第7話
野次馬たちの大半は、俺たちを見る事もない。
今日は満月だ。雲一つない綺麗な夜の月。そんな月光に反射する俺たちを見ているのは、ただ一人、この俺のみだった。
俺たちは港に侵入した。真夜中になって、警察も、報道陣も、関係者も姿を消した。辺りは静寂に包まれている。
そして、俺たちもただ、ただ無言で立ちつくしている。
「ちょい、あんた」
俺の肩をつかんで揺さぶる珠希。彼女の手には、銀色に光る拳銃が握られていた。それを、俺の顔の前に突き出している。
「ちょ、ちょっと何してんだ」
あわてて、身をひるがえす俺。珠希は、ちっとも驚いていないようだった。しかし、彼女の手には拳銃が握られていた。
「こっちのセリフやわ。何、考えとるんや?」
もう一方の手が、俺の頬に押し当てられる。
群衆の記憶。港を埋め尽くした野次馬。墜落現場を取り巻く興奮。ヘリの残骸を血まみれにしただろう、見たこともない脱走者。
そんなものに惹かれたのか、俺たちは店が引けたあと、電車にタクシーを乗り継いで、ここまで来た。
カヌレの喧騒は、もう遠い。
だが、俺は、マスターが言ったことを思い出していた。
「この世には、どんな形でも、そんな人間になるべくして作り出された人造人間がいる。そんなことをあたりまえのように考えている間は死ななかったが、現実は違ったのだ。あいつを死なせるのなら、それが正しいというものだ」
「あいつ?」
「あいつは、……自分とは違うものになろうとした」
「俺は……」
「いいかい、よく聞くがいい。この世にどんな形でも「死」は存在するのだ」
「はい……」
「それは、どんなに苦しんでも、絶望してもいい。存在としてどんな姿であってもいい。どんなに苦痛に耐えても構わない。どんなに酷い苦しみでも構わない。でも、必ず死ななきゃならん。死にたくなんかならない。そのような生き方は絶対にしてはならん。必ず、「死」以外の選択を許されないのだ」
「…………」
「だからまあ、あいつを救う方法は無数にあったはずだ。誰かがあいつを助けてくれる人を見つけて、これこれ此処までだよ、と明確な、死ぬまでの猶予を与えるとか、こいつを殺さないかぎりは、こいつもお前も、誰もそれを止められない。そう誰もが思うほどに、あいつの、ありとあらゆる行動を、過激に爆発させるとか。そんなもので、よかったはずだ」
「うちは……、だから……」
話を聞いていた珠希が、呆然としてつぶやいた。
「しかしそれが出来なかった。……お前には分かっていたはずや」
マスター・ショーンは無慈悲に言った。
珠希が、隠し持っていた写真の束。俺は、ぼんやりとした頭でそのことを思い返す。見るものを酔わせずにはいない、涙に濡れたような、柔らかな、手札サイズの写真。そこに写った彼女の顔の、生き生きとした表情。
俺は、うつろな目で、その答えを口にしようとしたが、結局やめた。
「……スピリタス」
そうつぶやくと、俺の口は、勝手に、あの言葉を放った。
「彼は、下郎じゃなかった」
その言葉を言ったときの、珠希のなんと暗い表情。絶望しい……。あいつもこうだったらよかったのに。俺は今、永続して存在するものへの憎しみ、それしか頭に無い、そんな目をしている。
「……ああ、そうか、わかってたのか」
彼は、静かにそう言って、再びバーカウンターの中へと顔を向け直した。今ここにいる俺は、もう死んでしまったも同然なのだ。そんな事を思いながら、やっと息をしているように、ゆっくりと。
「あいつが、珠希を、作った……」
俺がそう言ったとき、なぜか、
「…………」
珠希は、目を見開き、言葉を失ってしまった。それから。何か思うものがあったのか、やがてその顔から、すっと真剣な表情を消したのだった。
「あいつは、人造人間じゃなかった。人造人間のふりをしていたが……、あいつは、下郎作家だったのだ。あいつは人間のくせに、他人を愛することができなかった。おおかた、それで人造人間のふりをしたのやろう。下郎作家は、束の間の価値しか持たないような、お下劣な、愚にもつかない人造人間を製造することで、限りある生命を讃えている。人間と共に、儚く過ぎ去るものを愛している。だが、心の奥底では密かに、不死性を求めているんや。永遠に生き続ける自分を、何かの形にして残したろうと。そういうものだ。いつも人間は、夢を見すぎる。それこそが、彼の過ちだ」
彼はそう言うや、また目を瞑った。今この目の前に居る俺と、珠希と、数少ない客を包んでフロアに響く、マリヤが弾くピアノの音色には、悲しみが滲んでた。
「おまえが人間か、そうでないか、俺にはそこまではわからない」
俺は頷き、彼が最後に言った言葉を思い返す。
哀れな人形使い! 下郎のふりをして、刑務所に収監されて、脱獄に、失敗して死んだ。
彼は一体何をしようとしたのだろう?
彼の夢、彼の目的は何だったんだろう。今はもう、推し量るすべもないが、そんなふうに考えると、やはり悲しいのだ。彼も、彼と関係した人造人間も。
「人造人間は、人間とは、少し違う」
それは、下郎作家が、
「人間に対する不謹慎な興味をもってして、人造人間を作り上げる。だからだ……」
とマスターは言った。俺は、
「そうかなぁ」
確かにそうなのかもしれない。しかし、彼は下郎ではない……だからなんなのだ。人間の心や記憶なんて、わかりっこない。わからないことだからこそ、怖いのだろう。
想像力が、何もないところから何かを生み出すと言っても、それは、
人造人間は人間から作る。
自分との追いかけっこみたようなものだ
あいつら、何でも言うことを聞く、人造人間なんていう生き物を捕まえる方法を見つけたんだ。
人間のすることは、人間にだってわからない。
「ああ、そうだ。あいつは、見つけた。あいつだけが、あいつのような生き物を捕まえて、どういった方法でもって、あいつを殺すのか、その方法を――」
「おそらく彼は、自分で自分が作った人造人間を殺すつもりだったんだ――それが正しいと思ったんだろう。あるいは……」
きっと、また彼は言うだろう。その時が来れば、きっと彼は、また言うのだろう――彼はそうやって、人間を、そして、「人造人間を、殺せば良かった。俺にはできなかった」と。
それは自殺なのか、それとも……。
珠希が、カウンターの隠し扉を開けた。引き出しを引くと、中に拳銃が入っていた。
「おい、それは」
俺が言いかけると、珠希が手を上げて俺の言葉を制した。
「これは、ちょっと……ねえ」
拳銃を握ると、撃鉄を起こし、彼女は笑った。
「でも、これでもう、撃てる」
マスターは珠希の父親だ。そんなのはただの設定に過ぎないとしても、娘の手から、この危険な代物を遠ざけておくのは当然だったろう。だが、彼は、そんな素振りも見せなかった。
「珠希は……」
「ああ、任せるよ」
「……あの男に、俺は、絶対に復讐したくなりましたよ……」
「復讐……か。それは、そうかもしれないな」
「え?」
「あの男は、自分の娘にしかわからない、とても恐れ多い方法を使っていたからな」
マスターは、カウンターの奥の、照明の影になった部分にさらに一歩退いたが、その前に、ちらりとマリヤに色目を使ったのが、妙に苛立たしかった。
だが、それももう――俺の中の何かが、そう思っている。
「じゃあ、珠希」
珠希は店を飛び出した。
上着も羽織らず、拳銃を持ったまま、階段をかけあがって行った。
俺は、マリヤを見た。
マリヤは一緒に来なかった。
「うちは、よう行かん。こんばんは嫌や」
肩をすくめて、
「二人で行きぃ」
マリヤが顔を伏せた。鍵盤を叩くと、澄んだ和音をねじ伏せて、たちまち不協和音がうねりだし、波が砕け、雷鳴がとどろき、バラバラに散った音が、砂に吸い込まれるように消えた、かと思うと、またいくつかの、透明な和音に収束した。
彼女に追いついて、電車に乗り込む。流れる夜景を、珠希も、俺も、ほとんど見ていない。
ニュースを聞いたのはいつだったろう。
村上少年刑務所で、暴動が発生した。
またもや、だ。マフラーを外したバイクの排気音が、人間の中の野獣を目覚まさせるように、ヘリコプターの爆音がそうさせたのだろう。彼らは、居ても立ってもいられなかったのだ。
同じ血が、俺の心臓にも、脈打っている。
珠希は、歯を食いしばっていた。
ジャケットにくるんで隠した拳銃を、大事そうに抱えて、俺のところにきて、ジャケットの裾をぎゅっと握りしめた。
俺は、珠希の顔を見ながら、ただぼんやりと、そんな珠希を見つめていた。それがどれほど辛かっただろう。何がそんなに辛かったのだろう。
俺はあの男が嫌いだ。そんな男が珠希を作り、マリヤにすがったこともな。
俺は、珠希を見た。珠希は、腕を伸ばし、指を組み直した。
いつ暴発しても、おかしくない。
あれだけ娘を大事の育て上げ、こんな銃までもたせたらそうなっても当然かもしれない……。
俺は腹に一発食らう覚悟を決めた。
それで、こうして、俺たちは夜更けの港にいる。
彼女はもう落ち着いていた。俺に、平気で銃口を向けるほどに、珠希は冷静だった。黙り込んでいたのは俺の方だ。
「何、考えとるんや?」
もう一方の手が、俺の頬に押し当てられる。
高速エレベーターで、
珠希が、俺の目を覗き込んだ。そして、ゆっくりと、まるで吸いつくように口づけをした。それは、俺にしか許されないことだった。珠希とキスすることは、俺から彼女にキスをすることと同じだったのだ。それはつまり、そういうことだった。
夜風が身にしみた。珠希は、少し震えていた。スカートも短く、上着も脱いでいたから。
俺は、彼女を抱きしめた。潮の香がきつい。波のうねりが運ぶ風、海から陸へ向かう風は、今は弱い。
低くなった満月は叢雲が隠している。
夜の海は、船や陸の明かりを反射して、わずかに波がきらめく他は、真っ暗闇だ。
珠希が立ち上がった。
珠希は、拳銃を夜の海に向けて、一発、撃った。
耳をつんざく破裂音。
残響を貫いて、耳に金属音が跳ね返ってくる。
それが、珠希が引き金を引いた証拠だった。
珠希は俺の胸に寄り掛かったまま、もう一発、発砲した。海から銃声。そして、もう一発。珠希はしゃがみ込むように倒れて、俺はそのすぐ隣に座った。
「……大丈夫やって。うちは」
息が上がっている。珠希の胸は熱い。俺は珠希の首に腕を回した。
「うちの方が、あんたのこと、心配やった」
珠希の顔は見えない。月の光だけが雲の隙間から、俺達をぼんやり照らしていた。俺の腕に汗ばんだ頬を埋めた珠希は、顔を歪ませずに、微笑した。
「ほんま。もう……、誰かが死ぬのは嫌や」
明け方の光が、東の空に戻ってくる。
店が開くまで、俺達は、人気のない埠頭のベンチに座って待っていた。ふと思いついたように、
「なあ、珠希。もし俺が、もしもだよ、おまえの言う『普通の人間』だったら……。俺はどうしたらいいんでしょうねぇ」
俺が、そう言うと、
「何や、それ?」
不思議がられるとは思わなかったが、あえて、笑って返す。
「ああ、俺の言ってることは、俺にもよう分からん」
珠希は目を開いた。
「『何となく』って言うのと違(ちゃ)うのやろ?」
その表情は、いつものにこやかな笑みのままだ。
「あの時、あの場所でお前と会えて、本当に良かったよ」
「ちゅうちゅうたこかいな」
そう答える珠希の顔が、俺にはもう、はっきりと見えた。夜の色だった。夜の海の色だった。夜の空の色だった。そう。俺は今更気づいた、夜が明けたんだ。珠希は、どんな昼よりも深い夜。その色が、珠希の心の色をしていた。どんな夕暮れよりも名残惜しい朝、あるいはその逆なのか。
腹ごしらえを済ませて店を出ると、港に野次馬がたかりだしていた。
海の方へ目をやると、巡視艇が波をたたく。その船体に灯る赤いランプ。どうやらご出陣のようだ。ただ白い波だけがはっきり見える。街灯の光が、海の上で霞んでいる……。
船が蹴立てる波の向うでは、まだ暗い青い海が、墨のような水平線で揺れているのだった。
死体が発見されたらしい。いや、その事自体には、別にそんな驚きも、何の感傷も俺の心の中には存在しない。
ふーん。溺死か?
俺は訊いた。
いや、殺しだ。
死亡推定時刻は、深夜から早朝にかけて。
港で発見された死体は、拳銃で撃たれていた。
そうなのか。なんて、そんな些細なことじゃないのを、俺はその時になってようやく実感していた。
「それなら、ここは殺人現場かあ……」
「こんなけったいな場所にはいたないな」
俺たちは、警官が来る前に急いで逃げ出した。
野次馬たちの大半は、俺たちを見る事もない。
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