観察日記

夏の盛りは過ぎ、もう夏の思い出を彩る花は散り始めていた。そこかしこで、何か得体の知れないものを観察する人たちの姿があった。しかし、彼らの姿はおぼろげで、誰も私たちに興味を示してはくれなかった。私もまた、自分が何をしに来ているのか忘れてしまっていた。そして…… ふと顔を上げたとき、私はその少年と出会ったのだった。

「あ」

という短い驚きの声を聞いたような気がして視線を向けると、そこに彼が立っていた。彼も驚いていた。私には彼の驚きが理解できた。彼は私がここにいるはずがないことを知っていたのだ。

私もまた、自分の行動の目的を忘れていた。

私たちは互いの顔をしばらく見つめ合った。彼の目は私の目に映った。それは不思議な体験であった。なぜなら、私たちはお互いに相手の姿を見ることができたからだ。この世のものとは思えぬほど美しい目をした人のかたちをしたものの姿を……。だが同時に私もまた彼の目の中に存在していたのだ。その目が見ているものと同じものが私にも彼にも見えたのである。不思議な光景であった。なにしろそれは、人のかたちをしたものの姿は、私でもなければ彼でもなかったからである。そのとき、私たちの脳裏に浮かんだものはただひとつのものであったに間違いない。それが何であったか今となってはまったく判らないが、私はその時確かにそのイメージを見たのである。

私はゆっくりと手をのばして彼に触れた。その肌の温かさを手のひらに伝えたかったのだが、しかし、それはかなわなかった。なぜならその時には、もう彼の手が私に触れることは決してありえないことだからなのだ。夏は終わり、私は秋の野にたたずんでいる。そう、それは私の行動の目的が決して達せられないことを示していた。

私はそのことに気づいた時、全身の力を抜き取られたようにうなだれてしまった。そしてそのままの姿勢で、彼をじっと見つめた。……それから、いったいどのくらい時間が経ったのか判らなかった。私はずっとその場に立ったまま身動きひとつせずにいたに違いない。なぜならそこには時間の流れがなかったからだ。空に輝く太陽さえも動かなかったのだ。

ただ私と彼のあいだだけにあった時間は永遠へと続いていたのである。私はやがて疲れを覚えた。だから少し休んでみようと思った。気がついたときには夜になっていた。あたりはすでに暗く、星の光が見えるばかりだった。私はいつからこんなところで突っ立っているんだろうと考えたけれども何も覚えていなかった。夢を見ていて、急に覚めたときの感覚に似ていると思った。ひどく現実感のない感じだ。……私はその世界で、いつまでも呆然と立ちつくしていた。……そして突然気がつく。今日はこのくらいにしておこう。

観察者はしばしばに見ることに集中しすぎて自分のことを忘れてしまう。だから君のことを放ったらかしにしたからって、気を悪くしないでくれたまえ。君の名前は? ……へぇ! そうなんだ。そんな名前で呼ばれていたことがあったのかね? ……では君のお父さんお母さんの名前を教えてくれるかい?……ふぅん。つまりそれは記憶を失ってしまったという意味なんだろうね? ……まぁいいさ。それについてはそのうち思い出せる日も来るかもしれないから……。うん? それで、君はどこから来たんだい? ……あっちだよ! ほぉ! あそこに見えている町はあの辺にある町なんだね? ……どうりでよく似てるわけだよ。……それで君の帰るべき家は?

その夜のうちに、私は再び家に戻った。どうやら無事に戻れたらしい。

他の観察者たちは誰一人として、そんな私たちの行動に興味を示す者はなかった。彼らが見ているのは何か得体の知れないものであって人間ではないからだ。だから彼らには私のことなど問題ではなかったのだ。彼らの目に私が映ることはなく彼らは彼らを見ているだけだからだ。それにたとえ、彼らに興味があるとしても、彼らに声をかけられる者はまずいない。なぜなら、それは人ならざるものであるという以前にただ単に見ることに憑かれた恐ろしい化け物であるにすぎないのだから……。彼らは私のように好奇心を満たされたいと思うことはあるまい。だがもしも、そんな気持ちを持ったとするならば、そのときは誰かが教えてくれるに違いない。君たちはもう死んでいるのだと。だからもう生きているものに興味を持つ必要もないのである。

興味なんか何もないのに見続けるのは、まるで何も映らない鏡の中をのぞき込むようなものなのである。彼らは彼ら自身のことを何も知らないし、知りたくもないので構わない。それはもうすでに終わった過去の世界なのだ。

でも私たちは二人だった。私の目は今なお美しく輝く彼の姿を見ることにさえ慣れてしまっていて、帰還できたことの幸運にさえ気づかなかった。彼はそこにいて、私はそれを見失うようなことはなかったからである。私たちがともにいる限り私たちの世界は存在しつづけるはずだった。私たちは、お互いの目を通して自分たちの住む世界を見ることができたのである。それはまさに、私たちの想像する世界、花咲く野原の鏡像だった。

夏の花が散り落ちた草原で、私はたった一人で立っていた。あれだけいた人たちの姿はどこにもない。みんな消えてしまったようだ。

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