「…ん……、んん……」


君は僕の水筒の水を全部飲んでしまった。僕だってのどが渇いているのに。


「あなたは誰?」


なのに君は、僕のことを知らないふりをする。


……きっと夢に違いない。だから僕はそう信じて、見知らぬ世界に旅立っていった。


「僕のこと、知らないっていうの?」


君は少し、意地悪だ。君がいつも飲んでいた水を、僕が飲み干してしまったから。


そんなこと、あるわけない。君が僕を求めるのが、水のせいだなんて。


「僕、君のこと、好きなんだけどなぁ……」


……それでも。


「……知らないなら、知らないっていうことを、教えてあげるよ」


僕は言った。


「あなたは、私になにをしてほしい?」


すると、君は、その黒っぽい艶やかさを、僕に見せてくれた。


「……なに……? 何がしたいの?」


君が、そんなふうに僕を、愛してくれているなんて、とても信じられないことだった。


「ねえ、教えて。私になにを求めているの?」


……なんて。


「僕は……、僕は、……君を知らない。だから、もっと知りたいんだ……」


僕の問いに、君は、少し、意地悪な笑みを浮かべた。


「……知らないなら、知らないっていうことを、教えればいいかな?」


「それは、さっき、僕が言ったことじゃ……」


そう答えながら、僕は、その答えが正しいかどうか、迷ってしまう。


「じゃあ、教えてほしい、僕らはこれから、どんなところへ向かって行くのか?」


「いいよ」


僕は、その、あまりにも唐突な、返事に戸惑った。


「知りたいって、言ったよね。代わりに、あなたは私になにを教えるの?」


僕は言った。君がいつも飲んでいた水を、僕が飲み干してしまったのは、君を呼ぶためだったと。


君が眠る僕の横に、腰を下ろしたのは、僕が君を呼びたくて、呼んだから、でも。


君がこの夏、僕の前から姿を消して、しまったのは、君が、僕が飲み干した夏の、溢れる水、だったから。君が僕を呼ぶのは夏が終わり、秋になったからだったと。君がずっと、そうしろと言ってた通りに。


「あのさあ、僕は……君にとって、何だった?」


「それじゃあ。聞かせてよ。あなたが、私になにをくれたか。それは、私が知らない私の話、私も知らない、あなたも知らないことよ」


「僕の話? 君の話?」


今日、それが、君への、最初の質問だった。僕は君に会うために、あの果てしなく黒い空間へ、君を送り出したんだ。君はすっかり黒く染まって。君の声、それが、僕に届いたかはわからない。それでも。君は。この夏がくる前から、僕のことを、ずっと見てきたはずだ。だから、君は。僕を愛している。


ここへは、最初、君に会いに来たわけではなかった。


ただ、虫を追って、森をさまようために、木漏れ日と影の間の、あの深い黒い空間を、次々に飛び移ったに過ぎない。


あの日、君は、あの青い空の下で、冷たく、澄んで、滴り、流れ、溢れ返っていた。


その美しい透明は、あの日からずっと。僕にとっての、一番。何ものにも代えがたい。


僕は、貪欲に、君を飲んだ。のどを濡らして。いつまでも、飲みつづけた。


君は、僕の前に現れて、僕の横に座っていた。水に映る影。君の、黒々とした艶やかさ。緑の葉陰の黒。そう。その色は、僕にも、君にも。水の中にも、映っていた。


緑の葉陰で、影が重なる。そう。僕は、君を抱いた。君のそばに、僕がいないと、君は安心して、溶けて、姿形を失って、どこまででも流れていってしまいそうだったから。僕は。僕は、きっと。いつまでも抱いていよう。そう思った。


君の体、僕を抱き締める、君の肌。僕の体。


君はきっと、僕のその美しさに、溺れてしまうだろう。僕も。君のそばに。君の影に。ずっと。ずっと。


だって、君は泉の妖精。僕は、ただの人間だったから。


けっして、相容れないものが、惹かれ合うのは当然だろ。どちらも思いが、強ければ。いっそう強く。


君がなにか言ったのは、夏の終り。君の声が、やっと、僕に届く頃だった。蝉の声が静まって。


僕がまた、ここに来たのは、君に逢いたいと、思ったから。君のことを、もう一度、飲み干したいと思ったから。


そう思った。君のそばにいたい。ずっと、ずっと。そう、思った。君の瞳の奥。黒い艶で満ちていたその部分に。隠れるように。


「私は、何も覚えてないよ。水は、一時いっときも、同じじゃないもの」


君は立っていた。僕は、ほら、あそこに、いたんだ。


「なに、してたの」


君が、僕を見上げていた。その目に宿るなにか。それはきっと、僕の体だった。君の長い前髪に、僕の髪。絡まって。その黒い艶やかさは。まるで、僕自身のように。逆らうことができず、引き合って。水の底に落ちていく。水は。泡立ち、飛沫を上げて、流れても。湧き上がって、尽きることがない。


「あなたは、泉を見つけたの。だから、あなたも、水になった。違う?」


きっと、君は水だった。海でも、空でも、土の中でも。君は水だった。湧き出し、溢れる水だった。僕は影だった。それでも、僕は水だった、と思った。泳ぐ影。揺らめく。水の影。影も水だ。


「私の髪、知ってる?」


君は言った。


「あなた、私の前髪を嗅いだもの。夏の匂いがするって。私の髪、見たのでしょう? 私は髪の毛しか身に着けてなかったのだから。そして、あなたは、私を飲んだの。ねえ、そうでしょう?」


君のいない夏の間、君が、僕の前から離れて、あの深い黒い空間に消えた日から。僕はずっと渇いていた。


水が欲しかった。君がくれた君の影だけが、水になったように。ずっと。その感覚を、僕は、水が欲しいと思っていたんだ。


「ねえ、私と、付き合ってくれない?」


君の口から、ため息のような、君の声が漏れた。心ここに在らざるような。


「君は、僕と、付き合う?」


その戸惑いの表情を、僕は、まだ君に、見せていただろうか。


「でもまだ、僕を、沈めてしまわないでよね」


僕は言った。


「僕はきっと沈められないけどね」


君は少しだけ笑うと、


「一緒に水になって。私もあなたも、水になればいい。永遠に、一緒に泳ぎたいのよ」


その透明な笑みが、僕は好きじゃなかった。それは僕の知らない夏の色だった。君は、もっと別の夏を知っている。そんな気がしたのだ。


女が立ち上がった。


影が、なにかの形をとって、髪の毛が解けるように、下に落ちたようだった。


音を立てて落ちる葉が、浮かぶように、漂うように。その感覚は、不思議としか言いようのないものだった。


それが静まると、君の、足元にうずくまったものが、頭をもたげた。


鏡のように、顔は明るい。そして、とても美しい……黒くて、澄んだ……僕と同じ目をもつ少年。


彼は僕。僕と同じだった。僕は。影から、這い出るようにして、水の中に。


夏の夜に、僕と彼は、互いの髪に触れた。涼しくなった影の中で。水に濡れて、流れる髪。


「それは、私のもの、乱暴にしないでね」


女は、笑った。影の向こうから、その声。影はすぐに消えた。


夏の過ぎ去る匂いがした。


「知ってるよ。知ってたんだ。水の色が、違うから」


僕は絶望して、言った。


影と水は一緒に、君たちの周りに、浮かんでいた。緑の葉陰の黒い空間が、星の色に染まる。僕は、君の影に。君は、僕の影に。


でも、それは、僕じゃない。


長い黒い艷やかな髪の女が、微笑んで僕に言う。


「もう、さよならを、言わないでいいの」


君の言葉のすべてが、すべて真実なら。すべて嘘なら、と考えてみる。


僕は僕で。君は君のままで。君の影の、艷やかな髪が。君の姿が、僕の影に。重なって。


でも、もう遅い。


君は、また消えてしまう。それは、きっと運命で。


僕は、君が、僕の目の前に現れるまでに、ほんの一瞬、目を閉じたんだ。


「あっ」


と少年が声を上げる。


彼は僕を見て、びっくりしたように言う。


「おい。おまえ、その白髪しらがどうしたんだよ」


僕の髪を、手でくしけずると真っ白だ。


「どうしたんだ、僕は?」


……なにもかも、消えてしまった。


落ち葉が積もる下。腐葉土から滲み出す水は、ごく僅か。


水の色は黒い。手を浸しても何も見えない。影もない。


僕の顔も映らない。


僕は、死んだんだ。

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