たちは、そういうふうにできているし、そうでなくてもそうするし。


だがそれでも、珠希はうなだれない。俺は、珠希に、お返しの言葉をぶつけてやった。


「そうだ、スシマサへ行こう!」

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